一万六回目、海面の上の都市で、私は技術者の彼の設計図に、自分の薄荷を書き込んだ
水の匂いの街。
——彼は、都市の骨組みを設計する側で、私に会いに来た。
一万六回目の朝、私は、樹脂の匂いで目を覚ました。
検収の手順は、変わらない。指先、足の裏、喉の奥、最後に、左鎖骨の薄荷。葉脈の一筋まで、一万六回、寸分違わない。魂の識標。葉のかたちは、白銀の薄荷。
ただし今朝は、敷布の繊維が、前世の毛皮より、薄い。器の感触が、二世続けて時代を渡ったあと、今朝、もう一度、新しい時代の側に、置き直されている。
壁は、白い樹脂の板だった。薄い継ぎ目に、塩の細かい結晶が、縦に一筋、上っている。器の履歴は、その一行で、足りた。海洋都市の南区画、移民として登録された二十六歳の女、独身、職業の欄は——未登録。
敷布の縁で、指先を一度、開いて閉じる。器の指は、節が薄く、爪は短く、手の甲には、塩の細かい乾きが、まだらに、置かれている。前の持ち主の二十六年。検収の最終工程は、いつも、その二十六年の手の甲ごと、魂が引き取る一拍だった。
ただし今朝、その一拍が、二度、来た。
来直された、と書いたほうが、正確だった。
* * *
検収を終えた直後、星の海のような虚無が、短く、開く。狭間。アズラエルの声。
「結線確認」
「結線、承知している」
声の出方が、半拍、遅かった。
遅延ではない。一万五回目の時より、もうひと段、深い場所からの、出方だった。
「報告する。お前の今世の検収を、私は、一度、やり直した」
私は、応えない。
応えないことそのものを、応えとして、返した。
「観測者の手元で、結線の精度が、二度、落ちた」
「精度の低下は、いつから」
「お前の前世の終わりから、私の側で、累積している」
「揺らぎ、ではなく、精度の、低下」
「揺らぎは、輪郭の問題だ。精度は、計測の問題だ。今、起きているのは、計測の側の、低下だ」
声は、私のほうを、見ない方角で、その応えを、返した。
「残熾火の、現在値を、要求してよいか」
「お前の自己計算と、私の手元の値が、〇・〇〇一の桁で、ずれている。これは、一万六回で、初めての、不一致だ」
「ずれの方向は」
「お前の自己計算が、私の手元より、わずかに、低い」
「私の側が、過小に、見積もっている」
「あるいは、私の側の計測が、わずかに、ずれている」
「どちらだ」
「判別できない」
判別できない、というその応えを、アズラエルが私に返したのは、これが、初めてだった。
帳簿の側の、判別不能。
一万四回目の終わりに、私は、結線の遅延を、初めて、見た。
一万五回目の中ほどで、結線の一時停止を、初めて、見た。
今、結線の判別不能を、初めて、見ている。
遅延、停止、判別不能——三つは、同じ一筋の上に、ある。
誰が、その一筋を、引いているのかを、私は、まだ、知らない。
「次世の戦略を、諮問する」
「中間型。数年型を、引く」
「根拠を述べよ」
「今世の彼の器は、海の上の都市で、生きている。都市の骨組みを、支える側だ。私の動線は、その骨組みのどこかで、彼と、交差する」
「承認。次の検収まで、結線を、維持する」
接続が、切れた。
切れた直後、もうひと拍、虚無は、閉じなかった。
閉じない、というその一拍を、私は、観測した。
観測値の意味は、書かない。書けるのは、観測した、という事実だけだった。
* * *
寝台から起き上がり、薄い樹脂の窓の縁に、額を寄せる。
窓の外、白い壁の継ぎ目の向こうに、海面が、ほぼ、額の高さで、広がっていた。
海面の上に、低い水位計の柱が、何本か、立っている。
目盛りは、私の腰の高さで、止まっていた。
器の二十六年が、その目盛りの上下を、毎日、目で追いかけてきた——その記憶が、敷布から立ち上がる残り熱の中に、残っていた。
部屋の隅、薄い樹脂の机の上に、技術者向けの書類が、束で、置かれていた。
器が、何の手伝いを、誰の下で、しているのかは、まだ、私の側に、開かれていない。
ただ、机の上の書類の脇に、海面下構造の見学の通達が、一枚、置かれていた。
通達には、午後三時、と書かれていた。
午後三時。
その一行を、私は、器の二十六年の側に、預けた。
* * *
午後三時、海面下の見学口に、私は、立った。
鉄の手すりの先で、白い樹脂の階段が、海面の下へ、まっすぐ、降りていた。
階段の途中で、空気は、塩から、樹脂の匂いに、変わった。
降りた先は、青い光の中だった。
海の側の壁は、厚い樹脂で塞がれ、その向こうから、海の底の青さが、ひと色、ひと色、層をなして、私の足元まで、滲んできていた。
光は、波の動きごとに、ゆっくり、揺れていた。
その揺れの中に、ひとり、技術者の制服を着た男が、立っていた。
設計図の束を、片腕に、抱えていた。
体の輪郭は、長く、肩は、広くも、狭くもない。
声は、まだ、聞いていない。
目が、私の方を、向いた。
向いた瞬間に、彼の腕の中の設計図の束から、一枚が、抜け落ちた。
彼は、その一枚を、目で、追わなかった。
目で追わないまま、私の顔を、見ていた。
設計図の一枚は、青い光の中を、ゆっくり、海面下の床に、落ちた。
——魂の指紋。
彼の小指の、根元のあたりに、ひとつ、力が、こもったのを、私は、観測した。
観測値は、一万一回目の屋敷の大広間と、ほぼ、同じだった。
一万一回目より、〇・〇一だけ、深い。
これは、判別不能の、〇・〇〇一の桁の話ではない。
〇・〇一の桁の、累積の、ひと段だった。
「……失礼」
彼が、ようやく、口を開いた。
声は、低く、薄く、海面下の青い光に、よく、馴染む声だった。
彼が、屈んで、落とした設計図の一枚を、拾い上げた。
拾い上げた手の動きの先のかたちが、私の側に、別の世の、別の手の動きを、呼び出す。
修道院の写本の上に、薄い指先を、置いていた、あの手。
銀の腕輪を、私の手首に、巻いた、あの手。
手のかたちは、毎世、違う。
手のかたちが、別の世の、別の手の動きを、私の側に、呼び出すのは、観測者の側の、見方の問題だった。
彼の声は、それから、技術者の説明に、戻った。
「ここから先、海面下の二十メートルが、都市の重みを、支えています」
ひとつひとつ、説明の語彙は、海面の下の構造のことだけを、扱っていた。
扱いながら、声の出方の半拍に、彼の側の何かが、いつもより、長く、止まっていた。
止まっていた、ということを、私は、記録する。
* * *
海の底の青い光の中に、ひと筋、別の青さが、混じった。
——泉。
葦の縁の奥で、ひと色、深い、別の青。
一万六回、私の意識の戻り際にだけ短く差し込んできた、あの泉の色が、今、この海面下の樹脂の壁の向こうの青さと、同じ濃さで、目の前に、立っている。
二つの青は、別の場所の、はずだった。
別の場所のはずの二つの青が、私の左鎖骨の下の薄荷の痣の熱を、同じ深さで、起こした。
起こした熱は、痣の輪郭を、なぞって、ゆっくり、引いた。
引きながら、私の側に、ひとつだけ、未整理の手触りを、残していった。
帳簿の外側に、私はその手触りを、置いた。
書く、のではない。置く。
書こうとして、まだ、書けない種類の手触りだった。
* * *
見学の終わり。
彼は、設計図の束を、壁際の低い棚の上に、置いた。
束のいちばん上の一枚に、白い余白が、ひとすじ、空いていた。
私は、自分の制服の胸ポケットから、技術者向けの細い鉛筆を、取り出した。
鉛筆は、器の二十六年が、毎日、何かに使ってきた一本だった。
棚に置かれた設計図の一枚の余白に、私は、薄荷の葉脈の紋章を、書いた。
主筋の終わりで、筆を一度だけ、止めた。
神殿の儀礼書の余白に、別の世の別の筆が、止めたのと、同じ拍だった。
書き終えて、私は、鉛筆を、ポケットに戻した。
彼は、その紋章を、消さなかった。
消さないまま、束を、もう一度、抱え上げた。
抱え上げた束の上の一枚は、彼の腕の動きに合わせて、青い光の中で、ひと度、揺れた。
揺れた紙の上に、薄荷の葉脈は、書かれたまま、海面下の青い光の角度を、ひとつ、受けた。
受けた光の角度を、私の側は、記録した。
記録する、という動詞の意味は、今朝、二度、検収の側で、薄められたばかりだった。
薄められた動詞のままで、私は、記録した。
彼の設計図の一枚に、私は、自分の薄荷の紋章を、書き込んだ。
——彼は、それを、消さなかった。




