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彼が、私の中へ、一万六回分の熾火を、同時に、送り込んだ

 底で引く、と決めた合意の重みが、まだ、二人の薄荷の痣の熱の中に、残っていた。

 彼の手が、一万世で初めて、私の左鎖骨の白銀の薄荷へ、布を介さず、直接、降りてくる。

 彼の場の力が、私の背を、抱えたまま、保たれていた。


 底で引く、と決めた合意の重みが、まだ、二人の薄荷の痣の熱の中に、残っていた。


 彼の意識の腕が、私の背を支えたまま、片方の手を、私の左鎖骨へ、降ろした。


 降ろす動作は、迷わなかった。一万六回、彼の魂が、私のその一点の在処を知っていたかのように、まっすぐだった。


   *


 一万三回目の修道院で、彼の掌は、寝巻きの布の上から、私の薄荷の痣の位置を、探り当てた。目では見えない位置を、彼は布越しの手触りだけで、知っていた。器の布を隔てた、ひとつの手触りだった。


 今、二人の間に、器はない。布もない。


 彼の掌が、私の左鎖骨の、白銀の薄荷に、直接、触れた。


 一万世のあいだ、器の布を一度も隔てなかった接触は、これが、初めてだった。


 触れた掌の下で、解けかけた葉脈の縁が、彼の手の熱を、直に、受けた。


 布越しの熱は、彼の手のかたちまでしか、届かなかった。直に触れた熱は、葉脈の、いちばん細い末の先まで、降りてきた。


 一万三回目の一筋の逆流より、その熱は、ずっと、深かった。


 彼の応えが、低く、私の薄荷の熱に、置かれた。


「——俺の側の」


 彼の声は、揺れなかった。


「——一万六回分の、観測と、感情の、全量を」


 全量、という語が、掌の熱に、降りた。


「——お前に、返す」


 一万三回目の修道院で、彼の胸から、私の胸へ、初めて、熾火の一筋が、逆に流れた。あのとき流れたのは、八年分の全量ではなく、象徴としての、薄い一滴だった。


 一万六回目の海面下で、その流れは、初めて、両方向に、揃った。同じ量を、同じ拍で、二人は交わした。


 今、彼が告げているのは、総量だった。一度に。条件を、つけずに。


 彼の魂の奥には、一万六回分が、畳まれて、保たれていた。忘れている側に置かれた世では、彼の意識は、その重みを、言葉にできなかった。覚えている世でさえ、最後の一息の先へは、その重みは、届かなかった。言葉にできないまま、彼の魂は、次の世へ、それを運んだ。


 運び続けた一万六回分が、今、彼の胸の奥で、ほどけ始めていた。


 ほどけ始めた重みは、彼の胸から、私の薄荷へ結ばれた、いちばん細い線を、通ってきた。一万三回目の修道院では、その線を、八年分の一滴が、通った。今、その同じ線を、一万六回分が、通ろうとしていた。


   *   *   *


 彼の掌の熱が、桁を、上げた。


 上げた熱が、解けかけた葉脈の縁から、私の内側へ、流れ込んできた。


 一筋では、なかった。


 一万六回分が、同時に、来た。


 王宮の大広間で、刃を受けた私を抱きとめた、彼の、いちばん細い指の、薄い震え。


 草原の戦場で、血の匂いの中、私を投げ退けた、彼の手の、力。


 修道院の冬の、痩せた寝台で、私の手を握り返した、彼の指の、冷たさの奥の熱。


 海沿いの踏切で、私を突き飛ばした、彼の掌の、最後の力。


 海面下の青い光の中で、最後に私を抱いた、彼の腕の、ほどけなさ。


 どれも、彼が、その世で受け、言葉にできないまま、次の世へ運んだ重みだった。


 一万六回分の、彼の側の熱が、ひとつの拍に畳まれて、私の魂の表層へ、同時に、降りた。


 順序は、なかった。


 一万六回の朝を、一つずつ順に量ってきた私の計測は、いつも、世と世の間に、狭間の空白を、置いてきた。今、その空白が、消えていた。一万六回分の朝が、ひとつの拍の中で、重なっていた。


 圧、としか、呼べなかった。


 刃の冷たさと、戦場の血の匂いと、修道院の冬の藁の硬さと、踏切の鉄の軋みと、海面下の青さの重さが、別々の世のものではなく、ひとつの重みになって、私の魂の、いちばん深い場所に、降りた。


 受けきれない、と数える手前で、流れは、もう、私の魂の奥へ、届いていた。


 届いた熱の中で、私は、彼が一万六回、それを一人で抱えてきた重さを、初めて、量った。


 一万六回、彼が私に渡せたのは、いつも、最後の一息の、ひとつ手前までだった。刃の前でも、踏切の鉄の手前でも、海面下の青さの中でも、その一拍の先は、言葉にならないまま、狭間の空白に、置き去りにされてきた。


 置き去りにされた一拍が、一万六回分、今、ひとつになって、私の魂の奥に、積もっていた。


 積もった重みの下で、彼の場が支えていた私の仮の体の輪郭が、一度、深く、沈んだ。沈んだまま、その輪郭は、崩れなかった。彼の腕の力が、沈んだ縁を、内側から、支え切っていた。


   *


 ——これは、設計図に、なかった。


 私が覚えている側だった世では、彼を看取る、という一行で、設計図を閉じてきた。彼の熾火は、覚えている者が回収し、観測者の帳簿へ納める向きにしか、流れなかった。


 逆向きの総量は、どの世の設計図にも、書かれていなかった。


 書かれていない流れを、私の計測は、どの桁にも、置けなかった。


 一万世、私の計測は、彼の器の残寿命を、刻んできた。あと十年、あと八年、あと一冬——その桁だけを、私は、帳簿に、書いてきた。彼の側の残量を、彼自身が、私に注ぐ桁を、私は、一度も、計ったことが、なかった。


 ——これは、誰が、引いたのだ。


 問いの桁が、私の中で立ち上がる前に、彼の応えが、流れ込む熱の奥から、来た。


「——俺が、引いた」


 彼の声は、低く、揺れなかった。


「——お前を、契約の、外側で、生かすために」


 契約の外側、という語を、私は、一万世、設計図のどこにも、置いたことが、なかった。


 器の中で目覚め、器の寿命を計り、最後の一息を回収し、次の器へ運ばれる——その内側だけが、私の設計図の領域だった。


 内側の領域では、覚えている者が、相手を看取った。看取り終えた魂が、次の朝へ、運ばれた。


 彼は今、その領域の、外側を、引いていた。


 外側へ引く力は、設計図のどの一行にも、根を持たなかった。根を持たないまま、その力は、確かに、私の解体を、内側から、押し戻していた。


   *   *   *


 そのとき、魂の場の、いちばん深い場所で、音が、鳴った。


 金属が、限界の手前で、撓む音に、似ていた。


 器のない場所に、物理の音は、ない。それでも、その軋みは、確かに、二人の魂の奥で、鳴っていた。


 軋みは、私の薄荷の痣と、彼の胸の熾火を結ぶ、いちばん細い線の上から、立ち上がっていた。


 その線は、一万世のあいだ、私から彼へ、熾火を回収する向きにだけ、張られてきた線だった。今、逆向きの総量を通されて、その線が、軋んでいた。


 葦の縁の青さの上に、観測者の縁が、降りてきた。


「観測する」


 観測者の発話の拍が、計測の桁から、外れた。


「——契約の鎖の、最初の輪が、外れた」


 一万世のあいだ、アズラエルの帳簿は、熾火を、私から回収へ、ひとつの向きにしか、書いてこなかった。


 その向きが、今、初めて、逆に、流れていた。


 観測者の縁が、揺れた。揺れの数は、もう、桁の上で、数えられなかった。


 計り直すたびに、観測者の桁は、別の深さへ、滑っていった。


 その滑りの速さは、私の薄荷の葉脈が、彼の熱で結び直されていく速さと、同じだった。


 観測者は、その同じ速さを、まだ、自分の計測の桁では、収めきれずにいた。


 収めきれない拍の縁に、観測者の、別の方角の重みが、また、薄く、置かれていた。その重みが何の重みなのかを、私は、まだ、辿らなかった。辿る前に、彼の熱が、もう一度、私の奥へ、降りてきた。


   *   *   *


 流れ込んだ彼の熾火が、私の魂の、解けかけた表層に、降り積もった。


 降り積もった熱が、剥がれかけた葉脈の縁を、内側から、結び直していった。


 彼の場の力は、外側から、私の縁を押さえ続けていた。今、その内側で、彼の熾火そのものが、剥がれた跡を、埋めていた。


 解けかけた私の魂の表層が、止まった。


 止まっただけでは、なかった。剥がれた跡に、彼の一万六回分の熱が、新しい縁を、編み直していた。


 編み直された縁は、一万六回、白銀を保ってきた葉脈とは、別の熱で、立っていた。私自身の火ではなく、彼から来た火で、葉脈は、もう一度、白銀へ、退いていった。


 私の魂が、私自身の火で立っていない、という状態を、一万世、私は、知らなかった。検収のたびに、私は、私の火で、私の識標を、確かめてきた。今、その識標を確かめている熱は、彼の側から来た熱だった。


 彼の火で立つ私の薄荷を、私は、初めて、自分の識標として、受け取った。


 ——残熾火、可算域外。


 可算域の外にあった私の残熾火の桁に、彼の側の熾火が、注がれていた。


 私の魂の、いちばん下の桁を、彼の火が、底から、押し上げていた。


 押し上げられた桁の分だけ、彼の側の桁が、下がっていた。


 送れば、彼の熾火は、空になる——海面下で両方向が揃った朝、私の計測が、桁で返せなかった、その問いの底へ、彼は今、自分から、降りていた。


 彼の腕は、私の背を、抱えたまま、保たれていた。


 ゆるめれば、私の縁が、また解けることを、彼の意識は量り終えていた。だから、ゆるめなかった。


 私は、流れ込む熱の中で、彼の方へ、向きを取った。


 向いた先で、彼の瞳の奥の光が、一万六回、寸分違わない深さで、私を見ていた。


 その光だけは、王宮の刃の前から、海面下の青さの中まで、一度も、薄くならなかった。


 今、その光の桁が、彼の熾火を送るたびに、ひとつずつ、下がっていた。


 下がっていく光の中で、彼は、揺れなかった。


 送るのを止めろ、と私の計測が、桁の上で、立ち上がりかけた。


 止めれば、私の解体が、また、底へ滑ることを、彼の場の力が、私に教えていた。底で引く、と決めた合意の意味が、今、彼の下がっていく光の中で、私の奥に、降りてきた。


「——私の側の」


 私の応えが、彼の熱の中に、立ち上がった。


「——一万世分の、設計図と、観測を」


 設計図、という語を、私は、初めて、返す向きで、口にした。


「——あなたに、返す」


 返す、と決めた拍は、立った。


 ただし、その全量を引く底は、まだ、来ていなかった。


 彼が総量を送り終えた今、私の側の総量を送る底は、この拍の、次にあった。


 一万世、私は、自分の設計図を、誰にも、渡したことが、なかった。設計図は、私の魂の、いちばん奥の帳簿に、閉じられてきた。


 その帳簿の留め金に、私は、初めて、自分の側から、手を、かけた。


 彼の熾火が、私の魂の奥で、白銀の薄荷を、編み直し続けていた。


 編み直される葉脈の熱の中で、私は、もう一度、自分の応えを、置いた。


 ——底で、引く。今度は、私が。


 彼が、私の中へ、一万六回分の熾火を、同時に、送り込んだ。


 契約の鎖の、最初の輪が、外れた。


 外れた輪の向こうで、観測者の告白の縁は、まだ、開かないまま、別の方角の深さで、保たれていた。


 その奥の重みが、いつ、私たちの設計図の、いちばん外側へ、降りてくるのか——私の計測は、まだ、その桁を、持っていなかった。


 彼が、一万六回分の観測と感情の全量を、同時に、私の中へ送り込んだ。一筋ではなく、総量で。

 契約の鎖の、最初の輪が、外れる。――次に底で引くのは、私の番だった。

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