アズラエルが、遅れて、現れた。――五度目の輪郭の揺らぎと、ともに
『今世は、これまでのような、死の契約では、ない。
二人が、共同で、次の選択を、引く世だ』
葦の縁の青い水のほとりに、虚無の縁が、薄く、立ち上がってきた。
立ち上がってくる速さは、一万六回の中の、どの開き方とも、違っていた。
縁の薄さは、一万六回目の終わりの、虚無の縁の白い滲みより、もう一段、薄い。
薄さの中で、虚無の縁の輪郭は、ゆっくり、二人の足元のそばまで、寄ってきた。
寄ってきた虚無の縁の中に、観測者の輪郭が、ゆっくり、立った。
立った輪郭は、過去の四度の揺らぎのどれよりも、揺れていた。
王宮の身代わり死の前夜の狭間で、観測者が、初めて、揺れた。
修道院の長期戦型を引いた朝、二度目の揺らぎが、来た。
修道院の部分逆流の終わり、三度目の揺らぎが、観測者の声の半拍の遅れとして、現れた。
海面下の両方向の同期の完成、四度目の揺らぎが、初めて、疑問形の声として、私の側に、届いた。
過去の四度の揺らぎは、私の側の累積の中に、ひと続きの線として、あった。
今、五度目の揺らぎが、私と彼の前で、薄い輪郭のまま、立っていた。
彼の意識は、私の意識と、揃った位相のまま、観測者の方角に、向きを取った。
二人で、観測者と、対峙する構図。
一万世のあいだ、私一人で、観測者と、対峙してきた。狭間で。声だけで。
今、その構図が、初めて、二人の側に、開かれていた。
開かれた構図の上で、二人の薄荷の痣の熱は、揃った位相を、保ち続けていた。
* * *
「遅れた」
観測者の声は、低く、深い場所から、出てきた。
無機質の縁の中に、薄く、別の手触りが、混ざっていた。
「——観測者としての、私の、結線の不具合だ」
不具合、という語を、観測者が、自分の側に、用いたのは、これが、初めてだった。
私と彼は、応えを、すぐには、返さなかった。
返さない時間の長さの中で、二人の薄荷の痣の熱は、揃ったまま、警戒を、保ち続けていた。
観測者は、私たちの沈黙を、長く、受けた。
受けたあと、深い場所から、続けた。
「報告する。——今世は、これまでのような、死の契約では、ない」
二人の意識は、観測者の声の方角へ、深く、向き直った。
「二人が、共同で、次の選択を、引く世だ」
共同。
その語を、観測者が、私たちに対して、用いたのは、これが、初めてだった。
毎世、契約の主語は、私一人だった。彼は、毎世、忘却側または記憶側の、いずれかの位相に、置かれていた。
今、観測者は、私と彼を、共同の主語として、扱った。
声は、それから、新しい語彙を、置いた。
「岐路の世。——私の側の語彙では、そう呼ぶ」
岐路の世。
一万六回の中で、観測者から、その語彙を、受けたことは、なかった。
受けた語彙は、私の薄荷の痣の熱の中に、深く、降りていった。
彼の薄荷の痣の熱も、同じ深さで、その語彙を、受け取った。
「私には、結線を継続する権限が、もう、ない」
権限の喪失、という事実を、観測者が、自分の側に、置いた。
置いた事実は、観測者の輪郭の揺らぎの内側に、もう一段、深い揺らぎを、加えた。
一万六回のあいだ、観測者は、私の側に対して、権限の側に立っていた。
契約の刻限を告げる権限。残熾火の数値を計測する権限。次世の戦略を承認する権限。結線を維持する権限。
その権限を、観測者は、毎世、無機質のままで、行使してきた。
今、その権限が、観測者の側から、降りていた。
権限を、誰が、観測者から、取り上げたのか。
あるいは、観測者が、自分の側で、権限を、降ろしたのか。
どちらの動詞も、私たちの側では、まだ、判別できなかった。
判別できないまま、二人の薄荷の痣の熱の中に、その二つの動詞が、揃った位相で、置かれていた。
判別できないまま、二人の意識の中に、ひとつの問いが、揃った位相のまま、立ち上がってきた。
* * *
彼の意識が、私の方角へ、深く、寄ってきた。
寄ってきた重みは、私の側の問いを、一語、押し上げた。
「あなたは、何を、隠してきたのか」
私の声は、低く、出た。
観測者語彙ではなく、人の側の語彙のままで。
彼の側からも、同じ問いが、揃った位相で、立ち上がっていた。
観測者は、応えを、すぐには、返さなかった。
返さない時間の長さは、一万六回の中の、どの沈黙よりも、長かった。
長い沈黙の縁に、観測者の輪郭が、薄く、揺れていた。
揺れの意味を、私たちは、まだ、書こうとして、書けなかった。
書けない、という事実だけを、二人の薄荷の痣の熱の中に、置いた。
置いた事実は、観測者の沈黙の長さと、ぴたりと、揃った位相で、保たれていた。
ようやく、観測者の声が、戻ってきた。
「時間をくれ」
時間、という語を、観測者が、自分の側に、要求したのは、これが、初めてだった。
観測者は、これまで、時間の側に立っていた。一万世のあいだ、契約の刻限を、私の側に告げてきた。
今、その時間の側ではない場所に、観測者は、立っていた。
「——観測者としての、最後の、義務を、果たさせろ」
義務、という語の縁に、無機質ではない側の、薄い手触りが、混ざっていた。
最後、という語の意味を、私たちは、まだ、自分たちで、辿ろうとは、しなかった。
彼の意識が、私の方角へ、揃った位相を、寄せた。
私の意識も、彼の方角へ、揃った位相を、返した。
寄せ合った位相の中で、ひとつの応えが、二人の側に、立ち上がってきた。
断ることも、できた。
観測者の権限の喪失が、私たちに伝わった以上、観測者の最後の義務を、私たちが、許す必要は、ない。
私たちが、許さなければ、観測者は、ここから、退かない。退かないまま、葦の縁の青さの中で、輪郭を保ったまま、消えていく。
消えていく観測者の輪郭の意味を、私たちは、自分たちで、想像した。
想像した先に、観測者の最後の義務の輪郭が、薄く、立っていた。
その義務の意味を、私たちは、まだ、知らない。
知らないまま、私たちは、観測者の側に、応えを、置いた。
「許す」
声は、二人の魂の、いちばん奥の場所から、揃った位相のまま、出ていった。
許す、というその一語は、観測者の語彙の、いちばん端の場所へ、ゆっくり、届いた。
届いた一語の輪郭は、観測者の揺らぎの内側で、深い場所まで、受け止められた。
受け止めた、という動詞を、観測者が、自分の側に、置いたのも、これが、初めてだった。
受け止めた動詞の上に、観測者の輪郭の揺らぎは、深さを、もう一段、増やした。
増やした深さの中で、観測者の無機質の縁が、薄く、内側へ、向き直った。
向き直った縁の意味を、私たちは、まだ、自分たちで、書こうとはしなかった。
* * *
観測者の輪郭は、ゆっくり、虚無の縁の方角へ、退いていった。
退きの最後の折り目で、声が、もう一度だけ、置かれた。
「また、明日」
また、という副詞と、明日、という名詞。
観測者の語彙の、どの欄にも、置かれてこなかった、人の側の、別れの言葉だった。
その別れの言葉は、葦の縁の青さの中に、ゆっくり、降りていった。
降りていった先に、観測者の輪郭は、薄く、消えていった。
消えた跡に、虚無の縁の白い滲みが、薄く、しばらく、残った。
残った滲みは、葦の縁の青さの深さに、ゆっくり、吸い込まれていった。
吸い込まれた跡に、私と彼だけが、揃った位相のまま、座っていた。
明日、という語が、私たちの薄荷の痣の熱の中に、新しい輪郭として、置かれていた。
明日、という語の意味を、私たちは、まだ、自分たちで、辿ろうとは、しなかった。
ただ、観測者が、明日、もう一度、ここへ来るという事実だけを、二人の魂の、いちばん奥の場所に、揃った位相のまま、預けた。
預けた事実の上に、葦の縁の青さは、いつもの深さで、降り続けていた。
降り続ける青さの中で、二人の薄荷の痣の熱は、揃ったまま、長く、保たれていた。
保たれている熱の方角の先に、岐路の世、という語の輪郭が、薄く、立ち上がってきた。
立ち上がってきた輪郭の意味を、私たちは、これから、二人で、辿り始める。
辿り始める前の、最後の沈黙のひと拍を、私と彼は、揃った位相のまま、葦の縁の青さの中で、共有していた。
共有のひと拍の中で、観測者の最後の別れの言葉、また、明日、という二語が、もう一度、薄く、立ち上がった。
立ち上がった二語は、葦の縁の青さの深さに、ゆっくり、降りていった。
降りていった先に、明日の朝の輪郭が、まだ、開かないまま、薄く、置かれていた。
置かれた輪郭の上で、私たちは、揃った位相のまま、葦の縁の青さを、長く、見ていた。
見ていた時間の長さは、もう、計測の桁の上には、置かれていなかった。
葦の縁の青さの中で、明日の輪郭は、ゆっくり、近づきつつ、まだ、薄く、保たれていた。
保たれていた輪郭の上に、二人の薄荷の痣の熱が、揃った位相のまま、降り続けていた。
降り続ける熱の中で、私たちは、観測者が、明日、何を、最後の義務として、置いていくのか、まだ、書こうとは、しなかった。
書かないまま、葦の縁の青さは、いつもの深さで、ふたりの足元に、長く、寄り続けていた。
『また、明日』
観測者の語彙の、どの欄にも、置かれてこなかった、人の側の、別れの言葉だった。




