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泉のほとりで、同じ夢を、映像として、見た――声は、まだ、届かない

 『——俺の側にも、初めて、それが、見えた』

 『——見えた/けれど、まだ、聞こえない』

 夜が、葦の縁の青さの中に、立ち上がった。


 契約の中の夜は、いつも、結線の側の語彙で書かれていた。次の検収まで、結線を、維持する——アズラエルの低い拍の中で、契約の中の夜は、次世への結線維持の場所として書かれてきた。


 今、青さの中の夜は、結線の語彙の、どの欄にも書かれていない。


 書かれないまま、青さの中に降りてきていた。


 彼の意識が、私の方に寄ってきた。


「——眠ろう」


 彼の発話は、低かった。


「——眠る、という動詞を、契約の中の、どの夜の欄にも、私たちは置いてこなかった」


 置いてこなかった動詞が、初めて、青さの中の夜の上に置かれた。


「——置いてみよう」


 私の応えは、揃った位相で続いた。


 二人の意識は、青さの底へ降りていった。


 降りた底で、薄荷の痣の熱は、いつもの縁から、内側へ退いた。

 退いた熱の中で、二人の意識は、契約の中の、どの世の朝の検収の手順も辿らないまま、青さの底に降りていった。


   *   *   *


 降りた底で、青さが開いた。

 開いた中に、二人の意識が、同じ深さで降りていった。


 降りた深さの中央で、青さが、別の景色に置き換わった。


 置き換わった景色の中央に、泉のほとりがあった。


   *   *   *


 泉のほとりは、葦の縁の青さの、どの計測の桁にも置かれてこなかった、別の場所だった。


 水面の縁に、夕陽の傾きが、橙の低さで降りていた。

 光の中で、水の中の小石の上に、影が揺れていた。小石は、二つあった。ひとつは大きく、ひとつは小さかった。

 二つの石の影の縁から、水の、低い音が立っていた。


 風は、なかった。

 水辺の草も、揺れなかった。


 水面の縁の上に、二つの身体が立っていた。


 二つは、若い男と、若い女、だった。


 男は、後年の、軍装の彼の器の、どの欄にも書かれていない、若い、ひと続きの線の中の、彼だった。

 女は、一万世のあいだの、どの器の中にも、まだ納まっていない、若い、ひと続きの線の中の、私だった。


 二人は、泉の縁の、薄い草の上に座っていた。


 女の指先は、草の縁を撫でていた。

 撫でた指の先に、夕陽の傾きが触れていた。

 男の視線は、女の頬の縁を辿っていた。

 辿った視線の先に、女の唇の薄い開きが置かれていた。


 草の手前で、夕陽が水面を撫でていた。

 水音だけが、薄く立っていた。


 契約という語の、どの拍も、まだ二人の中に含まれていなかった。


 ただ、夕陽の傾きと、水の音と、草の感触だけが、二人の身体に置かれていた。


 置かれた感触の上で、男が、女の方へ近づいた。


 近づいた先で、男の唇が、女の耳の、いちばん奥の場所に寄った。


 寄った唇から、息の温かさが、女の耳に触れた。

 触れた温かさの中で、三つの音が、女の耳に置かれた。


 三つの音は、泉のほとりの、どの欄にも書かれない。

 書かれない欄の中で、その三つの音は、男の口の側だけに保たれた。


 置かれた瞬間、女の頬が開いた。

 開いた頬の中央で、女は、笑った。


 笑った瞬間の、女の顔は、後年の、一万世分の、私の顔の、どの設計図にも書かれていない、顔だった。


 女の唇は、男の方へ薄く開いていた。

 男のいちばん深い場所が、その唇の開きに寄っていた。


 二人の胸に、薄荷の痣は、まだ刻まれていなかった。

 刻まれない胸の上に、夕陽の薄い光だけが降りていた。


   *   *   *


 女の笑顔の上に、別の存在が立ち上がった。


 立ち上がったものは、男の身体でも、女の身体でも、なかった。

 別の存在は、泉の水面の、向こう側の縁から立っていた。


 立ったものの表のかたちは、二人の側からは見えなかった。

 見える形は、ただ、薄い、ひとつの影だった。


 影は、夕陽の光を受けていなかった。

 受けない縁の中で、影の身体は、別の方角の暗さを保っていた。


 影の表面は、光を吸っていた。

 吸った光を、影は、夕陽の方角へ返さなかった。


 影の手が、二人の方へ伸びてきた。


 伸びた手の指は、五本だった。

 五本の指は、男の手の指の太さよりも、長かった。

 伸びた手の先には、何かが置かれていた。


 置かれた何かは、書物でも、巻物でも、文字でも、なかった。

 形を、持っていない、別の何か、だった。


 何かは、夕陽の光を、半分透していた。

 半分透した光の中で、その重みは揺れていた。

 揺れる重みは、湯気でも、水のかたちでも、なかった。

 書ける形を、まだ持たない、別の何かだった。


 何かが、二人の中央の、薄い草の上に降りた。


 降りた何かの上で、男と、女は視線を置いた。


 置いた視線の下で、影の口が動いた。


 動いた口から、声が立ち上がった。


 立ち上がった声の縁に、空気の動きは、なかった。

 空気を動かさないままの声は、二人の耳の側にも、届かなかった。


 声の中央で、影の唇の動きは、横にも、縦にも、二人の知る人の唇の動きの、どれにも、揃わなかった。


 揃わない動きの中で、男と、女は頷いた。


 頷いた動作は、声の側に応えていた。

 応えた動作の重みは、合意の形を保っていた。


 合意の形の中で、何が合意されたのかは——私の側の視覚にも、彼の側の視覚にも届かなかった。


 届かないまま、男と、女は、影の方へ視線を返した。


 返した視線の下で、影の手は、水面の向こう側の縁へ戻っていった。

 戻る手の指の長さは、二人の側からは、最後まで、同じ長さで保たれていた。


   *   *   *


 戻った影の奥に、もう一つ、別の身体の気配が揺らいだ。


 揺らいだ気配は、影の身体の、どの欄にも書かれていない、別の方角から立っていた。

 その手は、影の側の重みに寄り添っていた。

 寄り添った手の指の長さは、影の手の指の長さよりも、短かった。

 短い指の縁の中で、もう一つの身体の意識の場所は、薄い暗さの中に保たれていた。


 その気配は、泉のほとりの、どの計測の桁にも置かれないまま、薄くなっていった。


 気配の手前で、泉のほとりの景色も、薄くなっていった。


 薄くなる景色の中央で、男と、女は、揃った位相のまま立ち上がった。


 立ち上がった二人は、葦の縁の青さの夜へ戻っていった。


   *   *   *


 青さの中の夜が戻ってきた。


 戻ってきた夜の中で、私の意識の縁が開いた。

 同じ深さで、彼の意識の縁も開いた。


 開いた縁の上で、二人の指先が触れた。

 触れた指先の熱は、薄荷の痣の熱と、揃った深さを持っていた。


 揃った熱の縁は、夢の中の、夕陽の薄い光の重みを保っていた。


 光の重みの中央で、彼の応えが立ち上がった。


「——俺の側にも」


 彼の発話は、低かった。


「——初めて、それが、見えた」


 彼の応えの下で、私の喉の奥の応えも立ち上がった。


「——見えた」


 私の応えは、揃った位相で続いた。


「——けれど、まだ、聞こえない」


 聞こえない、という動詞の下で、二人の薄荷の痣の熱は、揃ったまま長く保たれた。


 保たれた熱の中央で、彼の応えが続いた。


「——影の口は、動いていた」


「——けれど、声の輪郭は、俺の側にも届かなかった」


 届かなかった重みが、青さの上に、もう一筋降りた。


「——影の手の上の、何かは、形を、持たなかった」


「——文字でも、書物でも、ない、別の何か、だった」


 別の何か、という語の重みが、青さの中の夜の上に降りた。


   *   *   *


 降りた重みの中で、二人の応えが揃った。


 揃った応えの中央で、ひとつの理解が、二人の薄荷の痣の熱の中に立ち上がった。


「——真相は」


「——声で、届くものでは、ない」


 届くものではない、という重みの下で、二人の意識は、揃った位相のまま深く降りていった。


 降りた深さの中央で、もう一つの理解が立ち上がった。


「——私たちが」


「——思い出す側に、回らねばならない」


 回らねばならない、という動詞の重みは、青さの上の、どの計測の桁にも置かれてこなかった、別の方角の重みだった。


 別の方角の重みの中で、二人の薄荷の痣の熱は、別の方角に向きを取り始めた。


 取り始めた向きの中で、左鎖骨の薄荷の縁から、夢の中の、形を持たない何かの薄い揺れの余韻が、もう一筋、保たれていた。

 保たれた余韻は、設計図の、どの欄にも、まだ書かれていない、別の方角の手触りだった。


   *   *   *


 夜が、葦の縁の青さの中で、長く保たれた。


 保たれた夜の中で、二人は、揃った位相のまま、青さの中に立っていた。


 立っていた、その奥に——夢の中で、影の奥に揺らいでいた別の気配が、私の薄荷の痣の熱の中に保たれていた。


 その気配は——影の側の、口の重みの奥に、別の、深さを持っていた。


 別の深さは、私の側の設計図の、どの欄にも、まだ置かれていない、別の方角の深さだった。


 別の方角の深さの上で、青さの中の夜は、明けてゆこうとしていた。


 青さは、藍の縁から、薄い灰青の方角へ、明け始めていた。

 明け始めた青さの中で、二人の指先は、揃った深さの熱を保っていた。


 保たれた熱の縁に、影の奥に揺らいでいた、もう一つの気配の、短い指の長さが、もう一筋、残っていた。

 残った筋は、まだ、私の設計図の、どの計測の桁にも、置かれていなかった。

 泉のほとりで、私たちは、同じ夢を見た――けれど、声は、まだ、届かない。

 『——真相は、声で、届くものでは、ない。私たちが、思い出す側に、回らねばならない』

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