一万七回目の覚醒、器のない場所で目を開けた私は、一万六世分の記憶を抱えて、彼の方角へ、会いに行った
一万七回目――私が目を開けた場所には、もう、器がなかった。
一万六世分の積み上げの、最後の一回が、こうして始まる。
一万七回目の朝、私は、器の中ではない場所で、目を、開けた。
軋みの一拍は、来なかった。
代わりに、薄荷の痣だけが、深く、熱を起こした。
検収の手順は、いつも通り始まる。指先、足の裏、喉の奥、最後に左鎖骨の薄荷。葉脈の一筋まで、一万七回、寸分違わない。
ただし今朝、最初の三つは、確認するべき器が、なかった。
指先の節も、足の裏の硬さも、喉の奥の呼吸の一拍も、私の意識が触れようとした先に、もう存在していなかった。
残ったのは、薄荷の痣だけだった。
肌の輪郭ごと消えた場所に、痣の葉脈だけが、独立して、白銀の線を、引いている。
魂の識標。葉のかたちは、白銀の薄荷。
——これが、私の今世の、検収の対象の、すべて。
* * *
痣の熱が、葉脈の一筋を、内側からなぞった。
なぞった先で、私の意識の中に、別の場所の景色が、立ち上がった。
王宮の大広間。磨かれた大理石の床。午後の高い窓から差した光が、刃の銀を、刃の縁ごと、撥ねていた。彼の若い肩が、刃と私のあいだに、入った。
倒れた私を抱えた彼の腕は、震えていなかった。震えていなかった、というその一拍だけを、私は今、もう一度、観測した。
一万一回目の、最後の三十秒。
景色は、一拍だけ立って、消えた。
消えた跡に、別の場所が、立ち上がった。
海沿いの踏切。鉄の叫び。夏の海の塩の匂いが、車体の風圧と一緒に、私の頬を、撫でていった。彼が私の体を、踏切の外側へ、突き飛ばした。
突き飛ばした手の最後の力は、私の肩甲骨の一点に、はっきり残っていた。あの一点の温度を、今、私はもう一度、肩で、思い出した。
一万二回目の、最後の呼吸。
また消えて、別の場所が、立った。
石壁の写字室。羊皮紙と蝋燭と、乾いた羊脂の匂い。彼の咳が、奥の机から、低く、響いていた。中庭の泉の水は、冷たく澄んでいた。私は、その縁に、視線を落としていた。
彼の咳の拍に合わせて羽ペンを置く癖を、八年、私は器に覚えさせた。最後の冬、その癖は、もう、私の中の、別の動詞になっていた。
一万三回目の、八年の冬。
次の場所が、立った。
古代の神殿の屋根。日没の儀礼の刻限。雷光が、海の上を、二度、三度、走っていた。
港の沖、肉眼の届かない場所で、彼の商船は、嵐に呑まれた。距離を越えて届いた、彼の最後の意識の切片を、私は、屋根の縁で、受けた。
受けたあとに、私の器には、まだ何十年かの寿命が、残されていた。
一万四回目の、嵐の夜の、屋根の縁。
次の場所。
草原の天幕。縄の擦れた跡が、私の手首に、残っていた。彼が、その跡の上に、銀の細い腕輪を、巻いた。馬の汗の匂いが、夜の風に、混ざっていた。
戦場で私の死を止めた彼の手は、その夜、銀の腕輪を巻く時にだけ、止まらない震えを、隠していた。
一万五回目の、戦場の朝の、四十年後。
最後の場所。
海面下の樹脂の壁の、青い光。継ぎ目から、海水が、細く、入ってきていた。彼の腕が、水位の中で、私の体を、抱え上げた。掌の温度は、私の体温と、計測の桁の下まで、揃っていた。
揃った掌の下で、両方向の流れは、同じ深さの二筋になって、私の薄荷の痣に、最後の量を、回収していった。
一万六回目の、最後の呼吸。
六つの場所は、別々の世の、別々の景色のはずだった。
別々のはずの六つが、今、薄荷の痣の熱の中を、一筋の帯として、流れている。
ただし帯の長さは、六つでは、終わらない。
彼を、設計図の最後の場所まで、運んだ回数は、一万六回。
六つは、その最後の六回に、過ぎなかった。
それ以前の積み上げは、ひとつひとつの世の名前ではなく、累積の重みとして、私の魂の側に、残っていた。
名前を付ける段階を、私は、はるか以前に、終えていた。
これまでの世では、別の世の記憶は、意識の戻り際にだけ、薄い層として、短く差し込んできた。
今は、ちがう。
一万六世分の積み上げが、欠落の一行もない一枚の帯として、私の側にあった。
帯のいちばん奥のほうに、もう一色だけ、まだ輪郭の立たない景色が、薄く、滲んでいた。
その色の名前を、私は、まだ、知らない。
* * *
帯の流れが、ゆっくり、引いた。
引いたあとに、私は、自分の周囲の側の、観測に意識を移した。
空気は、ある。風は、ある。光は、ある。
ただし、肺にも、肌にも、目蓋にも、それらは、届かない。
器の肉のないところで、空気と風と光は、私の意識の輪郭の、すぐ外側を、独立して通り過ぎていた。
通り過ぎる速さは、計測の桁の下まで、揃った速さだった。
揃った速さの中で、ひとつだけ、速さの違うものが、あった。
遠くの方角の、温度。
遠さの距離は、観測値の桁では、測れない。
測れない遠さの中に、温度だけは、はっきり立っていた。
王宮の大広間で、刃の前に立った男の腕の温度。
海沿いの踏切で、電車を受けた男の心臓の温度。
病床の最後の三十秒で、私の肩の上に置かれた腕の温度。
古代の海で、距離を越えて届いた、彼の最後の意識の温度。
草原の馬の側で、布越しに覆ってきた掌の温度。
海面下の青い光の中で、私を抱え上げた腕の温度。
六つの温度は、別々の器の温度のはずだった。
別々のはずの六つが、今、遠くの方角の温度の中に、一筋の線として、置かれていた。
——あれは、彼だ。
一万世のあいだ、彼の魂は、私の側の計測装置の内側にしか、いなかった。
今は、装置の外側で、独立して、立っている。
立っている、というその動詞の置き方を、私の側は、初めて、書く。
* * *
書いた直後、私は、もうひとつの方角を、確かめた。
観測者の側。狭間。アズラエルの結線。
意識の手を伸ばした先で、結線は、立ち上がってこなかった。
立ち上がらない、ではない。立ち上がるべき場所そのものが、もう、なかった。
一万六回目の終わりの、虚無の縁の白い滲みの中で、観測者の声が、私に置いた言葉が、戻ってきた。
——次の場所で、お前が見るものを、私の側は、もう、観測できない。
今、私は、その「次の場所」に、立っていた。
立っている場所の、ひとつ向こう側に、これまでの一万六回の結線の、開かれていた層が、ある。
その層の側に、私は、意識の手を、一度、添えた。
添えた先で、層は、ゆっくり、薄く、退いた。
退いた先に、観測者の声は、もう、いなかった。
いない、という事実を、私は、保留の欄に、書いた。
* * *
書いた直後、別の方角から、もうひとつの手触りが、立ち上がってきた。
足元の側。
葦の縁の、深い緑。
葦の奥に、もう一色、深い、青い水。
一万世のあいだ、私の意識の戻り際にだけ、短く差し込んできた、あの泉の色だった。
今、その色が、足元の、ほぼ目の前に、置かれていた。
完全には、見えない。
水の輪郭は、薄い膜の向こうにあった。葦の縁も、薄い膜の向こうにあった。膜の厚さは、計測の桁では、測れない。
膜の向こうの青さに、私は、視線だけを、預けた。
預けた視線の重みの分だけ、膜は、薄く、こちらへ寄った。
寄った膜の向こうで、青さは、私の意識のいちばん深い場所まで、深く、届いた。
届いて、それ以上は、開かなかった。
——あの泉のほとりで、誰かが、笑った。
女の、短い、三音の笑い声の輪郭が、青さの内側に、薄く、滲んだ。
一万三回目の修道院の中庭で、私が初めて視線を落とした、あの泉の色と、同じ色だった。
二つの場所の青さが、今、ひとつの青さとして、目の前にあった。
帳簿の外側の問い——一万三回目の冬から、私が、ずっと、書きかけてきた、あの問い。
その問いの、芽吹いた答えの、すぐ隣の場所に、葦の縁の青さの輪郭が、置かれた。
置かれた輪郭の意味を、私は、まだ、書けない。
書けないまま、私は、その輪郭を、帳簿の外側に、置いた。
* * *
置いたあと、私は、自分の足のかたちの側に、意識を、戻した。
足のかたちの輪郭は、立ち上がっていた。地の感触は、なかった。
なかったまま、足のかたちは、地の側に、向きを取った。立つために必要な重みも、もう、要らない場所だった。
立った位置から、私は、遠くの方角の、温度のほうへ、視線を、向けた。
視線の先で、彼の方角の温度は、まだ、同じ色のまま、変わらず、立っていた。
彼の方角に、彼が、いた。
一万世のあいだ、私は、彼の方角を、観測者の側の結線の中で、毎世、辿ってきた。
結線の中の、もう一段奥の方角に、彼の魂の位相が、置かれていた。
その位相の方角を、私は、毎世、自分の足ではなく、観測値の桁の上で、計測した。
今、その桁は、もう、要らなかった。
桁の代わりに、私の足の輪郭が、彼の方角の側に、向きを揃えた。
揃えた向きの先に、葦の縁の輪郭は、薄く、こちらへ寄った。
寄った葦の側を、私は、目で確かめずに、一歩、踏み出した。
踏み出した動作の重みは、地の側に、ほとんど、置かれなかった。
置かれない重みのまま、私は、もう一歩、進んだ。
——会いに、行く。
その短いひと言は、観測者の語彙では、なかった。
保留の欄にも、帳簿の外側にも、書かれない種類の、言葉だった。
書かないまま、私は、その言葉を、自分の歩みの中に、預けた。
彼の方角の温度は、まだ、同じ色のまま、変わらず、立っていた。
立っているその温度の方角へ、私は、一歩、一歩、進んだ。
一万世のあいだ、彼の方角は、観測値の桁の上にだけ、あった。
その桁を捨てて、私は、自分の歩みの中で、彼に、会いに行く。




