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一万回で初めて、彼の小指が私の指に絡み返した――魂の位相だけが、今世だけ違う

魂の指紋は発動した。残りは七十時間で彼を玉座に押し上げ、私が死ぬだけ――と、思っていた。

 紙一枚の距離で止まっていた指が、やがて離れる。離したのは彼の方だった。


 将軍は視線を落とし、差し出された紙を一度だけ強く握って、机の端に置いた。それから副官の方へ目をやり、短く告げる。


「考える時間が要る。三十分、席を外す。この者は、留め置け」


 部下が短く了承し、彼は幕を出ていった。私の顔を見なかった。見れば、何かが決壊する気がしたのだろう。有能な指揮官の自己制御だ。私はそれを評価する。同時に、観測記録に一行足す——既視感、軽度の動揺、撤退判断まで九秒。上出来だ。


   *   *   *


 日が暮れる頃、私は野営地の端、炊事場の裏手に一人で立っていた。約した三十分はとうに過ぎている。将軍はまだ戻ってこない。彼が、私の情報を疑いから確信へ落とし込むのを、私は待っている。副官は伯爵家私兵の伏兵確認から戻り、主に何事かを報告している。百五十人の伏兵が、まさに地下聖堂に存在していたと、彼の顔色が物語っていた。これで私の言葉の残り半分も証明された。


 胸の奥で、工程表を広げる。第一稿は屋敷で引いた。第二稿は、今日一日の観測で精度を上げる。


 第一点、時刻。七十二時間後、革命は成功する。彼は旧王を退け、市民に戴冠される。戴冠の儀式が終わる時刻——夕刻の鐘が五つ鳴る瞬間。その瞬間に、彼は最高権力者になる。私の器の使用期限も、そこまで。


 第二点、場所。彼が最高権力者となった直後、旧体制の残党による暗殺未遂が起こる。史実では彼に刃が向かうが、私は彼の前に立つ。王宮の大広間、東側の柱の前。暗殺者は六歩の距離、石畳の上で私を刺す。致命までの間隔が計算上三十秒ある。


 第三点、愛のピーク。刺された私を彼が抱き上げる瞬間。彼の胸の奥で、彼自身も知らない感情が噴き上がる。既視感の正体が、その瞬間に初めて彼の中で像を結ぶ。その情動の最大振幅が、熾火回収の理論値となる。


 完璧な死の設計図、第二稿。私は心内で設計図の角を折り、閉じる。


 ただし、設計図には副次工程が一枚、挟み込まれている。


 商人ゴルヴァス。前世、私を反乱軍に売った男だ。今世でも同じ顔で、同じ取引をしている。昨夜のうちに、彼の内通経路の証拠は、署名入りで反乱軍の副官の机に届けた。明朝、ゴルヴァスは自軍の幕内で裁かれる。革命の祝杯に、彼の名はない。


 帳簿、清算済み。


   *   *   *


 朝、野営地の空に薄い曇りが落ちていた。作戦決行まで、残り六十時間を切っている。指揮幕の方向から、伝令が私を呼びに来た。


「東門作戦の修正案を、採る」


 将軍は短く告げた。眠っていない眼の下に、薄い影がある。ただし指揮官としての瞳の奥は、冴えていた。


「補給路の内通者は、昨夜のうちに動いた。伯爵家私兵の伏兵も、お前の情報通りだった。副官に確認させた。——お前の情報を、採る」


「半刻で、実地の配置に落とす」


「頼む」


 たった一言。一万回の観測で、彼が『わかった』と応じてきた中で、最も短い。言葉を削げる将軍は、それだけ優秀だ。ただし、私の応答速度に、彼の眉が一度だけ動いた。半刻、という答えに対する照合。前世の彼は、同じ答えに眉を動かさなかった。——微かな不一致。記録には残すが、作戦の主題ではない。


 天幕の中央、机を挟んで私と将軍が向かい合う。地図の上で視線だけが交差する。私は前哨・斥候・伏兵の配置を、地図の表面に指で描き変えていく。反乱軍の三番隊を東通路の北側へ迂回させ、伯爵家私兵の百五十人を、挟撃ではなく陽動で引き出す設計。


「通路図を見せてくれ」


 将軍は、机の端の通路図へ手を伸ばす。私の右手も、同じ場所に伸びた。


 紙の端で、指先が触れた。


 ——小指。


 一拍、そして僅かな延長。前世の観測値は、〇・三秒で離す。今世の彼は、〇・〇三秒だけ遅い——一万回の体感が、その誤差を拾う。小さい。しかし、規格の外側だ。——たった〇・〇三秒。その数値が、私の設計図を、初めて震わせる。


 視線が、紙から上がって、絡む。


 将軍の瞳の奥で、既視感の色が深まっていた。過去一万回の観測で、彼の瞳の奥の既視感は常に安定した深度を保ってきた。私の工程表の基礎定数は、その安定に依存している。しかし今世、その深度が、規格外に沈んでいる。


 ——記録。視線深度の逸脱、基礎定数比〇・一二超過。——この数値が、私の基礎定数の書き換えを、静かに要求している。


 ——小指。紙越しに触れている指先の温度が、彼の体表の平均を〇・一度、上回っている。本人も知らない内部反応。情動の熾火は、まだ燃えていないはずだ——愛のピークは、まだ二日先。なのに、末梢が先に熱を帯びている。


 ——記録。温度応答、基礎定数比〇・一度超過。規格外。——指先に残る熱が、私の呼吸の拍を、わずかに、狂わせる。


 私の側の指も、体表の平均から、〇・〇三度、外れている。その数値を、私はまだ、帳簿の観測対象の欄にも、観測者の欄にも、書き込まない。——書き込むかどうかの判断自体を、今日、保留する。


 将軍が、ほんのわずか、指を動かした。


 意図した動きではない。訓練された指揮官が、理性の制御下で行う動きではない。小指が、私の小指に、一度だけ、絡み返した。


 半拍。絡み直すでもなく、離すのでもない、中間の速度で。彼の脳は、それが自分の動きだと認識していない。無意識の下で、体が先に動いた。


 ——記録。無意識運動の発現、前世観測例ゼロ。


 ゼロ。一万回の観測で、彼の側から私の指に先に絡む動きは、一度も記録されていない。常に、私が仕掛ける側。彼が反応する側。今世、その順序が、一度だけ逆転した。


「——……悪い」


 将軍は、短く呟いて、指を引いた。引き方も、いつもより遅い。


「いや」


 私も、短く返す。彼の顔を見ない。見れば、観測データが情動で歪む。設計者は、情動で歪んだデータを記録しない。


   *   *   *


 日中、部隊配置の落とし込みは半刻より速く、二十分で終えた。反乱軍の副官が三人、東通路の北側へ迂回する経路を確認する。伯爵家私兵の陽動を誘う地下聖堂への入口も、予定通り私の地図に収まっている。作戦会議の間、私は何度か、将軍の指先を視界に入れた。彼は、朝の一瞬を、もう再現しない。訓練された指揮官の自制が、ふたたび前面に立っている。——表層は。


 夜。野営地の炊事場の裏手。私は一人で立つ。月は、昨夜と同じ位置にある。暦は、いつも通り正確に進んでいる。——ただし、暦以外の何かが、今世は違う。


 胸の奥で、工程表を広げる。私は新しい変数を、行に追加する。


 ——観測対象、位相不安定。


 ——魂の指紋発動時の遅延値、基礎定数比〇・〇三秒超過。


 ——視線深度、基礎定数比〇・一二超過。


 ——小指の温度応答、〇・一度超過、規格外。


 ——無意識運動の発現、前世観測例ゼロ。


 五項目。一万回の設計基礎定数から、すべて外れている。


 ——魂の位相が、今世は違う。


 この異常は、愛のピーク位置を動かす。彼の側の振幅がここまで逸脱しているなら、同期の瞬間は、私の予定より早まるか、遅れるか、どちらかに、ぶれる。完璧な死の設計図は、基礎定数そのものの書き換えを、要求している。


 私は目を閉じる。器の眠気が、意識の片方を引き寄せる。今夜、私はもう一度、狭間へ接続する。そこで、アズラエルに、この五項目を突きつける。


 ——今夜、狭間で、問い詰める。


 残り、四十七時間。熾火回収の最終工程まで、あと二日を切った。誤差の重みは、刻一刻と、増している。


 このまま進めば、愛のピークの同期が、外れる。同期を外した熾火回収は、損失率を、一気に上げる。——一万回の設計図で、ピークを外したことは、一度も、なかった。


 今世、私は初めて、自分の帳簿が外す側に回る瞬間を、計算に入れ始めている。

魂の位相が、今世は違う。一万回の観測にない振れ幅――この違和感を、今夜、狭間で問い詰める。

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