一万六回目の完璧な死、海面下の事故で私は彼の腕の中に還り、狭間でアズラエルは『次はない』と告げた
彼は、最期の瞬間まで、私の名を、呼ばなかった。
——呼ばなくても、届くことを、彼の魂が、知っていた。
告白の朝から、季節が、半分、過ぎた。
夏の海風の、強い日。
北区画の連絡橋と、海面下の支柱の継ぎ目に、私の補注の鉛筆の運びが、ひと筋、書き加わっていた。
補注は、ひと行だった——継ぎ目の応力値が、設計上の許容値を、ひと月前から、薄く、超え始めている。
補修案は、すでに、書類の上で、来季の予算に、計上されていた。予算の到来までは、まだ、ひと月、残っていた。
ただ、応力値の伸び方の、いちばん下の桁に、私の予測モデルの外側の、ひと筋が、薄く、混ざっていた。
その一筋の意味は、私の側でも、まだ、判別できていない。
今世の検収の朝の、観測者の側の精度低下と、半季前の狭間の、解体閾値の判別不能と——同じひと続きの線の上に、置かれている、ひと筋。
書き加えた観測値を、私は、誰の側にも、報告していない。
その補注の確認のため、私は、海面下の、いちばん下の階の見学口に、降りていた。
彼の側の指示書に、私の名前は、最初は、書かれていなかった。
書かれていない名前を、彼は、自分の手で、指示書の脇の補佐欄に、書き加えていた。
その朝、彼は、私の机の脇で、紅茶を、ふた杯、淹れて、置いた。
いつもの紅茶だった。
いつもの紅茶の湯気が、いつもより、ひと呼吸、長く、机の上に、残った。
残った湯気の輪郭を、私は、目で、辿った。
辿りながら、見学口の通達の紙を、胸ポケットに、押し込んで、出かけた。
* * *
海面下二十メートル。
白い樹脂の確認区画の中で、私は、設計図の補注の場所を、目で、辿っていた。
壁の向こうの青い光は、夏の海の、深い場所のひと色を、映していた。
補注は、彼の鉛筆の運びの、すぐ脇に、書かれていた。
彼の鉛筆と、私の鉛筆の運びの差は、もはや、〇・〇〇五の桁の下まで、収束していた。
収束した二筋の運びを、私は、ひと筋ずつ、目で、確かめた。
確かめている最中、樹脂の継ぎ目の、いちばん下の隅から、海水が、ひと筋、入ってきた。
ひと筋は、薄かった。
薄いまま、見学口の側の警報が、低く、低く、鳴り始めた。
赤い光が、青い光の上に、別の層で、点いた。
二色は、混ざらないまま、確認区画の上の側から、緊急時の樹脂の壁が、ゆっくり、降りてきた。
降りた壁の向こう側に、見学口の通路が、あった。
降りた壁のこちら側に、私が、ひとり、残った。
水位は、足首から、膝まで、上がってきた。
器の側の心拍が、いつもより、ひと拍、深い場所で、打ち始めた。
ただし、私の魂の側の計測装置は、その日も、止まったままだった。
止まった装置の外側で、私は、心拍を、人の側の語彙で、受けた。
受けながら、私は、確認区画の中央に、立ち続けた。
* * *
彼が来る、と、私は、知っていた。
知っていた、というのは、観測値の側の動詞では、ない。
帳簿の外側の、動詞だった。
壁の向こうから、足音が、近づいてきた。
樹脂の階段を、駆け降りる音。
その足の運びの中に、一万回分の、何かが、足の拍ごとに、押し上がってきていた。
その押し上がりを、私の側は、初めて、外側から、観測した。
観測値の桁は、〇・四秒の伸び。二年目の夏に、彼の母音が初めて伸びた、あの〇・〇五秒の、八倍の桁の伸びだった。
壁の向こうで、彼の声が、ひと声、出た。
「下がっていろ」
その一声は、技術者の声、だった。
ただし、声の出方の半拍に、技術者ではない側の、ひと筋が、混じっていた。
彼が、緊急開放の手順を、内側から、繰り上げた。
樹脂の壁が、ゆっくり、上に、戻った。
戻った壁の向こうから、彼が、入ってきた。
水位は、もう、私の胸まで、上がってきていた。
彼の手が、水位の中で、私の体を、抱え上げた。
抱え上げた手の動きは、技術者の手の動きより、ひと呼吸、早かった。
早さの中に、一万世分の渇きと、恐れが、ふた筋、ねじれて、絡まっていた。
彼の腕の中で、私の左鎖骨の薄荷の痣が、最も強く、熱を、起こした。
一万六回の中で、最も強い熱。
一万三回目の修道院の、病床の腕の中の熱より、深い。
一万四回目の海の上の、距離の熱より、近い。
一万五回目の戦場の、馬の側の熱より——別の方向の、近さ。
彼の手のひらが、私の薄荷の痣の輪郭の上に、ぴたりと、置かれた。
手のひらの温度は、私の器の体温との差を、もう、計測できない場所まで、揃っていた。
私の側の手は、彼の胸の、いちばん深い場所に、置かれた。
手のひらの下で、彼の心拍は、私の心拍と、寸分違わない深さで、打っていた。
近さは、両方向の同期の、完全な形を、取った。
冬の夜の二滴は、ひと滴のひと粒だった。
今、その粒が、ひとすじの、濃い流れになって、両方向に、同じ量で、流れ始めた。
彼から私へ、ひとすじ。
私から彼へ、ひとすじ。
二筋の流れの重みは、観測値の桁の下まで、揃っていた。
揃ったまま、私の意識の側が、薄く、層をなして、ゆっくり、上のほうへ、上がっていった。
水位は、私の喉の下まで、来ていた。
彼の腕の中で、私の体は、もう、立ち上がる側の力を、持っていなかった。
彼は、最期の瞬間まで、私の名を、呼ばなかった。
呼ばなくても、届くことを、彼の魂が、知っていた。
知っていた、ということを、私の側は、最後の意識の、いちばん端の場所で、観測した。
観測値の意味は、書かない。
書けるのは、届いた、という事実だけだった。
彼の腕の中で、私の最後の呼吸が、止まった。
止まった瞬間、薄荷の痣の熱は、ひと度、いちばん深い場所まで、降りて——熾火の、両方向の同期の最後の一筋を、回収した。
回収の量は、八年型より、深く、距離型より、近く、年単位型より——別の方向の、深さを、持っていた。
深さの内訳を、私は、整理しない。
整理は、狭間で、する。
最後の意識の、いちばん端のほうで、もうひとつだけ、私の側に、観測値が、残っていた。
彼の腕の力の角度——一万一回目の王宮の大広間で、刃の前に立った彼の、止められた腕の角度と、今、私を抱える彼の腕の角度が、同じだった。
同じ角度を、彼の側は、自分の身体の、いちばん深い場所で、止めていた。
止めた力の中に、止まらない、ひと筋の、震えが、混ざっていた。
震えのひと筋を、私は、観測した。
観測したまま、私の意識は、彼の腕の中で、ふた色の青の側へ、滲んでいった。
* * *
星の海のような虚無が、開く。狭間。
その開き方は、一万六回の、どの開き方とも、違っていた。
虚無の縁が、ひと度、白く、滲んでいた。
アズラエルの輪郭は、しばらく、立たなかった。
ようやく立った輪郭は、一万六回の中で、いちばん、薄い縁を、していた。
声が、来た。
「結線、確認」
「結線、承知している」
「成立は、認める。純度の値は、今夜は、告げない」
「承知した」
声は、それから、ひと呼吸、長く、間を、置いた。
間の長さは、一万六回の中で、最も、長かった。
「次は、ない」
短い、ひと声だった。
「お前の契約は、最後の一回を、迎えた」
「次は、ない、か」
そのひと言を、私は、自分の声で、もう一度、なぞった。
なぞった声の中に、初めて、人の側の語彙が、ふた筋、混ざっていた。
「次世——お前は、目覚める。ただし、器の中では、ない。別の場所で、目覚める」
「彼は」
「彼も、目覚める」
「忘却側で、か」
「いや」
声は、ひと呼吸、止まった。
「両者、記憶持ちだ」
両者、記憶持ち。
一万六回の中で、初めて、観測者の声が、そのひと言を、私に、告げた。
帳簿の通常の欄の、いちばん下の段にも、書かれていなかった様態。
その書かれていなかった様態を、観測者は、今、私の側に、置いた。
「最終、ということだな」
「私の語彙の側からは、答えない。お前の側で、判別、せよ」
判別の桁の外側に、そのひと言の輪郭だけが、ひと筋、残った。
残った輪郭は、帳簿の外側の問いの、芽吹いた答えの、すぐ隣の場所に、置かれた。
間が、もう一度、長く、続いた。
その間の終わりに、声は、もうひとつだけ、語彙を、足した。
「ひとつだけ、伝えておく」
私は、応えない。
「次の場所で、お前が見るものを、私の側は、もう、観測できない。観測の側の役目は、お前の今世の最後の呼吸で、ひと度、終わった」
「観測者の役目が、終わる」
「私の側の言い方では、そうなる。お前の側の言い方では、別の語彙が、当たるかもしれない」
別の語彙、というその、ひと言の輪郭は、これまでのアズラエルの語彙の、いちばん端の側に、ひと筋、混じっていた。
混じった一筋の中に、観測者ではない側の、何かが、ひと滴、漏れていた。
漏れた一滴のまま、声は、それ以上、続けなかった。
接続が、切れた。
* * *
切れた直後、虚無の縁の白い滲みは、ひと度、ゆっくり、揺れて——次の場所の、ひと色を、ふた色、私の意識の側に、置いた。
ひと色は、青い水。
もうひと色は、葦の縁の、深い緑。
二色は、別の場所の、はずだった。
別の場所のはずの二色が、今、私の意識の戻り際の、ふだんの位置に、すでに、揃っていた。
揃ったまま、虚無は、もう、閉じなかった。
閉じない虚無の中に、もうひと拍、別の手触りが、混ざってきた。
彼の側の意識——別の場所で、別の側から、同じ二色を、見ている、誰かの意識の、ひと筋。
その一筋は、まだ、私の側の意識とは、繋がっていない。
繋がる前の、二筋が、同じ二色を、別の角度から、見ていた。
見ていることの、共有は——一万六回の中で、初めての形だった。
形の名前を、私は、まだ、知らない。
知らないまま、私は、次の場所の、最初の一拍を、待った。
アズラエルの言葉は、一万六回で、初めて、宣告の形をした。
——『次はない。お前の契約は、最後の一回を、迎えた』




