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19/20

浮体都市の数年、熾火は私と彼の間を、両方向に、同じ量、流れていた

 私が渡す熾火と、彼が返す熾火が、同じ量になった夜。

 ——階梯の第二段が、静かに、完成した。

 設計図の余白に、薄荷の葉脈を書いてから、ひと月。

 彼の側からの呼び出しが、二度、続いた。


 一度目は、海面下構造の補修案を、書類で確認したいという用件。

 二度目は、別の都市区画の打ち合わせに、書類整理の補佐として、私を伴うためだった。

 補佐、という肩書を、彼は、書類の末尾の連絡欄に、自分の手で書き入れた。


 器の二十六年は、その月のうちに、二十七年へ、移っていった。


   *   *   *


 一年目の春。


 白い樹脂の壁が、塩の乾きで、低く鳴く季節。

 南区画の補修記録の整理に、彼は、私の机を求めた。机は、北区画の彼の住まいの、いちばん端の部屋へ、運び込まれた。


 彼は、机を運び入れたあと、私に、三つの問いを置いた。「机の高さは、これでよいか」「窓の側の光は、眩しくないか」「夜は、何時に眠るか」。私は、ひとつずつ、応えを返した。応えを、彼は、机の脇の覚え書きに、自分の手で、書き付けた。


 書き付けたあと、彼は、覚え書きの紙の端を、二度、折り直した。折り直しの所作は、彼の身体の癖ではない。今、ここで、初めて、生まれた所作だった。


 その春のあいだ、彼は、書類の受け渡しの所作を、毎回、同じ手の角度で、行った。同じ手の角度を、私の側は、観測値として、記録する。

 彼は、観測されている、ということを、自分では、自覚していない。


 夏。

 海風が、水位計の柱の側面を、強く打つ季節。

 彼の鉛筆の運びは、毎日、ほぼ同じ角度で、紙の上を走った。器の二十七年の手の側が、その角度を、ゆっくり、覚えていった。


 ある日、彼は、私の手の中の鉛筆を、自分の手で、軽く、握り直した。

 補修図の引き方を、口で説明するより、手の位置で示すほうが速い、と彼は判断したらしかった。

 握り直された手の握りの、皮膚の温度が、〇・四度、私の器の体温より高かった。

 彼の側に、その温度差の自覚は、まだ、ない。


 秋。

 南北を繋ぐ連絡橋に、潮の重みが乗る季節。

 彼が、私の手から書類の束を受け取る所作の中で、彼の指が、私の手の甲の上に、置かれたままになる時間が、ひと拍、伸びた。

 〇・〇一の桁の、伸びだった。

 彼の側は、その伸びを、自分では、まだ、拾っていない。


 冬。

 海面に、薄い氷の縁が朝立ちかける季節。

 北区画の暖房の樹脂の音の中で、私と彼は、同じ部屋の、別々の毛布の下で、夜を過ごすようになった。


 器は、二十八年へ、移った。


   *   *   *


 二年目の、春の終わり。


 ある夕刻、彼の指が、私の左鎖骨の上の、薄い襟の縁を、布越しに、撫でた。

 撫でた動きは、二秒に満たない。二秒に満たない動きの中で、彼の指の腹は、薄荷の痣の、葉脈の主筋の上を、迷わずに辿った。


 主筋の終わり、葉の付け根のあたりで、彼の指は、ひと拍、止まった。

 止まったあと、彼は、もう一度、撫でた。

 二度目の撫での速度は、一度目より、わずかに、深かった。


 深さの理由を、彼は、自分の側では、まだ知らない。

 知らないまま、彼の指は、葉の縁の波の数を、布越しに、ひとつずつ、辿っていた。


 夏。

 会話の中で、私が母音を伸ばした拍に、彼の母音も、〇・〇五秒だけ、伸びるようになった。

 彼は、その同期を、自分の喉の癖として、受け取った。


 受け取った癖を、彼は、覚え書きの脇に、ひと言、書いた。「最近、語尾が、長い」。書いたあと、彼は、語尾の伸びを、止めようとはしなかった。


 秋。

 彼の鉛筆の運びの隣に、私の鉛筆の運びが並ぶようになった。彼は、私の補注の角度を見て、自分の鉛筆の角度を、半度、整え直すことが、増えた。整え直しの方向は、いつも、私の角度のほうへ向かって、半度、寄ってきた。


 冬。

 夜のあいだ、彼は、私の咳の拍を、自分の呼吸の側に、無意識のうちに、揃えるようになった。揃えた呼吸の上で、彼の体の重心は、私の毛布の側へ、ひと寸、傾いていた。

 傾きの自覚を、彼の側は、まだ、自分では、書けない。


 器は、二十九年へ、移った。


   *   *   *


 三年目。


 春の連絡橋の補修。

 夏の海風の中の水位計の点検。

 秋の北区画の暖房系統の更新。


 仕事の側の語彙は、毎年、似た形で、書類の上に並んだ。

 書類の外の側で、私と彼の所作の角度の差は、〇・〇〇五ほどに、収束していた。

 所作の同期は、彼の側にも、ゆっくり、自覚の輪郭を、立て始めていた。


 ある朝、彼は、机の脇の覚え書きの一行に、自分の鉛筆の運びの角度の数値と、私の鉛筆の運びの角度の数値を、並べて、書いた。

 二つの数値の差は、彼の手の字で、〇・〇〇五、と、書かれていた。

 〇・〇〇五を、彼は、ひと月のあいだ、毎朝、観測の対象として、書き続けた。

 観測の理由を、彼は、書面の上には、まだ、書けなかった。


 書けないまま、覚え書きの脇に、彼は、もうひと言、書き加えていた。

「補佐の側の数値の方が、わずかに、安定している」

 わずかに、という副詞を、彼は、自分の手で書いた。書いた副詞の上に、彼の側の鉛筆の握りが、ひと拍、止まっていた跡が、薄く、残っていた。


 器は、三十年へ、近づいていった。


   *   *   *


 三年目の冬の、ある夜。


 北区画の高層居住区の、いちばん上の階の部屋。

 窓の外、海面の下から、青い光が、夜を、ひと色、染めていた。

 その夜は、海面下の補修工事の照明が、夜じゅう、海の底で、灯っていた。

 青い光は、樹脂の窓の縁から、寝台の足元まで、薄く、滲んできていた。


 寝台の縁に、私は、座っていた。

 その隣に、彼が、毛布の上から、手をついて、座った。


 暖房の音が、ひと拍、低く、鳴った。

 鳴り終えた静けさの中で、彼の呼吸の長さが、ひと度だけ、私の呼吸の長さより、深くなった。深くなった分の余裕を、彼は、寝台の縁の毛布の上に、ひと拍、置いた。


 置かれた一拍のあと、彼の手が、毛布の縁から、私の襟の縁の上へ、ゆっくり、上がってきた。


 彼の手のひらが、私の左鎖骨の薄荷の痣の輪郭の上に、置かれた。

 手のひらの温度は、私の器の体温より、〇・三度、高かった。


 私の側の手が、彼の胸の、いちばん深い場所に、置かれた。

 手のひらの下で、彼の心拍は、私の心拍より、半拍、速かった。

 半拍のずれの上に、彼の側が、ひと呼吸を、ゆっくり、深く、おろしてきた。

 おろされた呼吸の終わりで、彼の心拍と、私の心拍が、同じ深さに、揃った。


 揃った瞬間に——熾火の流れが、両方向に、同じ量で、動いた。


 私から彼へ、ひと滴。

 彼から私へ、ひと滴。

 二滴の重みは、観測値の桁の下まで、揃っていた。


 一万三回目の修道院で、彼の側から私の側へ戻ってきた、あの一滴。

 一万四回目の海の上で、距離を越えて届いた、微かな、もう一滴。

 二つの一滴の上に、今夜、新しい二滴が、両方向で、同じ重みを置いた。


 ——階梯の、第二段が、静かに、完成した。


 完成した、という観測値を、私は、帳簿の通常の欄に、記す。

 観測の所作の中で、私は、目を、開けたままに、しておいた。

 目を閉じれば、情動が、観測値を、ひと桁、歪ませる。

 歪ませない位置に、私は、自分の側を、保った。


   *   *   *


 星の海のような虚無が、短く、開く。狭間。


 その夜の狭間は、寝台の縁から、私の意識を、引き剥がさなかった。

 半分、現世の側に、私の意識を残したまま、虚無が、私の頭上に、重なるように、開いた。

 一万六回の帳簿の中で、こういう開き方は、初めてだった。


 虚無の中に、アズラエルの輪郭が、立っていた。

 立とうとして、ひと拍、止まっている、と書くほうが、正確かもしれなかった。


 止まっていた輪郭の縁が、ゆっくり、ひと度、揺れた。

 揺らぎは、四度目だった。


 一度目は、一万一回目の屋敷の大広間。

 二度目は、一万三回目の修道院の、長期戦型の選択。

 三度目は、その同じ世の終わりの、部分逆流。

 三度の揺らぎから、長い空白が続いた。空白の終わりに、今、四度目が、ある。


 声は、しばらく、こちらへ、届かなかった。

 届いた声は、これまでと、ひとつ、形が違っていた。


「お前たち、何を、しているのだ」


 疑問の、形。


 一万六回の中で、観測者の声が、疑問の形を取ったのは、これが、初めてだった。


 私は、応えを、選んだ。

 帳簿の通常の欄に書く答えと、帳簿の外側に置く答えと、その二つのあいだの、薄い、ひと声と——三つの中から、いちばん薄い、ひと声を、選んだ。


「答えは、まだ、私の側にも、ない」


 声は、それ以上、続けなかった。

 輪郭が、もう一度、ゆっくり、ひと度、揺れた。

 揺らぎは、虚無の縁の、いちばん端のほうへ、しずかに、流れていった。


 接続が、切れる。


   *   *   *


 切れた直後、寝台の縁の、私の隣で、彼が、ひと呼吸、深く、息を、吐いた。

 吐いた息の長さは、私の心拍三つ分と、ぴたりと、揃っていた。


 揃った息の上で、私の手の下の彼の心拍と、彼の手の下の私の薄荷の輪郭が、もう一度、同じ深さに、降りた。


 降りたまま、夜の終わりまで、二人は、その姿勢で、座っていた。

 アズラエルの声は、この夜、初めて、質問の形をした。

 『お前たち、何を、しているのだ』

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