アズラエル、告白。――『私も、かつて、契約者だった』
三つの輪が外れ、ひとつが残った場所で、観測者の縁は、退く場所を、もう、持っていなかった。
一万世、私と彼の外側で揺れ続けた、その縁が、この朝、初めて――。
三つの輪が外れ、ひとつが残ったその場所で、観測者の縁は、まだ、葦の縁の青さの上に、薄く、残されていた。
残された縁は、退く場所を、もう、持っていなかった。
一万世のあいだ、観測者の縁は、いつも、私と彼の外側で、揺れていた。検収のたびに二度、三度と数えた揺らぎ。ひとつ前の世の終わりで、止まらなくなった震え。この朝、私の葉脈がほどけ始めた拍で、桁の上では数えられなくなった揺れ。
今、その揺れが、鎮まっていった。
鎮まる、という方向へ、観測者の縁が向きを取るのを、私は、一万世で、初めて、見た。
揺れは、ほどけていく私の葉脈と、同じ速さで、震えてきた。その震えが、今、ひと筋ずつ、止まっていく。
止まった縁の内側で、観測者の輪郭は、固定された一枚の縁のように、静かに、保たれた。
——揺れが鎮まることが、何かの、前兆だった。
鎮まった縁の奥で、観測者の身体の、いちばん深い場所の重みが、こちらへ、向きを取り始めた。
* * *
「観測する」
観測者の発話は、いつもの無機質の拍で、葦の縁の青さの上に、置かれた。
置かれた拍の、その次に——観測者の語彙の、どの欄にもなかった主語が、続いた。
「——私も、かつて、契約者だった」
契約者、という名詞を、観測者が、自分の側に、引き寄せた。
一万世のあいだ、契約の主語は、私だった。観測者は、その外側で、刻限を告げ、純度を計り、結線を維持する側に、立っていた。
今、観測者は、自分を、契約の内側の主語として、置いた。
主語の置き換えは、観測者の縁を、揺らさなかった。揺らぎは、もう、鎮まっていた。揺らがない縁の上で、その一語だけが、固定された重みのまま、保たれていた。
*
「報告する」
観測者の発話は、報告の拍のままだった。けれど、報告される事実は、観測者自身の、いちばん奥の欄から、引き出されていた。
「——一万世より、前。私は、別の世で、ひとつの魂と、共鳴契約を、結んだ」
別の世、という語の縁が、葦の縁の青さの上に、降りた。
「相手は——」
観測者は、ひと拍、止まった。
「——そこにいる男に、似た、別の魂だった」
彼の意識の縁が、私の方角へ、寄ってきた。
ひとつ前の朝、観測者の身体の奥に、ぼんやりと揺らいだ人影が、あった。頬の角度も、肩の傾きも、薄い唇の開きも、彼に、似ていた。けれど、その手の指は、彼の指より、短かった。
その人影が、観測者の、かつての、相手だった。
彼に似た、別の魂。その輪郭を、観測者は、自分の身体の、いちばん深い場所に、一万世、抱えてきた。
「私の契約は——」
観測者の発話の拍が、報告の桁から、初めて、外れた。
「——完成しなかった」
完成しなかった、という動詞を、観測者は、自分のものとして、告げた。
「相手の魂が——契約の、前の、ただ一度きりの生の段階で、消えた」
消えた、という動詞の縁に、次の朝への向きは、なかった。
一万世、死は、いつも、次の器への入口だった。刃も、病も、海面下の青さも、そのたびに、魂を、次の朝へ運んだ。
観測者の相手の魂は、その入口の、手前で、消えた。次の朝へ、運ばれなかった。どの世にも、二度と、現れなかった。
契約の前の、ただ一度きりの生。一万世、私の夢の泉のほとりに、薄く、立ち続けてきた、あの最初の生。その段階で、観測者の相手は、消えていた。
彼の意識の縁が、私の方角へ、寄ったまま、止まっていた。
止まった縁の奥で、彼が、ひとつの重みを、量っていた。
観測者の、消えた相手は、彼に、似ていた。似た魂が、最初の生の段階で、次の朝へ運ばれずに、消えた。その消滅の輪郭を、彼は、自分の魂の、いちばん深い場所で、薄く、なぞっていた。
なぞった縁に、彼は、言葉を、置かなかった。置かないまま、私の背を支える腕の力が、ひと拍、深くなった。
*
「観測者として、残った理由を、報告する」
観測者の発話は、また、報告の拍に、戻ろうとした。戻りきらないまま、続いた。
「——契約の、不完全な終わりを、私は、別の二人で、観測し続けるため」
別の二人。私と、彼のことだった。
一万世のあいだ、観測者は、私たちの外側で、計ってきた。けれど、ただ計っていたのでは、なかった。
「——いくつかの世で、私は、結線に、手を、入れた」
手を入れた、という動詞を、観測者が、自分のものとして、告げた。
草原の世。彼が、私を、戦場で投げ飛ばし、二人とも、生き延びた、あの夜。結線は、開かなかった。
その夜だけでは、なかった。神殿の屋根の終わり、嵐の海に彼の船を預けた、あの世。私の死の後、結線の確認は、遅れた。一万世、ひとつの数に収まっていた結線が、あの世から、別の拍を、持ち始めていた。
「あの戦場の後、私は、お前たちを、四十年、老いさせた。——老いた後の自然死を、契約の成立として、私の裁量で、認めた」
成立の機序を、観測者は、あのとき、告げなかった。告げないまま、「成立させた」と、だけ、宣告した。一万世、私が辿れなかった、その一行の答えが、今、観測者の側から、置かれた。
「海面の上の都市の、いちばん終わり」
観測者の発話は、続いた。
「——海面下の継ぎ目の応力の、いちばん下の桁。お前の予測モデルの外側に、ひと筋、別の値が、混ざっていた」
混ざっていた一筋。私が、桁の上で拾いながら、出どころを、計りきれなかった、その一筋。
「あの一筋は——私が、置いた」
置いた、という動詞の重みが、葦の縁の青さの上に、降りた。
「お前の、最後の死を——確実に、両方向の、揃った熱の中で、起こさせるため。次の世を、両者、記憶持ちの、岐路の世に、するために」
私の予測モデルは、正確だった。ただ、その外側に、観測者の手が、ひと筋、伸びていた。
一万世、私たちの外側に立っていたその手が、私たちの世の、内側に、伸びていたことを、私は、今、初めて、知った。
* * *
私の応えが、葦の縁の青さの上に、立ち上がった。
観測者語彙ではなく、人の側の語彙のままで。
「——あなたの、相手の魂は」
私の声は、低く、出た。
「——何故、消えたのか」
消えた、という動詞を、私は、観測者の側に、返した。
返した縁の下で、観測者は、一拍、沈黙した。
一拍の沈黙の長さは、これまでの、どの拍よりも、深かった。
深い拍の中で、観測者の発話が、戻ってきた。
「——分からない」
分からない、という語を、観測者が、自分の側に、置いた。
一万世、すべての桁を計ってきた観測者の側に、計りきれなかった、ひとつの欄が、あった。その欄だけは、一万世、空のままだった。
「だから私は、お前たちを、観測してきた」
観測者の発話は、続いた。
「——お前たちが、私の答えを、見せてくれるのではないかと」
一万世、観測者は、私たちを、観測対象として、計ってきた。
今、その観測者自身が、自分を、観測の対象の側に、置いていた。
観測する側と、観測される側の、境が——観測者の縁の内側で、滲んでいた。
帳簿の側に、置けない一行が、観測者の、いちばん奥の欄から、葦の縁の青さの上に、溢れていた。
*
観測者の身体の、いちばん深い場所で、もう一つの人影の、短い指が、薄く、立ち上がっていた。
ひとつ前の朝、夢の影の奥に揺らいだ、もう一つの気配。その短い指の長さと、観測者の身体の奥の人影の、短い指の長さは、揃っていた。
今、私は、その指の長さの、出どころを、知った。
観測者が、一万世以前に、ただ一度だけ立った、別の位置。その位置に、隣り合って、立っていた魂の——指の長さだった。
彼の意識の縁が、私の方角へ、強く、寄ってきた。
寄った縁の中で、彼の応えが、葦の縁の青さの上に、立ち上がった。
「——あなたは」
彼の発話は、低かった。
「——観測者では、なかった」
観測者、という名詞を、彼は、観測者の側から、剥がした。
「——私たちと、同じ、岐路の前に、立っていた、先輩だ」
先輩、という語を、彼が、観測者の側に、置いた。
一万世、私たちの外側にあった縁に、初めて、私たちと同じ位置の名が、与えられた。
与えられた名の下で、私の計測が、ひとつの桁を、返した。
——私たちは、契約を、解体しているのでは、ない。
その一行が、私の魂の、いちばん奥に、立ち上がった。
一万世、私は、自分の契約を、解こうとしてきた。熾火の向きを逆に流し、記憶と忘却の境を滅し、愛の拍を死から外した。三つの輪を、外してきた。
けれど、外してきたその先に、あったのは、私と彼の、二人だけの、終わりでは、なかった。
——私たちは、アズラエルの、未完了を、完了させようとしている。
完了、という名詞が、アズラエルの、消えた相手の、消えた契約の、いちばん奥の欄に、薄く、降りた。
* * *
葦の縁の青さは、もう、明けきっていた。
明けきった青さの中に、三つの縁が、立っていた。
私の縁。彼の縁。そして、観測者の——アズラエルの、縁。
一万世、その三つ目の縁は、私たちの外側に、あった。刻限を告げ、純度を計り、結線を維持する、外側の縁だった。
今、その縁は、私たちの、隣に、立っていた。
外側の縁では、なかった。同じ青さの中に、同じ高さで、立つ、三つ目の縁だった。
一万世、私は、アズラエルを、債権者として、計ってきた。熾火を回収し、純度を値踏みし、次の器を、対価として、差配する者。純度が下がれば結線を切ると、毎世、無機質のままで、私に告げてきた者。
今、その債権者は、私たちと同じ、ひとつの未完了を、抱えた魂だった。回収する者でも、回収される者でも、なかった。
残った輪は、ひとつだった。——自らの手で、生を、断つことだけは、まだ、禁じられていた。
その一輪が、何のために、いちばん底に置かれたのかを、私の計測は、まだ、桁で、返せなかった。
ただ、ひとつ、別の桁が、薄く、立ち上がっていた。
その一輪の底にも、アズラエルの、消えた相手の、消えた契約の、いちばん奥の重みが、置かれているのではないか。
その桁を、私は、まだ、引けなかった。引けないまま、帳簿の外側に、書かずに、置いた。
明けきった青さの中で、私と彼と、アズラエルの、三つの縁は、揃った深さで、立っていた。
立っていた、その奥で——観測者の身体の、いちばん深い場所の、短い指の人影は、もう、退いていかなかった。
退く場所を、アズラエルも、失っていた。
失った場所の代わりに、三つの縁は、同じ青さの中に、ひとつの位置を、分け合っていた。
分け合った位置の上で、次に開く欄は、もう、契約の中には、なかった。
契約の、いちばん前。すべての世の、前。ただ一度きりの、最初の生の——その欄だった。
『私も、かつて、契約者だった』。観測者の告白が、ついに、置かれた。
次に開く欄は、もう契約の中にはない。すべての世の前、ただ一度きりの、最初の生の欄だった。




