一万五回目の完璧な死、私は彼の腕の中で自然に老い、草原の土に還った
戦場で死ななかった私たちは、
——草原の年月を、共に、老いた。
戦場で死ななかったあの夜から、私たちは、共に、年を、重ねた。
翌朝、彼は、入口の側へは戻らなかった。
戻る代わりに、彼の寝床は、私の毛皮の隣に、置き直された。
毛皮と毛皮のあいだは、ひと尺ほど、残されていた。
ひと尺は、四年のあいだ、ずっと縮まらなかった。
縮まらないまま、しかし、二枚の毛皮は、もう、別の場所には、戻らなかった。
* * *
戦は、その後、少しずつ、減っていった。
彼は、戦の出立を、若い戦士たちに、譲るようになった。
譲りながら、最後の年まで、馬の手綱は、自分の手に、置いていた。
春は、子馬の生まれる季節。
夏は、長い昼と、東の風。
秋は、羊の囲いと、毛刈り。
冬は、火の側の長い夜。
四季は、ひと回り、ひと回り、私たちの上を、撫でて、過ぎていった。
ひと回りごとに、私の髪に、白いものが、ひと筋ずつ、増えていった。
ひと回りごとに、彼の戦傷の跡が、肩や脇腹に、ひとつずつ、固まっていった。
子は、なかった。
なかった理由を、私たちのどちらも、口にしなかった。
口にしないまま、なかった、ということが、二人のあいだの、静かな、共有の事実になった。
長老たちは、最初の数年は、私の腹のことを、彼に、何度か、訊ねた。
彼は、そのたびに、目だけで、長老の問いを、返した。
返された問いを、長老は、もう一度、口にすることは、しなかった。
やがて、誰も、訊ねなくなった。
訊ねなくなった、ということが——彼の沈黙が、長老たちの言葉より、強かった、ということだった。
彼の銀の腕輪は、私の手首から、四十年、外されなかった。
二度、彼が、自分の手で、腕輪の重なり目を、磨き直した。
磨かれた銀は、最初の年と、ほとんど、同じ重さで、私の手首に、残った。
* * *
ある冬、私の手の甲を、彼は、長く、見ていた。
手の甲の、骨の浮き方が、若い頃とは、違っていた。
指の関節は、薄く、皺が寄り、爪のかたちも、丸く、痩せていた。
ただ、左の鎖骨の下、葉のかたちの、痣だけは——四十年前、村の年寄りが「白銀の薄荷」と呼んだ、その色のまま、戦の朝の風の下と、同じ濃さ、同じ輪郭で、私の体の上に、置かれていた。
他の場所が、ひとつずつ、老いていった。
ここだけは、老いなかった。
彼の目の力も、老いなかった。
肩は、戦傷の、二箇所が、雨の前に、痛むようになった。
咳は、冬の夜、増えていった。
ただ、私を見るときの、目の底のあの、長く長く何かを探してきた色だけは——四十年、ひと色も、薄まらなかった。
彼の咳の数を、私は、四十年経っても、夜のあいだ、まだ、数えていた。
数の中に、私の意思が、混ざっていることを、私は、もう、最初の冬に、気づいていた。
気づいていながら、数えるのを、止めなかった。
止めなかった理由を、私は、最後まで、自分の言葉では、説明しなかった。
* * *
最後の冬。
その年の冬は、いつもより、深かった。
雪が、天幕の縫い目から、細い粉のように、入り込んできた。
火は、絶やさなかった。
絶やさないように、若い者たちが、薪を、運んでくれた。
私の体の中の、風の通り道が、少しずつ、細くなっていくのを、私は、知っていた。
息の深さが、足りない。
足りないのに、足りなさを、痛みとしては、感じなかった。
感じない、ということは、もう、そういう体になった、ということだ。
夜のあいだ、風が、天幕の外で、馬の毛のように、長く、流れていた。
風の音は、四十年前の、戦の朝の風と、同じ音色を、まだ、持っていた。
持っているのに、その音を、聞き分ける私の耳のほうは、もう、四十年前と、同じではなかった。
夜が更けると、私の意識は、火の灯りと、彼の呼吸の音と、自分の心臓のひと拍のあいだに——細い橋のように、薄く、揺れて、繋がった。
揺れる橋の下に、虚無のような場所が、ぽつり、開きかけては、また閉じる。
閉じきらない夜が、ひと夜、ひと夜、増えていった。
彼は、その冬の、ほとんどの夜を、私の毛皮の縁に、座って過ごした。
座っているだけで、何も、しなかった。
しないまま、ずっと、私の手元の側に、彼の体の温度が、置かれていた。
* * *
ある夜——どの夜だったかは、私自身、もう、はっきりとは、覚えていない夜——彼が、私の右手を、両手で、包んだ。
包んだ手の温度は、戦の朝、馬の手綱を握ったあとの彼の手の温度に、よく似ていた。
四十年経っても、彼の手の温度は、ほとんど、変わっていなかった。
彼は、私の手を、包んだまま、何も、言わなかった。
言わないまま、彼の喉が、ひと呼吸、深く、震えた。
震えのあと、彼は、初めて、声を、出した。
「——いい、夜だ」
短く、それだけ、言った。
いい夜、という言葉の意味を、私は、しばらく、考えた。
考えてから、答えなかった。
答えなくても、その言葉が、どこに向けて出されたのかは——彼の手のひらの、私の手を包む力の、一段強くなった一拍のあいだに、私の側に、届いていた。
* * *
目を閉じる前に、私の意識は、ひと粒だけ、私の体の外側に、出た。
戦の夜の、丘の縁から、駆け下りた、あの一瞬。
止まるはずだった呼吸が、止まらなかった、あの夕。
あの夕から、四十年——息は、続いた。
続いたあとの、この夜の終わり。
——この死は、何かの、答えになるのだろうか。
名前のない、何か。
四十年のあいだ、毎晩、来なかった呼びかけ。
来ないことで、私の体の奥にだけ残り続けた、問い。
——私のこの死は、その答えに、なるのだろうか。
問いは、ひと粒、私の喉の奥に、置かれた。
置かれたまま、私は、目を、閉じた。
彼の腕が、私の肩の下に、回された。
回された腕の中で、私の体は、軽くなった。
軽くなりながら、私は、最後の息を、吐いた。
*
星の海のような、虚無が、開いた。
私は、その場所に、初めて、来たはずだった。
はずだった、のに——その場所のかたちを、私の魂のほうは、知っていた。
声が、来た。
「結線、確認」
私は、答え方を、知らなかった。
知らなかったのに、私の口が、勝手に、動いた。
「結線、確認」
「成立させた。今世も、純度は、契約の許容内」
声は、長く、説明をしなかった。
「成立の機序を、私は今夜、お前に、伝えない」
「……」
「次の世まで、お前は、その問いを、持って行く」
虚無の中で、私は、もうひと言、訊こうとした。
訊こうとして、訊けなかった。
訊く前に、声のほうが、別の話題に、移っていた。
「お前の、魂の残量を——」
声が、ひと呼吸だけ、止まった。
「もう、定量できない」
「……」
「通常、一世で消費される熾火は、約一万二千から、一万八千。お前の累積摩耗の速度は、もはや、その範囲では、測れない」
「……」
「次世。時代は、ふたたび、新しい。海の上に、人の住む都市が、組まれた、世だ。お前は、また、覚えている側に、戻る」
「承知した」
言葉が、私の口から、勝手に、出た。
承知した、という単語が、私の語彙の中に、どこから、来たのかを、私は、まだ、考える余裕が、なかった。
ただ——もうひとつだけ、私の中で、かたちを成しかけた、問いが、あった。
あの戦の夜、私の死を、彼が、物理的に、止めたとき。
止められた死の代わりに、四十年後の、自然な老いの死が、契約の側で、認められた——その認められ方の機序を、誰が、どう、決めたのか。
問いは、かたちを、最後まで、成さなかった。
成しかけたところで、声が、もう、別の話を、始めていた。
「次の検収まで、結線を、維持する」
接続が、切れる。
* * *
草原の冬は、まだ、終わっていなかった。
彼の腕の中で、私の器は、ゆっくり、冷えていく。
冷えていく器の上に、雪が、ひとひら、置かれた。
置かれたあとも、彼は、私の体を、離さなかった。
離さない、ということだけが、彼の側の、最後の答えだった。
答えは、声にはならなかった。
ならなかったのに、その答えの輪郭は、彼の胸の、いちばん深い場所のあたりで——四十年前の、戦の朝の、私の駆ける足の三歩を、捉えたあの感触と、同じ重さで、残った。
その答えに、私は——もう、声では、応えられなかった。
アズラエルは次世の予告で、私に告げた。
『お前の魂の残量を、もう、定量できない』——初めての、定量不能。




