戦場で私は彼の背を庇った――けれど彼は、一万回の設計図にない動きをした
彼の背と槍のあいだに、私は入るはずだった。
入る前に、彼の左手が、私の肩を掴んだ。
その戦の前夜、彼の手のひらは、いつもより、ひと呼吸だけ、長く、私の薄荷の痣の上に置かれた。
離れる前、彼の親指のはらが、痣の輪郭の縁を、ひと撫でした。
四年のあいだ、そんな撫で方は、一度もしていなかった。
その動作の意味を、私は、その夜、まだ、知らなかった。
* * *
戦の朝。
馬の蹄が、ひと固まりに、天幕の外に集まっていた。
彼が、戦の上着を肩に羽織って、戦士たちの先頭に立つ。
私は、天幕の入口の幕の縁に、立っていた。
戦の朝、私が外まで彼を見送りに出るのは、四年ぶりの、二度目だった。
彼が一度だけ、馬上から振り返った。
目だけ。声は、なかった。
ただ、その目の底のあの、長く長く何かを探してきた色が——朝日の中で、いつもより、はっきり、私に届いた。
戦士たちの一団は、東の風下へ、馬の蹄を散らせて、出ていった。
* * *
戦は、近かった。
部族の境の浅い窪地で、敵の一隊と、ぶつかった。
私は、村の女たちと、丘の縁の天幕の影から、戦のかたちを、遠く、見ていた。
戦の遠目は、私の村でも、子供の頃から、何度か、見ていた。
血しぶきも、馬の悲鳴も、男たちの叫びも、初めての音ではなかった。
ただ、その日——彼の背のほうへ、別の流れが、入った。
三人の敵が、彼の馬の右側面に、回り込んだ。
彼は、左の槍の応酬に、目を、取られていた。
右側面の三人のうち、後ろのひとりが、斜め後ろから、長い槍を、彼の背に向けて、構え直した。
構え直した瞬間、私の体は、動いた。
頭は、何も考えなかった。
考える前に、足が、丘の縁を、駆け下りていた。
私が走り抜けた草の音を、後ろの女たちは、止めようとして、止められなかった。
止めようとする声が、後ろで、かすれた。
私は、振り返らなかった。
彼の馬の右側、敵の槍の延長線上、彼の背と槍のあいだ——その細い、一筋の隙間に、私は、入ろうとした。
入る前に——彼の左手が、私の左肩を、掴んだ。
彼が、私の動きを、いつ、察知したのかは、今でも、分からない。
戦の中の彼の視野には、私は、入っていないはずだった。
入っていないはずなのに、彼は、私の駆ける足の最初の三歩を、いつのまにか、捉えていた。
左手で、私の肩を、掴んだまま、彼は、私の体を、自分の馬の左側へ、勢いよく、投げた。
投げると同時に、彼自身の体が、鞍の上で、深く、伏せた。
敵の長い槍は、彼の背を、僅かに、外した。
外した先には、もう、私の体は、なかった。
彼の馬の左側の草地に、私の体が、転がった。
転がりながら、私は、空を、見た。
空は、晴れていた。
その晴れ方は——四年のあいだ、彼が戦から戻ってきたどの朝の空よりも、私の目に、近かった。
体のどこかが、軋んで、痛んだ。けれど、骨は折れていない。
骨が折れていないことを、私の体は、自分で、確かめた。
確かめながら——私は、別のひとつの確かめを、していた。
——本来、ここで、私は、息を、止める側だった。
止めるはずだった、という感触が、私の喉のあたりに、薄く、残っていた。
残っているのに、私は、息をしていた。
次の息も、その次の息も、空に向かって、続いていた。
続いている息の数を、私は、数えなかった。
数えなくても、その息が、本来あるはずではなかったことを、私の体は、知っていた。
* * *
二人とも、生きていた。
戦は、その後、ふた呼吸ほどで、終わった。
彼の戦士たちが、敵の三人を、片付けた。
彼が馬を降りて、私の側へ来た。
彼は、私の体に、触れなかった。
ただ、私の体が、無事であることを、目で、確かめた。
確かめ終わったあとも、彼の口は、開かれなかった。
戦士のひとりが、低い声で、彼に何かを、訊いた。
彼は、答えなかった。答える代わりに、目だけで、戦士に、立ち位置を、戻させた。
戦士は、頭を、下げて、退いた。
彼は、私を、見た。
目の底のあの色が——朝の戦の前夜より、深く、沈んで、揺れていた。
揺れていた、というのは、四年のあいだ、初めて、見る揺れ方だった。
戦士たちの誰も、彼に、何も、言わなかった。
馬に乗り直した彼の背中を、戦士たちが、ふたつの影で、追って、引き上げた。
私は、自分の足で、丘を、登り直した。
登りながら——私の体の、いちばん深い場所が、ひと言、知っていた。
——私の死を、彼は、止めた。
止めた、という単語が、私の語彙の中にもとからあったか、わからなかった。
わからないまま、その単語が、内側から、勝手に、私の体の上に、置かれた。
* * *
夜、天幕の中。
火は、いつもより、低く、落とされていた。
彼は、入口に、座らなかった。
四年のあいだ、ひと夜も、彼が入口から離れた夜は、なかった。
今夜は、最初から、私の毛皮の、すぐ向かいに、彼は、座っていた。
長い、沈黙。
火の音だけが、ふたつの呼吸のあいだを、ゆっくり、繋いでいた。
彼が、初めて、口を、開いた。
「なぜ、お前を、生かしたかったのか」
声は、戦士の声では、なかった。
戦士が、戦士でない時の、夜の声でも、なかった。
もっと、内側の——彼自身が、彼自身に、答えを、持っていない、声だった。
「俺にも、分からない」
短く、それだけ、言った。
言葉のあとの彼の喉は、もうひと言、続けようとして、止まった。
続けようとして、続けられなかった、という止まり方を、私は、見た。
彼の中にも、答えのほうが、まだ、組み立てられていない、ということを——その止まり方は、私に、伝えた。
私は、何も、訊かなかった。
訊いたところで、彼にも、私にも、答えが、ないことを、知っていた。
言ったあと、彼は、火を、見た。
火を見たまま、しばらく、動かなかった。
私も、答えを、持たなかった。
持たないまま、私の体の中の、いちばん深い場所が、もう一度、ひと言、知った。
——今日のあの動きは、誰の、戦士の作法にも、ない、動きだった。
戦士たちの誰の記憶にも、戦の言い伝えにも、馬上の動作の、教えにも、彼があの瞬間に取った、私を投げる動きは、書かれていなかった。
書かれていない動きを、彼は、取った。
取った瞬間に、何かが——別の場所で、書き直しを、要求された。
書き直しを、誰が、要求したのかを、私は、まだ、知らなかった。
* * *
眠ろうとした。
眠ろうとして、眠れなかった。
眠れなかった、というのとも、違う。
眠りに、入る、その手前で——本来、そこに、あるはずの、何かが、なかった。
夜は、ただの、夜だった。
夜が、ただの夜であることを、私は——四年のあいだ、不思議に思ったことが、なかった。
今夜、初めて、夜が、ただの夜であることが、不思議だった。
私の体の、いちばん深い場所が、四年のあいだ、毎晩、ひとつの呼びかけを、待っていたらしかった。
待っていたという自覚は、四年のあいだ、私の側には、なかった。
なかったのに、今夜、その呼びかけが、来ない。
来ない、ということで、初めて、私の体は、自分が四年のあいだ、待っていたものの輪郭を、ひと粒だけ、知った。
ある、はずのもの。
ない、ということを、四年のあいだ、私が、気づいてこなかった、もの。
名前を、私は、持たなかった。
名前を持たないものの不在を、私は、初めて、感じていた。
毛皮の中で、私は、目を、開けたまま、夜の天井を、見ていた。
彼も、入口の側ではなく、私の向かいで、火を、見たまま、動かなかった。
ふたつの沈黙が、ひとつの天幕の中に、同居していた。
同居している、ということそのものが、何かに対する、答えだった。
その答えが、誰に向けて、出されているのかを、私は、まだ、知らなかった。
ただ——その答えが出された側の、見えない誰かが、今夜、いつもの返事を、返してこない。
返してこない、ということだけが、私の体の、いちばん深い場所に、ひと粒、落ちて、残った。
*
夜明けは、まだ、遠かった。
彼の死を、私は、もう、引けない。
彼の生を、誰かが、書き直しを、要求している。
その要求を、出した者の名前を、私は——朝になっても、知らないままだった。
彼は、その夜、夢を、見なかった。
——見なかったのだと、翌朝の彼の目だけが、私に、教えた。




