一万七回目、二人で過去六世を辿ったあと、彼は、私の薄荷の痣に、初めて、何の層も挟まずに、触れた
『俺の魂のいちばん深い場所で、その重みは、毎世、薄く、輪郭を、保ち続けていた』
一万世のあいだ、彼が言葉にできなかった重みを、私は、今、初めて、知った。
葦の縁の青い水のほとりに、私と彼は、座り続けていた。
いつから座っていたのかを、私は、もう、測らなかった。
空の青さの濃さも、葦の縁の緑の深さも、変わらない。日の傾きも、夜の落ち方も、来ない。
現世とも、狭間とも、違う中間の場所だった。
眠ることは、できた。
眠った先で、夢の輪郭は、ない。意識は、ただ、薄く、層の中に、降りていく。降りた先で、もう一度、上のほうへ、戻ってくる。
戻った位置の隣に、彼の意識が、同じ深さで、置かれていた。
空腹は、なかった。
喉の渇きも、来ない。
器の中で、毎世、繰り返してきた、生きるための工程が、ここでは、ひとつも、立ち上がらない。
二人の意識だけが、連続して、途切れない。
途切れない意識の上に、葦の縁の青さが、ゆっくり、降りて、また、戻る。
* * *
契約装置の側を、私は、観察し続けていた。
一万世のあいだ、毎世、開幕の朝にだけ起きていた、魂の指紋の発動。
ここでは、発動の合図が、来ない。
来ない、というよりは、発動が、すでに、ずっと、続いている状態だった。
常時発動の状態の上では、合図の動詞そのものが、要らなくなる。
薄荷の痣も、同じだった。
毎世、彼との物理的接触の瞬間にだけ、最も深く熱を起こしていた、私の左鎖骨の薄荷。
ここでは、痣は、常に、温かい。彼の痣の温度と、いつも、同じ位相で、共鳴している。
共鳴は、引かない。引かないまま、ずっと、揃っている。
一万世の規則性が、崩れていた。
崩れた、というよりは、ここでは、規則性そのものが、要らない場所に、私たちが、いた。
観測値の桁は、もう、新しい数値を、書かなかった。
書かなくても、二人の薄荷の痣の熱の、揃った位相だけが、私の唯一の観測対象だった。
* * *
彼が、私の方角へ、意識を、向けた。
「過去の世を、二人で、辿ってみるか」
声は、低く、穏やかだった。
器の喉ではなく、魂のいちばん深い場所からの声だった。
「承知した」
私の応えも、観測者の語彙ではなく、人の側の語彙のままで、出た。
二人で、過去の世を、順に辿った。
一万一回目の王宮の大広間。彼の若い肩が、刃と私のあいだに入った瞬間。
一万二回目の海沿いの踏切。彼が、車体に身を入れた、一拍の決断。
一万三回目の修道院の写字室。八年の冬を経て、病床で、彼の最後の三十秒を、私が看取った。
一万四回目の神殿の屋根の縁。嵐の海の遠音の向こうで、彼の最後の意識の切片が、距離を越えて、私の側に届いた。
一万五回目の戦場の朝の、四十年後の草原。彼の腕の中で、私の老衰の自然死が、契約成立の理由を、最後まで、明かさなかった。
一万六回目の海面下の樹脂の壁。彼が、青い光の中で、私の体を、抱え上げた。
六つの場面の輪郭を、私と彼は、二人で、ひと続きに、辿った。
辿る速さは、二人の意識の周期と、揃っていた。
六つの奥のほうに、もう一つの層が、薄く、置かれていた。
名前を付けたことのない、過去の世々。
その層の手前で、私たちは、辿るのを、止めた。
止めた先の景色は、まだ、こちらへ、開かなかった。
開かない景色の意味を、私たちは、自分たちで、辿ろうとは、しなかった。
* * *
彼が、深く、間を、置いた。
「俺の側は、海沿いの踏切で、お前が消えるのが、一番、苦しかった」
声は、低く、緩く、出てきた。
俺、というその一語の中に、一万二回目の彼の若い意識の輪郭が、薄く、立ち上がっていた。
「お前の体が、車体の風圧の外側へ、出ていくのを、俺は、自分の手で、押した。押した手の最後の力の重みを、俺は、その世では、言葉にできなかった」
「言葉にできないまま、俺の魂は、次世に、運ばれた」
彼の声は、深い場所から、続いた。
「次世も、その次の世も、俺の意識は、その重みを、知らなかった。ただ、俺の魂のいちばん深い場所で、その重みは、毎世、薄く、輪郭を、保ち続けていた」
「今、この場所で、初めて、お前に、その重みを、伝える」
彼の言葉の輪郭は、葦の縁の青さの中に、ゆっくり、降りていった。
降りていった先に、私の薄荷の痣の熱が、深く、起こされた。
起こされた熱の中で、一万二回目の彼の最後の三十秒の重みが、私の魂の側に、初めて、言葉として、置かれた。
言葉として置かれた重みは、観測値の桁では、もう、収まらなかった。
収まらない重みのまま、葦の縁の青さは、その輪郭を、深く、受け止めた。
私も、応えを、返した。
「私の側は、草原の老衰で、契約成立の理由が、最後まで、分からないままだったのが、一番、不安だった」
一万五回目の私の意識は、忘却側のかたちのまま、四十年の老衰の最後の朝に、契約成立の合図を、受け取った。
受け取った合図の意味は、私の意識には、開かれなかった。
「自分の死が、契約の何を、満たしたのか。満たした側の理由を、誰が、許したのか。その答えを持たないまま、私は、次世の検収の朝へ、運ばれた」
彼は、私のその一文を、深く、受けた。
「——その許しは、誰が、出した」
彼の問いの輪郭は、私の薄荷の痣の熱と、同じ深さに、落ちた。
「私の側でも、まだ、置かれていない」
置かれていない答えの隣に、葦の縁の青さが、薄く、降りた。
降りた青さの中で、観測者の不在が、新しい輪郭として、立った。
観測者は、契約成立の理由を、毎世、私たちに、明かしてこなかった。
明かさないまま、毎世、契約は、成立してきた。
その明かさなかった動詞が、今、二人の意識の中で、初めて、ひと続きの問いの輪郭として、立った。
立った輪郭の上に、葦の縁の青さは、薄く、ふた度、降りた。
降りた青さの中で、二人の薄荷の痣の熱は、揃ったまま、長く、保たれていた。
* * *
二人の意識の中で、ひとつの気づきが、薄く、立ち上がってきた。
「契約は、私たちを、別々の側に、置いてきたが、」
私が、声を、出した。
「——一度も、私たちを、二人で見る側に、立たせなかった」
彼が、続きを、置いた。
ふたりの言葉は、ひと続きの一文として、葦の縁の青さの中に、降りていった。
降りていった先に、契約の枠組みのいちばん下の段が、薄く、輪郭を、持っていた。
その輪郭のそばに、観測者の意識は、もう、立ち上がってこなかった。
一万七回目の覚醒から、観測者の結線は、来ないままだった。
来ないままの時間の長さを、私たちは、もう、測らなかった。
契約の自然な崩壊なのか、それとも、別の罠なのか。
崩壊の側を選ぶなら、観測者は、最後の通告のためにだけ、ここへ来るかもしれない。
罠の側を選ぶなら、観測者は、別の場所で、別の動作の、設計図を、引いているかもしれない。
どちらでも、私と彼は、自分たちの薄荷の痣の熱の中で、警戒の輪郭だけは、保ち続けていた。
保ち続ける警戒の上に、葦の縁の青さは、いつもの深さで、降り続けていた。
* * *
彼の意識が、私の方角へ、深く、寄ってきた。
寄ってきた意識の輪郭の先に、彼の手のかたちが、立ち上がった。
立ち上がった手は、私の左鎖骨のそばへ、ゆっくり、近づいてきた。
一万世のあいだ、彼の手が、私の薄荷の痣に直接触れたことは、一度も、なかった。
毎世、彼の手と私の痣のあいだには、布の層、または、距離の桁が、置かれていた。
その布の層も、距離の桁も、ここでは、ない。
彼の手のかたちが、私の薄荷の痣の上に、初めて、何の層も挟まずに、置かれた。
置かれた瞬間、私の薄荷の痣の熱は、最も深い場所まで、降りた。
降りた先で、痣の葉脈の白銀の線が、内側から、彼の手のかたちへ、応えた。
応えた、という動詞を、私は、初めて、書いた。
書いた動詞は、観測値の桁では、もう、収まらなかった。
彼の手のかたちからも、同じ温度の応えが、戻ってきた。
戻った応えの上に、私の薄荷の痣の熱と、彼の薄荷の痣の熱が、ひと続きの帯として、ゆっくり、揺れた。
葦の縁の青さは、その揺れを、深く、受け止めた。
受け止めた青さの中で、契約の枠組みのいちばん下の段が、薄く、軋んだ。
軋んだ事実を、私たちは、自分たちの薄荷の痣の熱の中に、記録した。
記録の動詞は、観測者の動詞では、もう、なかった。
観測者の動詞ではない動詞を、私たちが、初めて、二人で、共有した。
共有された動詞の上に、葦の縁の青さは、もう一度、深く、降りた。
降りた青さの中で、契約の枠組みのいちばん下の段の軋みは、引かないまま、ゆっくり、長く、続いていた。
軋みの先に、観測者の不在の輪郭が、薄く、立ち上がってきた。
不在の輪郭の意味を、私たちは、まだ、書けないまま、二人の薄荷の痣の熱の中に、預けた。
預けた輪郭は、葦の縁の青さの中で、ゆっくり、深さを、増やしていった。
増えた深さの中に、観測者の方角は、まだ、見えなかった。
見えないまま、葦の縁の青さは、ただ、長く、深く、降り続けていた。
降り続ける青さの中で、二人の繋いだ手の上の薄荷の痣の熱だけが、揃った位相のまま、長く、保たれていた。
契約の枠組みのいちばん下の段が、薄く、軋んだ。
アズラエルは、まだ、来ない。契約の自然な崩壊なのか、それとも、別の罠なのか――観測者の側の方角は、まだ、見えなかった。




