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20/21

残熾火、警告水準。私は彼に、初めて、自分の契約のことを、話した

 器の外に、名前を出すのは、禁則ではない。

 ——けれど、私は、一万六回目まで、出さなかった。


 翌朝、私は、寝台の縁で、虚無を、待った。


 虚無は、日の昇る前に、開いた。

 その朝の狭間で、結線確認の声は、いつもの位置から、来なかった。代わりに、アズラエルの声は、ひと呼吸、深い場所から、立ち上がってきた。


「報告する」


「観測している」


「お前の魂の、解体閾値が、見えてきた」


 解体閾値、という語が、私に向けて使われたのは、一万六回の中で、これが、初めてだった。


「通常、一世分の熾火消費量は、約一万二千から、一万八千。お前の累積摩耗の速度は、もはや、その範囲では、測れない——その伝達は、前世の終わりに、私が、お前に、置いた」


「記録している」


「今世のお前は、すでに、通常の三世分を、上回って、消費している」


「自己計算の側でも、ほぼ、同じ場所まで、来ている」


「〇・〇〇一の桁の不一致は、続いている。ただし、解体閾値の上では、その桁は、効かない」


 声は、それから、いちばん端のほうに、ひとつ、別の語彙を、置いた。


「次の死で、お前の魂は、自然解体の境に、立つ」


 自然解体。

 その語彙が、私に向けて使われたのも、これが、初めてだった。


「次世以降の供給は、保証しないのか」


「保証は、しない。閾値の上に立った魂を、次世の器に納めるかどうかは——私の側の、判断には、入っていない」


「誰の判断だ」


「判別、できない」


 判別不能の、二度目。

 今度の判別不能の桁は、〇・〇〇一の桁の上ではない。

 もっと深い場所の、ひと筋の判別不能だった。


 接続が、切れた。


   *   *   *


 現世に、戻る。


 寝台の縁から立ち上がり、机の前に、座る。

 彼の机の隣の、私の机だった。


 彼は、まだ、毛布の下で、眠っていた。

 眠っている彼の呼吸の拍を、私の魂の側の計測装置が、毎秒、自動で、数え続けていた。


 その装置は、一万六回の世のあいだ、自動で、稼働してきた。

 毎世、彼の呼吸を、毎秒、数える。

 数えた値を、設計図の最終工程の参照値に、ひとつずつ、入れていく。

 その自動性は、私の側の意思の届く位置の、ひとつ外側に、置かれていた。


 その朝、初めて、私は、その装置のほうへ、自分の意思の手を、伸ばした。

 伸ばした手の指先は、装置の外殻に、当たっただけで、内側には、入らなかった。

 装置は、慣性のままに、彼の呼吸を、毎秒、数え続けていた。


 止めようとしたが、止まらなかった——その事実だけを、私の側は、観測した。

 観測値の意味は、保留の欄に、ひと行、預けた。


 その日の昼、書類の整理は、彼と並んで、進んだ。

 補修記録の語彙の上を、彼の鉛筆と私の鉛筆が、いつもの角度で、走った。


 走らせながら、私の中の、別の場所で——夜の決断の輪郭が、ゆっくり、ひと筋、固まっていった。


 昼食の時間に、彼が、紅茶を、ふた杯、淹れた。

 ひと杯は、彼の机に。ひと杯は、私の机に。

 ふた杯のあいだの距離は、一年前より、ひと寸、近かった。


 器の二十九年が、その紅茶を、いつもの角度で、口に運ぶ。

 角度の中に、私の魂の側が、別の手触りを、ひと滴、混ぜた。

 混ぜた手触りを、彼の側は、まだ、自分の語彙では、拾えていない。


 禁則ではない。

 器の外に、契約の語彙を出すことは、帳簿のいずれの条項にも、触れない。


 ただ、私は、一万世のあいだ、その出口を、自分の側で、閉じてきた。

 閉じる、ということが、設計の精度の、根の一本だった。


 今夜、その根を、ひと本、抜く。

 抜いたあとに何が起きるかの、観測値は、私の側の帳簿の上には、ひと滴も、置かれていない。


 観測値の用意のないまま、ひとつの動作を、私は、決めた。

 決めた根拠を、私は、自分の手で、保留の欄の隣の、もうひと欄、空けた場所に、ひと言、書いた。

「答えの芽が、彼の側に、片足を、置きたがっている」

 書いた文字を、私は、すぐに、読み返した。読み返した文字の上に、私の鉛筆の握りが、ひと拍、止まった。

 止まった握りの跡は、彼の覚え書きの脇に残っていた、あの跡と、ほぼ同じ形を、していた。


   *   *   *


 夜、北区画の高層居住区の、いちばん上の階の部屋。


 暖房の樹脂の音は、その夜、低く、続いていた。

 窓の外、海面下から、青い光が、いつもより、薄く、上がってきていた。


 寝台の縁に、私と彼は、肩を並べて、座っていた。


 書類の整理は、夕食の前に、片付けてあった。

 夕食の食器も、もう、棚に、戻してあった。


 部屋の中で、片付く順番の外れたものが、ひとつ、私の側に、残されていた。


「——契約、というものが、ある」


 声は、出した。

 声を出した、という事実そのものが、一万六回の中で、初めての逸脱だった。


 彼は、目線を、私の方へ、向けた。

 向けたまま、ひと呼吸、ふた呼吸、待った。

 待つあいだ、彼の側の何かが、ゆっくり、設計図の最後の余白のほうへ、移動していくのが、私の側に、伝わってきた。


 私は、続けた。


「私の魂は、一万回以上、ある場所と、別の場所のあいだを、行き来している。器の側は、毎世、別のものに、変わる。器の中の魂だけが、変わらない」


 言葉は、私の語彙の、ふだんの選びより、ずっと、緩い形で、出ていった。

 観測値の側の語彙ではなく、人の側の語彙で、ひと言、ひと言を、選んだ。


 選んでいる最中、私の魂の側の計測装置が、ひと拍、ふた拍、迷った。

 迷ったあと、装置は——ひと度、自分の判断で、電源を、切った。


 切った、というのは、私の側の動詞ではない。

 装置の側が、内側から、自分で、止まった。

 止まった、と書くほうが、正確だった。


 〇・〇〇一の桁の不一致と、〇・〇一の桁の累積と、毎秒の呼吸の計測——その三つが、装置の中の、ひと筋の判断の上で、繋がった。


 繋がった末に、装置は、計測したくない、という、私の側の意思を、ひと滴、受け取った。

 受け取った装置は、自分の電源を、自分で、切った。


 止まった装置の上に、私は、声を、続けた。


「あなたは、その器の中の、別の魂を、毎回、宿している。覚えている側と、忘れている側は、世によって、入れ替わる。今世は、私が、覚えている側で、あなたは、忘れている側だ」


 彼は、しばらく、応えを、出さなかった。

 応えのない時間のあいだに、彼の手が、毛布の上を、ゆっくり、私の左鎖骨の側に、上がってきた。


 手は、布越しに、薄荷の痣の上で、止まった。


「……俺の側も、何かを、覚えている気がする」


 声は、低く、ひと呼吸、長く、出てきた。


「お前が、何度も、戻ってくる夢を、見る」


 夢、という単語は、彼の側の語彙だった。

 彼の側が、夢、と呼んでいるものを、私の側は——別の名前で、知っていた。


 彼の声は、それから、ひと呼吸、奥へ、引いた。


「夢の中の、お前の顔は、はっきり、しない。ただ、肩の角度が、覚えがある。声の、語尾の伸びが、覚えがある。指の、書字の癖が、覚えがある。覚えがある、という覚えが、何の覚えなのかを、俺は、自分の側では、書けない」


 書けない、というその一語を、彼は、人の側の語彙のままで、置いた。

 置かれた一語を、私は、観測値の側に、写し直さなかった。

 写し直さないまま、人の側の語彙のままで、受け取った。


 その瞬間、私の脳裏に、ひと色、ひと色、別の景色が、立った。


 葦の縁の奥に、ひと色、深い、青い水。

 水の縁に、男の、影。

 その向こうに、女の、短い、笑い声。


 三つの音が、続けて、私の耳の奥で、鳴った。


 一万回の中で、私の意識の戻り際にだけ、短く、差し込んできた、あの三音だった。


 今までの三音は、笑い声の輪郭だけが、浮かんでいた。

 今夜の三音は、輪郭の、内側まで、聴こえていた。


 誰が、何を、笑ったのか——その答えは、まだ、こちらへ、運ばれてこない。

 運ばれないまま、三音の余韻の上に、男の影の、肩の輪郭が、ゆっくり、ひと筋、浮かんだ。


 肩の輪郭は、今、私の隣の彼の、肩の輪郭と——同じ角度を、していた。


 角度は、揃っていた。

 揃ったところで、夢の側の輪郭は、薄く、ひと層、滲み、それ以上は、こちらへ、開かなかった。


 開かないまま、私の側に、ひと滴、別の手触りが、残った。


 帳簿の外側の問い——一万三回目の修道院の冬から、私が、ずっと、書きかけてきた、あの問い。

 その問いの、答えが、芽吹いた。


 芽吹いた、という事実だけが、私の側の、記録に、入った。


 答えは、具体化、されない。

 される段階に、私は、まだ、いない。


 彼の手が、薄荷の痣の上から、ひと呼吸、深く、押した。

 押した手の下で、薄荷の痣は、ゆっくり、ひと度、熱を、起こし、引いた。


 起こし、引いた、というその二拍を、私は、観測した。

 計測装置は、まだ、止まったままだった。

 止まった装置の外側で、私は、その二拍を、人の側の語彙で、受けた。


   *   *   *


 夜は、それから、深い眠りを、二人に、許さなかった。


 彼の側も、毛布を、二度、捲り直した。

 捲り直しのあいだ、彼の指は、私の薄荷の痣の縁の側に、戻ってきていた。


 窓の外、海面下の青い光は、夜じゅう、灯ったままだった。

 灯った光は、夜明け前に、ひと度、薄くなり、もう一度、戻った。


 戻った光の中で、夜が、明けた。


 明けた朝の、初めての日の光は、海面に、平らに、置かれた。

 平らな光の上に、私の今世の二十九年と、彼の今世の三十数年が、ひと並びに、並んだ。


 並びの上に、答えの芽は、まだ、葉を、ひらかない。

 葉をひらく季節は、私の側の判別できる桁の、ひとつ向こう側に、置かれていた。


 彼は、一度だけ、頷いた。

 ——そして、『俺の側も、何かを、覚えている気がする』と、静かに言った。

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