一万世前の私たちが、何を、望んで、契約したのかが、分かった
私の縁。彼の縁。そして、アズラエルの縁。
分け合った位置の上で、次に開く欄は、もう、契約の中には、なかった。
明けきった青さの中で、三つの縁が、ひとつの位置を、分け合っていた。
私の縁。彼の縁。そして、アズラエルの縁。
分け合った位置の上で、次に開く欄は、契約の中には、なかった。
契約の、いちばん前。すべての世の、前。ただ一度きりの、最初の生の——その欄だった。
その欄が、今、開いた。
* * *
開いた欄の底に、泉のほとりが、もう一度、立ち上がった。
ひとつ前の夜、二人で降りた夢の底に、一度だけ現れた景色。夕陽の橙の傾き。水面の上の、小石二つ。大きいものと、小さいもの。風のない水辺。揺れない草。
水面の縁から、低い水音だけが、立っていた。橙の光は、水の表に、長く伸びて、二人の足元の草まで、届いていた。
あの夜、私と彼は、この景色を、見た。見えたのに、声は、届かなかった。影の口は動いていたのに、その声の輪郭は、どちらの側にも、届かなかった。
あの夜の終わりに、私たちは、ひとつの理解を、置いた。——真相は、声で、届くものではない。私たちが、思い出す側に、回らねばならない。
今、私たちは、思い出す側に、回っていた。
観測者の告白を受け、三つの縁が同じ高さで立った、その後で——最初の生の景色は、外から見る景色では、なくなっていた。
内側から、届き始めていた。
*
泉の縁の、薄い草の上に、若い男と、若い女が、座っていた。
男は、後年のどの器にも、まだ納まっていない、若い、ひと続きの線の中の、彼だった。女は、一万世のどの設計図にも、まだ書かれていない、若い、ひと続きの線の中の、私だった。
二人の胸に、薄荷の痣は、まだ、刻まれていなかった。刻まれない胸の上に、夕陽の光だけが、降りていた。
その二人の視線の先、泉の水面の、向こう側の縁に、もうひとつの魂が、立っていた。
その魂の頬の角度も、肩の傾きも、薄い唇の開きも、泉の縁の若い男に、似ていた。けれど、その手の指は、男の指より、短かった。
彼に似た、別の魂。
その別の魂が、今、水面の向こうで、薄くなっていく。
夕陽の光が、その輪郭を、半分透していた。半分透した輪郭が、もう一段、薄くなり、次の薄さの中へ、降りていった。
降りた先に、次の朝は、なかった。次の器も、なかった。
一万世、死は、いつも、次の朝への入口だった。刃も、病も、海面下の青さも、そのたびに、魂を、次の朝へ運んだ。
その別の魂は、入口の、手前で、消えた。どの世にも、二度と、現れなかった。
契約の前の、ただ一度きりの生。その段階で、彼に似た魂は、消えていた。
水面の向こう側で、その消滅を、看取ったものが、いた。
影だった。
影は、夕陽の光を、受けていなかった。受けない縁の中で、影の身体は、別の方角の暗さを、保っていた。
その影の、いちばん深い場所に、消えたばかりの魂の、短い指の余韻が、まだ、残っていた。
影は、その余韻を、自分の奥に抱えたまま、水面の向こうに、立ち尽くしていた。
泉の縁の若い男と、若い女も、その消滅を、見ていた。
彼に似た魂が、次の朝へ運ばれずに、消える——その一部始終を、二人は、水面ごしに、看取っていた。
ひとつの魂が、消えて、二度と、現れない。そういう終わり方が、この世に、あること。それを、二人は、その夕暮れに、初めて、知った。
二人は、まだ、死を、知らなかった。次の朝も、次の器も、二人の中には、なかった。ただ、ひとつの生が、ただ一度で、終わって、戻らないことだけを、初めて、見た。
知ったことが、二人の身体の、いちばん深い場所を、冷やした。
水音は、変わらず立っていた。夕陽も、変わらず傾いていた。景色は何ひとつ変わらないのに、ひとつの魂だけが、もう、どこにもいなかった。
影は、消えた縁の方へ、手を、伸ばさなかった。伸ばした先に、もう、受け取る魂が、なかった。
何故、その魂が消えたのかは、二人にも、分からなかった。ただ、消滅を、見た。見たことだけが、二人の中に、残った。
*
女が、口を開いた。
「——私たちも」
女の声は、低かった。後年の、観測者語彙の、どの欄にもない、ただの、人の声だった。
「——いつか、同じように、消えるかもしれない」
男が、女の方へ、近づいた。近づいた先で、男の視線が、消えていく魂の、最後の薄さを、辿っていた。
「——あの消え方を、防ぐ装置を」
男の声も、低かった。
「——私たち自身で、引こう」
引こう、という動詞が、泉のほとりの、薄い草の上に、置かれた。
女が、男の方へ、顔を向けた。男も、女の方へ、顔を向けた。二人の視線が、夕陽の傾きの中で、ひとつに合った。
合った視線の下で、二人は、頷いた。声に出さない、ひとつの決めごとが、そこで結ばれた。
まだ、契約という語を、二人は、知らなかった。設計図も、帳簿も、結線も、検収も、知らなかった。
ただ、消滅を、見た。見たことが、二人に、ひとつの決断を、引かせた。
——自分たちが、消えないための、装置を。
*
女の視線が、水面の向こうの、影の方へ、向いた。
消えた魂を看取ったまま、立ち尽くしている、その影へ。
「——観測してくれ」
女の声が、影の方へ、届いた。
「——私たちが、消えないように。見守って、くれ」
影の口が、動いた。
ひとつ前の夜、その口の動きは、どちらの側にも、届かなかった。今、その声が、初めて、届いた。
「——お前たちの、契約を、観測する」
影の声は、無機質だった。けれど、その無機質の奥に、消えたばかりの相手の重みが、沈んでいた。
「——ただし、私の側にも、条件がある」
条件、という語が、夕陽の傾きの中に、置かれた。
「——私の相手は、消えた。何故、消えたのかを、私は、持たない」
影の手が、二人の方へ、伸びた。伸びた手の指は、五本。男の指より、長かった。
伸びた手の先に、形を持たない何かが、置かれていた。書物でも、巻物でも、文字でも、なかった。書ける形を、まだ持たない、別の何かだった。
あの夜、その何かの意味は、届かなかった。今、届いた。
——それは、影の、答えのない問いだった。
「——お前たちの契約を、観測する。その代わりに」
影の声が、続いた。
「——私の相手が、何故、消えたのか。その答えを、お前たちが、見つけてくれ」
形を持たない問いが、二人の中央の、薄い草の上に、降りた。
降りた問いの上で、男と、女は、頷いた。
頷いた動作は、合意の形を、保っていた。
その合意の中で、三つの位置が、決まった。
観測される、二つの魂。観測する、ひとつの縁。けれど、観測する側もまた、答えを探される側に、立っていた。
観測する者と、観測される者の、上下は、なかった。三つの位置は、同じ高さで、ひとつの問いを、分け合っていた。
二人は、消えないための装置を引き、影は、その装置を観測する。そして二人は、影の、消えた相手の答えを、探す。三つの役は、別々の向きを持ちながら、ひとつの問いの、まわりに、置かれていた。
被観測者が、二つ。観測者が、ひとつ。その三つが、対等な共犯として、最初の生の泉のほとりで、ひとつの契約を、結んでいた。
一万世、私が、外側の債権者として計ってきた縁は——その最初に、私たち自身が、隣に立てて、結んだ縁だった。
* * *
泉のほとりの景色が、薄くなっていった。
薄くなる景色の中で、私の意識は、葦の縁の青さへ、戻っていった。同じ深さで、彼の意識も、戻ってきた。
戻った青さの中で、私の計測が、ひとつの桁を、返した。
——あの装置を、引いたのは、私たち、自身だった。
一万世、私は、アズラエルを、債権者として、計ってきた。刻限を告げ、純度を値踏みし、次の器を、対価として差配する者。私を、契約に、縛ってきた者。
今、その縄の、いちばん最初の端を、結んだのは——アズラエル、ではなかった。
最初の生の泉のほとりで、消えないための装置を引こう、と決めた、若い、二人だった。
一万世、私は、自分自身を、契約に、縛ってきたのだ。
彼の意識の縁が、私の方角へ、寄ってきた。
寄った縁の中で、彼の応えが、青さの上に、立ち上がった。
「——俺は」
彼の声は、低く、揺れなかった。
「——お前を、契約に、縛り続けてきたのでは、ない」
縛る、という動詞を、彼は、自分の側から、引き受けていた。
「——お前と、俺で」
彼の声が、続いた。
「——お互いを、縛り続けて、きたのだ」
お互いを、という語が、青さの上に、置かれた。
一万世、私は、誰かに縛られていると、思ってきた。熾火を回収する債権者に。記憶と忘却を振り分ける装置に。死で愛の拍を封じる、ひとつの一行に。
縛っていたのは、私と、彼だった。消えたくない、と願った、最初の、二人だった。
その二人に、私は、怒りを、向けなかった。
一万世の刃も、病も、踏切の鉄も、海面下の青さも——そのすべての始まりに、泉のほとりの、若い二人がいた。消えたくない、とだけ願った二人が。
その願いが、一万世の死を、引き寄せたのだとしても。
消滅を見て、消えたくないと願うことを——一万世を経た私は、責められなかった。願いの始まりは、ただ、まっすぐだった。
彼の腕が、私の背を支える力を、ひと拍、深くした。彼も、その若い二人を、責めていなかった。
*
葦の縁の青さは、もう、明けきっていた。
明けきった青さの中で、私の魂の、いちばん奥の帳簿が、ひとつの欄を、開いていた。
ひとつ前の世で、私は、ひとつの手触りを、帳簿の外側に、書かずに、置いた。——契約を、書き換えているのではない。本当の形を、思い出している。その手触りを。
今、その本当の形が、届いていた。
契約の前の、ただ一度きりの生。泉のほとりの、夕陽の傾き。消えないための装置を、自分たちで引こう、と決めた、二人。
一万世、私の夢の泉のほとりに、薄く立ち続けてきた、あの最初の生。その景色の、声と意味が、今、私の魂の、いちばん奥まで、届いていた。
もう、外から見る景色では、なかった。私が、そこに、いた。
思い出す側に、私たちは、回りきっていた。
けれど——
届いた景色の、いちばん奥に、まだ、ひとつの欄が、空のまま、残っていた。
あの泉のほとりで、消えないための装置を引こうと決めたとき。
私たちは、ただ、消えたくなかった、だけ、だったのか。
それとも、その奥に、もうひとつ、別の望みが、あったのか。
——一万世前の私たちは、何を、望んで、この装置を、引いたのか。
その一行を、私は、まだ、帳簿の外側に、書けなかった。
書こうとして、書けなかった。
書けないまま、私は、その問いを、帳簿の外側に、置いた。
答えは、もう、すぐ、そこまで、来ていた。一万世、保留のままだった一行が、もう、いちばん近い朝の手前まで、来ていた。
ただ、その一行を書くのは——今朝では、なかった。
一万世前、私たちは、消えゆくひとつの魂を看取り、自分たち自身の手で、この装置を、引いた。
――一万世前の私たちは、何を、望んで、これを引いたのか。その一行を書くのは、今朝では、なかった。




