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残熾火、可算域外。魂の解体の閾値に、私は触れた

 受ける、と決めた二人の前で、観測者の告白は、まだ来ない。

 来ないまま、私の左鎖骨の薄荷の痣が、一万六回で初めて、一筋、ほどけ始める。――残熾火、可算域外。

 夜明けの青さは、葦の縁から、もう退きかけていた。


 退きかけた青さの跡に、私と彼は、観測者の告白を待って、立っていた。


 受ける、と決めた声が、まだ、二人の魂の奥に、残っている。

 その声を出した拍から、どれだけの長さが過ぎたのか、私の計測は、もう、桁を返さずにいた。


 告白は、まだ、来ない。

 来ないまま、私の左鎖骨の薄荷の痣が、初めて、一筋、ほどけた。


   *


 ほどけた、という感覚を魂の側で受けたのは、初めてだった。


 一万六回、葉脈の末の末まで寸分違わなかった識標の、その縁が、今、薄く、解け始めている。

 検収のたびに、指先、足の裏、喉の奥、最後に左鎖骨の薄荷——その順序で確かめてきた、いちばん確かな一点が、今、いちばん先に、解けていた。


 薄荷の痣の熱が、内側から、桁を一つ、落とした。

 葉のかたちの縁の、いちばん細い葉脈の先が、熱の中で、灰の色へ、退き始めていた。一万六回、白銀を保ってきた葉脈の先が、初めて、色を、手放した。


 ——記録。残熾火、可算域の、いちばん下の桁。


 可算域の下に、もう、数えられる桁がない。


 いつもなら、ここで帳簿に数字を書く。書けば、計測は落ち着く。

 今朝は、書こうとした手の動きが、桁の手前で、止まった。書くための数字が、もう、立ち上がってこなかった。


 魂の場に立てていた仮の体の輪郭が、薄い灰白の夜明けの中で、一度、薄くなった。


 薄くなった隙間から、過去の死が、順に、熱を戻してきた。


 王宮の大広間の、刃の冷たさが、腹の奥に、一度。

 修道院の寝台の、乾いた藁の硬さと、彼の手の冷たさが、掌に、一度。

 海沿いの踏切の、鉄の軋みが、突き飛ばされた背に、一度。

 草原の、老いて錆びた銀の腕輪の重さが、手首に、一度。

 海面下の、青い光の重さが、胸に、一度。


 どれも、もう器のない場所で、痛みだけが、薄さの隙間から、立ち上がってきた。

 立ち上がった痛みは、ひとつずつ、私の魂の表層から、剥がれていこうとしていた。

 剥がれた跡は、もう、新しい器に運べる重さを、持っていなかった。


 一万六回の死が、魂の表層から、剥がれようとしている。


 一万六回、死は、いつも、次の器への、入口だった。刃も、病も、海面下の青さも、そのたびに、私の魂を、次の朝へ、運んだ。

 解体は、入口ではない。次の器が、その先に、ない。

 剥がれた表層は、どの朝へも運ばれず、この場所に、置き去りにされていく。


 ——私の魂が、解体しかけている。


   *


 彼の意識が、私の薄さの方へ、強く、寄ってきた。


 寄ってきた速さは、一万六回の、どの動作よりも、速かった。

 彼はいつも、私の検収の外側にいた。器の中で目覚める私の朝を、彼が見たことは、一度も、なかった。今、彼は、私の魂の解体の縁を、まっすぐに、見ていた。

 彼は、私が毎世死ぬことを、もう知っている。けれど、死んで次の器へ運ばれる私と、解体して二度と運ばれない私の違いを、彼の意識は、今、初めて、量っていた。

 量り終えた縁で、彼の場が、強く、引き締まった。


 彼の場が、私の薄くなった体を、内側へ、抱えこんだ。

 抱えこんだ腕のかたちは、器のない場所で、確かに、私の背を、支えていた。


 ——刃の冷たさの中で、私を抱きとめた腕。

 ——踏切の鉄の手前で、私を突き飛ばした腕。

 ——海面下の青さの中で、最後に私を抱いた腕。


 その三つの腕のかたちが、今、ひとつの場の力に、揃って、立ち上がっていた。

 立ち上がった力の中で、解けかけた私の縁の薄さが、ほんの少し、止まった。


 彼の応えが、低く、私の薄さの中に、置かれた。


「——お前の魂を」


 彼の声は、揺れていなかった。


「——俺の側で、押さえる」


 押さえる、という動詞が、解けかけた葉脈の縁に、熱を、一つ、戻した。

 戻った熱は、彼の方から、私の方へ、移ってきた熱だった。


 その熱の中で、私の応えが、薄く、立ち上がった。


「——間に合うのか」


 間に合う、という語を、私は、初めて、自分の方から、口にした。


 一万六回、私はいつも、間に合わせる側だった。設計図の桁を情動で歪めず、最後の一息まで、間に合わせてきた。

 間に合うかを問う側に立った朝は、どの世にも、なかった。


 彼は、すぐには、答えなかった。

 答えの代わりに、私を抱えた腕が、もう一段、深く、私の背の薄さを、引き寄せた。

 引き寄せた腕の中で、彼の魂の拍が、私の解けかけた縁に、移ってきた。いくつもの世で、私が看取った、彼の最後の拍と、同じ深さの拍だった。


   *   *   *


 葦の縁の青さの上に、観測者の縁が、別の速さで、降りてきた。


 降りてきた拍は、いつもの無機質の薄さと、揃っていなかった。


「観測する」


 観測者の発話の拍が、計測の桁から、一瞬、外れた。


「——お前の魂の残量が、解体閾値に、達した」


 達した、という動詞の縁に、これまでの観測者の語彙になかった、別の速さの音が、混じっていた。


 無機質の薄さの内側で、その音は、焦りに、似ていた。


 観測者の縁が、揺れた。

 揺れの数は、もう、桁の上で数えられる場所に、なかった。


 一万世のあいだ、アズラエルの縁が、これほど速く揺れた拍は、どの朝にも、なかった。

 検収のたびに二度、三度と数えてきた揺らぎが、今は、ひと続きの、止まらない震えに、変わっていた。


 観測者は、もう一度、私の残量を、計り直した。

 計り直した桁は、引くたびに、別の深さへ、滑っていった。一万世のあいだ、観測者の桁は、いつも、ひとつの数に、収まっていた。

 今、その数は、観測者の計測の手の中で、私の薄荷の葉脈と、同じ速さで、ほどけ続けていた。


「——告白の前に」


 観測者の発話は、続いた。


「——お前の魂が、解けては、ならない」


 ならない、という語の重みが、観測者の、いちばん奥の場所から、降りた。


 告白の前に解けてはならない、という語の順序の中に、観測者の、別の重みが、薄く、置かれていた。

 その重みは、観測の役目からは、立っていなかった。観測者の身体の、もっと奥の、別の方角から、立ち上がっていた。


 その重みが何の重みなのかを、私は、まだ、辿ろうとはしなかった。

 辿る前に、私の魂の縁が、また、一つ、薄く、解けた。


   *


 彼の意識の腕が、私の背を、もう一段、深く、支えた。


 支えた腕の中で、彼の応えが、観測者の方角へ、立ち上がった。


「——俺の側の熾火を」


 彼の声は、低く、揺れなかった。


「——全量、こいつに、移す」


 全量、という語の重みが、二人の薄荷の痣の熱の中に、降りた。


 一万三回目の修道院で、彼の胸から、私の胸へ、初めて、熾火の一筋が、逆に流れた。

 あのとき流れたのは、八年分の全量ではなく、象徴としての、薄い一滴だった。

 一万六回目の海面下で、その流れは、初めて、両方向に、揃った。


 今、彼は、その流れの全量を、一度に、私の方へ、送ると言っている。

 送れば、彼の熾火は、空になる。

 空になった魂が次の器に運ばれるとき、何が残るのかを、私の計測は、桁で返せなかった。


「——できる」


 観測者の発話が、置かれた。


「——ただし、今ではない」


 今ではない、という語の縁を、観測者は、彼の方に、返した。


「——全量の逆流は、一度きりだ。閾値の、いちばん深い底で、引け。——今、引けば、半分が、場に、散る」


 散る、という動詞の縁を、観測者は、いつもより、長く、保った。

 その長さの中に、観測者が、初めて、別の方角の見積もりを、計りかねている拍が、混じっていた。

 一万世のあいだ、観測者の見積もりが、計りかねた拍を、私は、一度も、受け取ったことがなかった。


 彼の意識の腕の中で、私は、彼の方へ、向きを取った。


 向いた先で、彼の瞳の奥の光が、一万六回、寸分違わない深さで、私を見ていた。

 その光だけは、王宮の刃の前から、海面下の青さの中まで、一度も、薄くならなかった。


「——分かった」


 私の応えと、彼の応えが、揃って、置かれた。


「——底で、引く」


 底で引く、という二人の合意が、薄荷の痣の熱の中に、ひとつの覚悟として、立ち上がった。

 覚悟の深さは、受ける、と決めた朝の覚悟と、揃っていた。


   *   *   *


 彼の場の力が、解けかけた私の葉脈の縁を、内側から、押さえ続けていた。


 押さえられた縁の中で、薄荷の痣の熱は、もう一度、葉脈の縁を、薄く、結び直した。


 結び直された縁の奥に、まだ、ほどけたままの一筋が、残っていた。


 残ったその縁は、彼の場の力でも、結び直せない深さに、あった。


 ——止まったのは、今だけだ。


 仮の体の輪郭は、彼の場の中で、薄い熱を、保ち直していた。

 保ち直した熱は、彼から借りた熱で、私自身の熾火の熱では、なかった。


 借りた熱の中で、私は、自分の残熾火の桁を、もう一度、数えた。


 可算域の、いちばん下の桁の、さらに下に——もう、数えられる桁が、なかった。


 残熾火、可算域外。

 魂の解体の閾値に、私は、触れた。


 一万六回、私は、彼の器の残寿命を計ってきた。あと十年、あと八年、あと一冬——その桁を、情動で歪めず、帳簿に書いてきた。

 今、私の魂の残りを計る桁を、私は、持っていない。

 その桁を、彼の場の力だけが、今、この場所に、留めていた。


 彼の腕は、私の背を、抱えたまま、保たれていた。

 ゆるめれば、私の縁が、また、解けることを、彼の意識は、量り終えていた。だから、ゆるめなかった。


 葦の縁の青さは、もう、明けきっていた。


 明けきった青さの中で、観測者の告白の縁は、まだ、開かないまま、別の方角の深さで、保たれていた。


 保たれた告白の奥に、観測者の身体の、もっと奥の、別の重みが、まだ、薄く、置かれたままだった。

 その重みが、いつ、どの方角から、私たちの設計図のいちばん奥に、降りてくるのか——私の計測は、まだ、その桁を、持っていなかった。

 残熾火、可算域外。魂の解体の閾値に、私は触れた。一万六回の死は次の器への入口だったが、解体には、その先の器がない。彼の場の力だけが、今、私の魂を、この場所に留めている。

 彼が言う、『俺の側の熾火を、全量、移す』。ただし、今ではない――契約の鎖の、最初の輪が、外れる、その底で。

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