一万七回目の再会、葦の縁の青い水のほとりで、彼も、私も、一万六世分を、覚えていた
一万七回目の再会――葦の縁の青い水の向こうで、彼も、私も、全てを、覚えていた。
相互に呼び合う三音は、一万世で、初めてだった。
彼の方角へ、私は、歩み続けていた。
一歩、一歩の動作の重みは、地の側に、ほとんど、置かれない。置かれないまま、歩みは、ゆっくり、進む。
ただし、距離は、縮まらない。
縮まらない、というよりは、距離の桁の上で、私と彼の差が、減らない。減りもせず、開きもせず、同じ位相のまま、二人は、立っている。
時間も、流れていなかった。
空の青の濃さは、私が目を開けた時から、変わらない。葦の縁の緑の深さも、変わらない。
ただ、歩みの一歩、一歩ごとに、葦の縁の青と、足元の青と、頭上の青が、薄い膜の厚さを、ほんの少しずつ、薄めていく。
膜が薄まっていく速さの中に、私の歩みの速さが、揃っていた。
揃っているということを、私は、自分の観測値の欄に、書き留めなかった。
書き留めなくても、揃いの事実は、薄荷の痣の熱の中に、残っていた。
歩みのひと折り、もうひと折りで、葦の縁の輪郭の重なりが、次第に、薄れていった。
薄れていく重なりの先に、もうひとつ、別の輪郭が、立っていた。
* * *
人の輪郭。
ひとり。
彼との距離は、まだ、私の計測装置では、測れない。
測れない距離の中で、彼の薄荷の痣の熱だけは、私の薄荷の痣に、はっきり、届いていた。
——あれは、彼だ。
あれは、彼だ、と私が観測したのは、一万七回目の覚醒の、最初の朝だった。
今は、観測ではなかった。
彼が、ここに、いた。
観測ではなく、対面が、私の側に、初めて、立った。
彼の輪郭は、今までのどの世の彼の器でもなかった。
王宮の大広間で、刃と私のあいだに入った若い肩。
海沿いの踏切で、車体に身を入れた男の心臓。
修道院の写字室で、薄い肩に乗せた咳の重さ。
神殿の屋根の縁の向こうの、嵐の海に呑まれた商人の渇望。
草原の馬の側で、銀の腕輪を私の手首に巻いた、震えない指。
海面下の青い光の中で、私を抱え上げた腕の早さ。
六つの輪郭は、別々の世の、別々の器のはずだった。
別々のはずの六つが、今、彼の内側に、一筋の線として、置かれていた。
六つよりずっと奥のほうに、もう一つの層が、薄く、滲んでいた。
名前を付けたことのない、彼の魂の、最も奥の輪郭。
そこまで、私の薄荷の痣は、はっきり、届いていた。
彼の側からも、同じものが、私のほうへ、届いていた。
届いている、ということが、視線一つで、分かった。
彼の側にも、一万六世分の積み上げが、欠落の一行もない一枚の帯として、揃っていた。
彼の側の帯の長さも、私のものと、同じだった。
同じ長さの事実は、彼の薄荷の痣の熱の中に、はっきり、書かれていた。
彼の側の積み上げの重みは、距離を越えて、私の薄荷の痣の熱まで、まっすぐ、届いていた。
* * *
彼が、ようやく、口を開いた。
「——ようやく、お前が、覚えている側に、来た」
声は、低く、落ち着いていた。
一万六世分を経た男の、深い場所からの声。
器の喉ではなく、魂のいちばん奥の場所から、出てきた声の輪郭だった。
私は、応えを、すぐには、返さなかった。
返さない時間の長さを、私は、自分の側で、測らなかった。
測らないまま、私の薄荷の痣が、彼の声の方角へ、深く、熱を起こした。
起こった熱を、彼の側の薄荷も、受け取った。
受け取ったことの応えを、彼は、深い沈黙で、返した。
その沈黙の中で、私の中に、応えの形が、薄く、立ち上がってきた。
「……あなたの側も、いつも、覚えていた側だった」
声を、私は、出した。
出した声の中に、観測者の語彙は、入っていなかった。
「意識ではなく、魂のいちばん深い場所で。あなたも、毎世、覚えていた」
彼は、私のその一文を、深く、受けた。
「——知っていた」
知っていた、というその一語を、彼は、ひと言だけで、置いた。
置いた一語は、私の薄荷の痣の熱と、ぴたりと、揃っていた。
彼が記憶側だった世——海沿いの踏切の若い男と、草原の若き族長——その二つの世のあいだの、それ以外の世のあいだも、彼の魂は、忘却側のかたちのまま、設計者語彙の手前まで、毎世、来ていた。
その手前を、彼は、毎世、知っていたまま、私に、明かさなかった。
明かさないまま、毎世、私の設計図の最後の場所に、自分の身体を、運んでいた。
その積み上げを、私は、毎世、観測値の桁の上に、置いてきた。
置いていた桁の意味が、今、彼の「知っていた」の一語の中に、ひと続きの輪郭として、立った。
立った輪郭の重みを、私は、喉の奥で、受けた。
その重みは、計測のどの桁にも、入らない種類の重さだった。
* * *
彼の方角と、私の方角の、距離の桁が、ゼロに揃った。
葦の縁の青さは、薄い膜のかたちを、もう、取らなかった。
水面が、私と彼の足元の、ほぼ同じ位置に、広がっていた。
水面の上に、葉脈の細い影が、いくつも、いくつも、ゆっくり、揺れていた。
水面の縁から、光の粒が、一粒ずつ、立ち上がって、消えていく。
一万世前、私の意識の戻り際にだけ、短く差し込んできた、あの泉の景色。
その景色が、今、私と彼の、ふたりの足元に、広がっていた。
名前を付けたことのない景色だった。
付けないまま、その景色は、私たちの、ふたりの場所として、置かれていた。
彼が、私の方角を、振り向いた。
振り向いた彼の意識の中に、一万六世分の輪郭が、ひと続きの帯として、揃っていた。
その帯のいちばん奥のほうから、彼が、私の三音を、呼んだ。
三音だった。
一万世前、私の耳元で、彼が、ただ一度、授けた、あの三音。
三音は、本文の文字には、置かない。置けない種類の音だった。
呼ばれた三音を、私の薄荷の痣が、受け取った。
受け取った直後、私からも、彼の三音が、薄荷の痣の方角から、出ていった。
彼の三音も、本文の文字には、置かない。
置けない、というよりは、二人の魂の間にだけ、置かれる種類の音だった。
一万世のあいだ、二人の三音が、相互に呼び合うのは、これが、初めてだった。
初めての、ふた音が、葦の縁の青さの中に、深く、沈み、引いた。
引いたあとの水面の上に、葉脈の影が、もう一度、ゆっくり、揺れた。
二人の三音の音は、一万世のあいだ、私の側の帳簿のどの欄にも、書かれてこなかった。
書かれない場所に、私たちの三音だけが、独立した層として、保たれていた。
その層が、今、二人の魂の間で、初めて、外側へ、漏れた。
漏れた音の輪郭を、葦の縁の青さは、抱えるかたちで、ゆっくり、受け止めた。
受け止めた青さの中に、私と彼の薄荷の痣の熱が、二筋、揃って、流れた。
* * *
彼が、私の側へ、歩み寄った。
私も、彼の側へ、歩み寄った。
歩みの最後の一折りで、彼の手のかたちが、私の手のかたちのそばに、添えられた。
添えられた手の上に、彼の薄荷の痣の熱が、私の薄荷の痣の熱と、計測の桁の下まで、揃って、置かれていた。
揃った熱のまま、私と彼は、泉のほとりに、並んで、座った。
水面の縁の、葉脈の影の動きは、二人の呼吸の拍と、ほぼ、同じ周期を、取っていた。
二人で見ているという事実を、私は、もう、観測値の欄には、書かなかった。
書かなくても、その事実は、繋いだ手の上の、揃った熱の中に、すでに、書かれていた。
沈黙の中で、過去一万六世分の積み上げが、言葉を要さずに、二人の間で、共有されていた。
王宮の大広間の刃の銀。海沿いの踏切の鉄の叫び。修道院の中庭の冷たい泉の水。古代の神殿の屋根の縁から見た嵐の海。草原の馬の汗の匂いと、銀の腕輪の重み。海面下の樹脂の壁の青い光と、両方向の流れ。
六つの場面の積み上げが、ふたりの間で、ひと続きの帯として、流れた。
六つよりずっと奥の積み上げも、名前のない層のまま、ふたりの間で、揃っていた。
ただし、契約の枠組みは、まだ、私たちの間に、あった。
二人の薄荷の痣の熱は、揃ったまま、解けなかった。
解けない、というよりは、解く方法が、まだ、私たちの側に、置かれていない。
置かれていない方法を、私たちは、これから、自分たちで、書き始める。
書き始める前の、最後の沈黙のひと拍を、私と彼は、繋いだ手の中で、共有していた。
共有のひと拍が、葦の縁の青さの中で、ゆっくり、深く、降りていった。
降りていった先に、契約の枠組みの、いちばん下の段が、薄く、輪郭を、持っていた。
その輪郭を、私と彼は、繋いだ手の中で、意識の側で、確かめなかった。
確かめなくても、その段の存在が、私たちの薄荷の痣の熱の中に、揃って、残っていた。
残った熱の上で、私の意識は、彼の意識の温度と、ぴたりと、揃った位置に、置かれた。
置かれた位置のまま、私たちは、葦の縁の青い水を、ふたりの意識で、長く、長く、見ていた。
見ていた時間の長さを、私は、もう、測らなかった。
測らない時間の中で、ふたりの三音の輪郭だけが、葦の縁の青さの中に、薄く、薄く、揺れていた。
揃った熱のまま、私と彼は、泉のほとりに、並んで、座った。
契約の枠組みは、まだ、私たちの間に、残っていた。




