契約の鎖の、最初の輪を、私は、自分の手で、外した
彼の熾火が、私の魂の奥で、白銀の薄荷を、編み直し終えていた。
編み直された葉脈の縁の上で、今度は、私が、自分の側の留め金に、手を、かける。
彼の熾火が、私の魂の奥で、白銀の薄荷を、編み直し終えていた。
編み直された葉脈の縁は、彼から来た熱で、もう一度、立っていた。
その縁の上で、私は、自分の側の留め金に、手を、かけたままだった。
一万世、私の設計図は、私の魂の、いちばん奥の帳簿に、閉じられてきた。誰にも渡さず、次の朝へ、私だけが、運んできた。
今、その帳簿の留め金を、私は、外した。
*
彼の掌は、まだ、私の左鎖骨の薄荷に、直接、触れていた。
器のない場所で、布もなく、触れ合った一点から、今度は、私の側の熱が、彼の方へ、向きを取った。
一万三回目の修道院では、彼の胸から私の胸へ、八年分の一滴が流れた。一万六回目の海面下では、同じ量が、両方向に揃った。
今、私が送るのは、総量だった。一度に。条件を、つけずに。
私の魂の奥には、一万世分の設計図が、畳まれて、閉じられていた。器の寿命を計る桁。最後の一息を回収する手順。次の朝へ運ばれる向き。そのすべてを引いてきた、観測の累積。
設計図の束の、いちばん奥に、帳簿の外側の問いが、畳まれていた。
——私は、何故、この男のために、死に続けてきたのか。
修道院の写字室で、初めて開いた問い。三十年で、三百を越えた問い。一万世、答えを記さないまま、私の魂の奥にだけ、定着させてきた問いの、その全量。
設計図と、観測と、問いの、すべてが、薄荷の痣から彼の胸へ結ばれた、いちばん細い線を、逆に、通り始めた。
通り始めた束は、熱ではなかった。彼の熾火が熱で来たのに対して、私の側から流れたのは、冷たい桁の連なりだった。
一万世、私が覚えていた世で、一人で計り、問うてきた数の、その冷たさだった。
* * *
彼の場が、流れ込む桁を、受けた。
受けた拍で、彼を抱えていた腕が、一度、深く、沈んだ。
彼は、自分の熱を送る側だった。私の桁を受けるのは、彼の魂の、どの世にも、なかった。
覚えている世も、忘れている世も、彼はいつも、最後の一息のひとつ手前までしか、私に届かなかった。受ける時間を、彼は、持たなかった。
今、彼は、初めて、受ける側に、立っていた。
流れ込んだ桁の冷たさの中で、彼の応えが、低く、立ち上がった。
「——お前の」
彼の声は、揺れなかった。
「——一万世の、孤独が」
孤独、という語を、彼は、私の側の桁の連なりの中から、拾い上げていた。
「——俺の中に、流れ込んでくる」
流れ込む、という動詞の縁に、彼が、初めて、その重さを量る拍が、混じっていた。
私が覚えている世では、私が、彼を看取った。看取り終えた私の魂が、狭間の空白を越えて、次の朝へ、運ばれた。その空白を、私は、一人で、渡ってきた。
私が覚えている世では、彼の意識は、忘れている側に置かれ、私が一人で渡る空白を、知らないまま、生きていた。
けれど、私が忘れている世も、二度、あった。その二度は、彼が、私を看取り、私のいない狭間を、一人で、越えた。覚えている者の孤独を、彼も、知っていた。
今、その二人分の空白の冷たさが、彼の中へ、流れ込んでいた。
修道院の写字室で書いた問いも、その後の世で重ねた問いも、答えを記さないまま、彼の中へ、降りていった。
彼は、その問いに、答えを持たなかった。私も、持たなかった。
ただ、私が覚えていた世で抱えてきた問いを、今、彼が、一緒に、抱えていた。
——私の孤独は、もう、私だけのものでは、ない。
一万世、私の魂の、いちばん奥に、閉じてきた冷たさが、今、彼の胸の奥で、彼の熱と、混ざり始めていた。
*
混ざり始めた拍で、魂の場の、いちばん深い場所が、もう一度、軋んだ。
金属が撓む音に、似ていた。
器のない場所に、物理の音は、ない。それでも、その軋みは、私から彼へ熾火を回収する向きにだけ張られてきた線と、彼から私へ熱を返す線が、今、二本、同じ強さで張り合った、その交点から、立ち上がっていた。
一万世、その線は、一本だった。覚えている側が回収し、忘れている側が渡す。どちらが覚えているかは、世によって、入れ替わった。けれど、回収する向きだけは、いつも、ひとつだった。
契約は、片側に記憶を、片側に忘却を、振り分ける装置だった。
記憶する側が、設計図を引き、看取り、空白を渡る。忘却する側が、何も知らないまま生き、最後の一息で、言葉にできない重みだけを、次の世へ運ぶ。
その振り分けが、一万世、二人を、片側ずつに、留めてきた。
今、二人とも、記憶していた。二人とも、相手の側の総量を、受けていた。
記憶する側と、忘却する側の、境が、なかった。
* * *
葦の縁の青さの上に、観測者の縁が、降りてきた。
「観測する」
観測者の発話の拍が、計測の桁から、外れていた。
「——契約の、第二の輪が、外れた」
第二の輪、という語の縁を、観測者は、いつもより、長く、保った。
一万世のあいだ、アズラエルの帳簿は、記憶側と忘却側を、別の欄に、分けて、書いてきた。どちらがどちらを看取り、どちらの熾火を回収するか——その振り分けが、観測者の計測の、いちばん下の前提だった。
今、その二つの欄が、ひとつに、滲んでいた。
観測者の縁が、揺れた。揺れの数は、もう、桁の上で、数えられなかった。
「——記憶と、忘却の、振り分けが、解けた」
解けた、という動詞の重みが、観測者の、いちばん奥から、降りた。
「——観測者として、私は、もう」
観測者の発話が、止まった。一万世、止まったことの、なかった発話だった。
「——お前たちの、外側に、立てない」
外側、という語を、観測者は、自分の方へ、引き戻していた。
一万世、観測者は、その境の、外に立って、二人を計ってきた。境がなくなれば、観測者の立つ場所も、なかった。
観測者の縁が、二人の薄荷の熱の方へ、ほんの少し、傾いた。一万世、二人の外側にあった縁が、初めて、内側へ、傾いた拍だった。
*
彼の掌の熱と、私の桁の冷たさが、薄荷の痣の上で、混ざり続けていた。
混ざった熱の中で、私は、自分の計測を、もう一度、引いた。
一万世、熾火の回収には、いつも、ひとつの条件が、あった。愛の、いちばん高い拍で、死ぬこと。刃を受ける拍。踏切の鉄の手前で、相手を突き飛ばす拍。海面下の青さの中で、最後に抱く拍。その拍の熾火だけを、観測者の帳簿は、最も高い純度で、回収した。
死は、回収の、装置だった。
愛の最高の拍を、死で、封じる。封じた熾火を、帳簿へ納める。その一行が、一万世、私の設計図の、いちばん上に、書かれてきた。
刃を受けた拍も、踏切の鉄の手前で突き飛ばした拍も、海面下の青さの中で最後に抱いた拍も——一万世、愛のいちばん高い場所は、いつも、死の拍と、同じ場所に、あった。高さの頂は、そのまま、終わりの縁だった。
今、私と彼は、死なずに、熾火を、交わしていた。
彼の熱が、私の薄荷へ。私の桁が、彼の胸へ。毎拍、向きを変えながら、二人は、交わし続けていた。
愛の拍は、もう、ひとつの死で、封じる必要が、なかった。封じる代わりに、毎拍、二人の間を、流れていた。
死を、伴わない。回収を、待たない。
愛のいちばん高い拍が、死の一行を、必要としなくなっていた。
* * *
彼の応えが、混ざる熱の奥から、来た。
「——俺たちは」
彼の声は、低く、揺れなかった。
「——契約を、書き換えている」
書き換える、という動詞の縁が、二人の薄荷の熱の中に、置かれた。
私は、その動詞を、受け取らなかった。
受け取る代わりに、私の応えが、彼の熱の中に、立ち上がった。
「——書き換えて、いるのでは、ない」
私の声は、薄く、けれど、桁の上で、揺れなかった。
「——契約の、本当の形を」
本当の形、という語が、一万世、私の設計図のどの一行にも、なかった語が、私の口から、出ていた。
「——思い出して、いる」
思い出す、という動詞を、私は、自分でも、量りかねた。
記憶と忘却が振り分けられる前の、死で熾火を封じる装置になる前の、契約の、もうひとつの形。それを、私の魂のいちばん奥が、今、薄く、知っていた。
知っていた、というより、いつか、知っていた、ような、手触りだった。
その手触りの出どころを、私の計測は、まだ、桁で、返せなかった。返せないまま、私は、その一行を、帳簿の外側に、書かずに、置いた。
*
彼の場の力が、私の背を、抱えたまま、保たれていた。
私の桁の総量は、まだ、底まで、流れ切ってはいなかった。彼の熱の総量も、まだ、私の奥で、編み直しを、続けていた。
二本の線は、もう、一本には、戻らなかった。
契約の鎖の、最初の輪は、熾火の向きが逆に流れた拍で、外れた。第二の輪は、記憶と忘却の境が、滲んだ拍で、外れた。第三の輪は、愛の拍が、死を、必要としなくなった拍で、外れた。
三つの輪が、外れていた。
残った輪は、ひとつだった。
——自死を、禁ずる。
一万世、契約の、いちばん底に、置かれてきた一行。純度の低い死は、次世の器の質を下げる。自らの手で引く死は、回収できない。だから、自死は、禁じられる。
その一行だけが、まだ、二人の魂の奥で、外れずに、張られていた。
三つの輪が外れても、その一輪は、二人を、契約に、繋いだままにしていた。熾火の向きが逆に流れても、記憶と忘却の境が滅んでも、死が回収の装置でなくなっても——自らの手で生を断つことだけは、まだ、禁じられていた。
その一輪が、何のために、いちばん底に置かれたのかを、私の計測は、桁で、返せなかった。
ほかの三つは、二人を片側ずつに留める装置だった。けれど、この最後の一輪だけは、二人を、どちらの側にも、留めていなかった。ただ、生きていろ、と告げているだけだった。
彼の腕は、私の背を、抱えたまま、ゆるめなかった。ゆるめれば、私の縁が、また解けることを、彼の意識は、量り終えていた。
葦の縁の青さは、もう、明けきっていた。
明けきった青さの中で、観測者は、二人の外側へは、もう、退いていかなかった。
退く場所を失った観測者の縁だけが、葦の縁の青さの上に、薄く、残されていた。
三つの輪が外れ、ひとつが残ったその場所で、私の計測は、最後の一輪が、いつ、どの拍で外れるのか——その桁を、まだ、持っていなかった。
私の側の一万世を返し、記憶と忘却を振り分ける第二の輪も、外れた。
残る輪は、ひとつ――自死を禁じる、最後の一輪。観測者はもう、二人の外側には、立てない。




