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16/19

戦場で私は彼の背を庇った――けれど彼は、一万回の設計図にない動きをした

 彼の背と槍のあいだに、私は入るはずだった。

 入る前に、彼の左手が、私の肩を掴んだ。

 その戦の前夜、彼の手のひらは、いつもより、ひと呼吸だけ、長く、私の薄荷の痣の上に置かれた。


 離れる前、彼の親指のはらが、痣の輪郭の縁を、ひと撫でした。

 四年のあいだ、そんな撫で方は、一度もしていなかった。


 その動作の意味を、私は、その夜、まだ、知らなかった。


   *   *   *


 戦の朝。


 馬の蹄が、ひと固まりに、天幕の外に集まっていた。

 彼が、戦の上着を肩に羽織って、戦士たちの先頭に立つ。


 私は、天幕の入口の幕の縁に、立っていた。

 戦の朝、私が外まで彼を見送りに出るのは、四年ぶりの、二度目だった。


 彼が一度だけ、馬上から振り返った。

 目だけ。声は、なかった。


 ただ、その目の底のあの、長く長く何かを探してきた色が——朝日の中で、いつもより、はっきり、私に届いた。


 戦士たちの一団は、東の風下へ、馬の蹄を散らせて、出ていった。


   *   *   *


 戦は、近かった。


 部族の境の浅い窪地で、敵の一隊と、ぶつかった。

 私は、村の女たちと、丘の縁の天幕の影から、戦のかたちを、遠く、見ていた。


 戦の遠目は、私の村でも、子供の頃から、何度か、見ていた。

 血しぶきも、馬の悲鳴も、男たちの叫びも、初めての音ではなかった。


 ただ、その日——彼の背のほうへ、別の流れが、入った。


 三人の敵が、彼の馬の右側面に、回り込んだ。

 彼は、左の槍の応酬に、目を、取られていた。

 右側面の三人のうち、後ろのひとりが、斜め後ろから、長い槍を、彼の背に向けて、構え直した。


 構え直した瞬間、私の体は、動いた。


 頭は、何も考えなかった。

 考える前に、足が、丘の縁を、駆け下りていた。


 私が走り抜けた草の音を、後ろの女たちは、止めようとして、止められなかった。

 止めようとする声が、後ろで、かすれた。

 私は、振り返らなかった。


 彼の馬の右側、敵の槍の延長線上、彼の背と槍のあいだ——その細い、一筋の隙間に、私は、入ろうとした。


 入る前に——彼の左手が、私の左肩を、掴んだ。


 彼が、私の動きを、いつ、察知したのかは、今でも、分からない。

 戦の中の彼の視野には、私は、入っていないはずだった。

 入っていないはずなのに、彼は、私の駆ける足の最初の三歩を、いつのまにか、捉えていた。


 左手で、私の肩を、掴んだまま、彼は、私の体を、自分の馬の左側へ、勢いよく、投げた。


 投げると同時に、彼自身の体が、鞍の上で、深く、伏せた。


 敵の長い槍は、彼の背を、僅かに、外した。

 外した先には、もう、私の体は、なかった。


 彼の馬の左側の草地に、私の体が、転がった。

 転がりながら、私は、空を、見た。


 空は、晴れていた。

 その晴れ方は——四年のあいだ、彼が戦から戻ってきたどの朝の空よりも、私の目に、近かった。


 体のどこかが、軋んで、痛んだ。けれど、骨は折れていない。

 骨が折れていないことを、私の体は、自分で、確かめた。

 確かめながら——私は、別のひとつの確かめを、していた。


 ——本来、ここで、私は、息を、止める側だった。


 止めるはずだった、という感触が、私の喉のあたりに、薄く、残っていた。

 残っているのに、私は、息をしていた。

 次の息も、その次の息も、空に向かって、続いていた。


 続いている息の数を、私は、数えなかった。

 数えなくても、その息が、本来あるはずではなかったことを、私の体は、知っていた。


   *   *   *


 二人とも、生きていた。


 戦は、その後、ふた呼吸ほどで、終わった。

 彼の戦士たちが、敵の三人を、片付けた。


 彼が馬を降りて、私の側へ来た。

 彼は、私の体に、触れなかった。

 ただ、私の体が、無事であることを、目で、確かめた。

 確かめ終わったあとも、彼の口は、開かれなかった。


 戦士のひとりが、低い声で、彼に何かを、訊いた。

 彼は、答えなかった。答える代わりに、目だけで、戦士に、立ち位置を、戻させた。

 戦士は、頭を、下げて、退いた。


 彼は、私を、見た。

 目の底のあの色が——朝の戦の前夜より、深く、沈んで、揺れていた。

 揺れていた、というのは、四年のあいだ、初めて、見る揺れ方だった。


 戦士たちの誰も、彼に、何も、言わなかった。

 馬に乗り直した彼の背中を、戦士たちが、ふたつの影で、追って、引き上げた。


 私は、自分の足で、丘を、登り直した。

 登りながら——私の体の、いちばん深い場所が、ひと言、知っていた。


 ——私の死を、彼は、止めた。


 止めた、という単語が、私の語彙の中にもとからあったか、わからなかった。

 わからないまま、その単語が、内側から、勝手に、私の体の上に、置かれた。


   *   *   *


 夜、天幕の中。


 火は、いつもより、低く、落とされていた。

 彼は、入口に、座らなかった。


 四年のあいだ、ひと夜も、彼が入口から離れた夜は、なかった。

 今夜は、最初から、私の毛皮の、すぐ向かいに、彼は、座っていた。


 長い、沈黙。


 火の音だけが、ふたつの呼吸のあいだを、ゆっくり、繋いでいた。


 彼が、初めて、口を、開いた。


「なぜ、お前を、生かしたかったのか」


 声は、戦士の声では、なかった。

 戦士が、戦士でない時の、夜の声でも、なかった。

 もっと、内側の——彼自身が、彼自身に、答えを、持っていない、声だった。


「俺にも、分からない」


 短く、それだけ、言った。


 言葉のあとの彼の喉は、もうひと言、続けようとして、止まった。

 続けようとして、続けられなかった、という止まり方を、私は、見た。

 彼の中にも、答えのほうが、まだ、組み立てられていない、ということを——その止まり方は、私に、伝えた。


 私は、何も、訊かなかった。

 訊いたところで、彼にも、私にも、答えが、ないことを、知っていた。


 言ったあと、彼は、火を、見た。

 火を見たまま、しばらく、動かなかった。


 私も、答えを、持たなかった。


 持たないまま、私の体の中の、いちばん深い場所が、もう一度、ひと言、知った。


 ——今日のあの動きは、誰の、戦士の作法にも、ない、動きだった。


 戦士たちの誰の記憶にも、戦の言い伝えにも、馬上の動作の、教えにも、彼があの瞬間に取った、私を投げる動きは、書かれていなかった。


 書かれていない動きを、彼は、取った。

 取った瞬間に、何かが——別の場所で、書き直しを、要求された。


 書き直しを、誰が、要求したのかを、私は、まだ、知らなかった。


   *   *   *


 眠ろうとした。


 眠ろうとして、眠れなかった。

 眠れなかった、というのとも、違う。


 眠りに、入る、その手前で——本来、そこに、あるはずの、何かが、なかった。


 夜は、ただの、夜だった。

 夜が、ただの夜であることを、私は——四年のあいだ、不思議に思ったことが、なかった。


 今夜、初めて、夜が、ただの夜であることが、不思議だった。


 私の体の、いちばん深い場所が、四年のあいだ、毎晩、ひとつの呼びかけを、待っていたらしかった。

 待っていたという自覚は、四年のあいだ、私の側には、なかった。

 なかったのに、今夜、その呼びかけが、来ない。

 来ない、ということで、初めて、私の体は、自分が四年のあいだ、待っていたものの輪郭を、ひと粒だけ、知った。


 ある、はずのもの。

 ない、ということを、四年のあいだ、私が、気づいてこなかった、もの。


 名前を、私は、持たなかった。

 名前を持たないものの不在を、私は、初めて、感じていた。


 毛皮の中で、私は、目を、開けたまま、夜の天井を、見ていた。

 彼も、入口の側ではなく、私の向かいで、火を、見たまま、動かなかった。


 ふたつの沈黙が、ひとつの天幕の中に、同居していた。


 同居している、ということそのものが、何かに対する、答えだった。

 その答えが、誰に向けて、出されているのかを、私は、まだ、知らなかった。


 ただ——その答えが出された側の、見えない誰かが、今夜、いつもの返事を、返してこない。

 返してこない、ということだけが、私の体の、いちばん深い場所に、ひと粒、落ちて、残った。


   *


 夜明けは、まだ、遠かった。


 彼の死を、私は、もう、引けない。

 彼の生を、誰かが、書き直しを、要求している。


 その要求を、出した者の名前を、私は——朝になっても、知らないままだった。

 彼は、その夜、夢を、見なかった。

 ——見なかったのだと、翌朝の彼の目だけが、私に、教えた。

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