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15/19

彼は一度も私の名を尋ねず、縄の跡に銀の腕輪を嵌めた

 自由は、縄より、重かった。

 逃げない理由を——私の魂のほうは、もう、知っていた。

 最初の冬は、火の側で過ごした。


 縄を解かれた手首は、しばらくのあいだ、私の中で他人の手のようだった。

 縄の跡はひと月で消えた。けれど、解かれているという感触のほうは、ひと月では馴染まなかった。


 逃げる、という言葉は、最初の数日、私の頭の中を一度だけ通った。

 通っただけで、戻ってきた。


 逃げる先がない、というだけでは、なかった。

 戻ってきた言葉のあとに、私の体の芯のあたりが——ここから動かない、と、勝手に決めた。


 決めた理由を、私は知らない。

 ただ、自由は、縄より重かった。

 逃げない理由を、私の魂のほうは、もう知っているふうだった。


   *   *   *


 戦は、季節ごとに来た。


 春の戦は、南の谷との水場の境のため。

 夏の戦は、東の部族との馬の縄張り。

 秋の戦は、冬の備えの羊の囲いのため。

 冬の戦は、もう少なかったが、それでも、年に一度はあった。


 彼が、戦のたびに天幕を出ていく。

 戦士たちを率いて、馬の蹄の音がひと固まりに遠ざかる。

 帰ってくる蹄の音は、出ていったときより、ひとつかふたつ、減っていることがあった。


 帰ってきた彼は、土と血を、肩に乾かせて天幕に戻る。

 戻ってからの最初の動作は、決まっていた。

 戦の上着を毛皮の上に置き、私の側に来て、私の顔をひと目だけ見る。

 それから、自分の寝床の側で、胡座を組む。


 この動作の順序は、四年のあいだ、ひと度も狂わなかった。


   *   *   *


 二年目の秋、彼は、私の手首に、銀の腕輪を、黙って嵌めた。


 腕輪は、敵の族長から戦利品として奪ってきたもの、ではないことを、私はすぐに分かった。

 銀の艶が、戦利品の銀ではなかった。新しく打たれて、新しく磨かれた銀だった。


 彼は、嵌めるとき、何も言わなかった。

 嵌めたあとも、何も言わなかった。

 ただ、嵌め終えた手首を、自分の手のひらでひと撫でして、立ち上がった。


 腕輪は、縄の跡があった、その同じ手首に、嵌められていた。


 縄の代わりに、銀の輪。

 重さは、縄より、ずっと、軽かった。

 軽いのに、私の手首は——縄のときよりも、深く、その輪を受け入れていた。


   *   *   *


 夜、彼は、天幕の入口に座る。


 毛皮を一枚だけ羽織って、入口の幕の内側で、外の風を聞いている。

 眠るのは、入口に座った姿勢のまま、ほんの短い時間だけ。

 奥の毛皮で深く眠るのは、彼ではなく、私のほうだった。


 彼は、私の名前を、一度も尋ねなかった。


 他の戦士は、私のことを「族長の女」と呼んだ。

 長老たちも、それで通した。

 私自身も、そう呼ばれることに馴染んでいった。


 彼だけは、その呼び方を使わなかった。

 使う代わりに、彼は、私を呼ばなかった。

 呼ばずに、目だけで、私を呼ぶ。


 名前を尋ねないのは、戦士の作法ではなかった。

 奴隷の女の名前を、族長は、本来、最初の夜に尋ねるか、勝手につけるか、どちらかをするものだ。

 彼は、どちらも、しなかった。


 尋ねたところで答えが返らない、ということを、彼の魂のほうが、先に知っていた——とでも言うように。


   *   *   *


 戦の前夜だけ、彼は、ひとつだけ違う動作をした。


 寝る前に、私の側に来て、私の左の鎖骨の上に、革の手袋を外した手のひらを、ひと呼吸だけ、置く。


 葉のかたちの痣の上、汗の冷えない一点。

 彼の手のひらが、その一点の輪郭の上に、ぴたりと収まる。

 大きさが、最初から、合うように作られていたかのようだった。


 手のひらは、ひと呼吸で、離れる。

 離れる前に、彼の指は、ほんの僅か、強く触れる。

 強く、というのは、力の話ではなかった。

 離れがたさの、話だった。


 彼は何も言わずに、自分の寝床へ戻る。

 翌朝、戦に出る。


 この動作を、彼は、四年のあいだ、戦の前夜にだけ行った。

 戦のない夜には、しなかった。

 戦から帰ってきた夜にも、しなかった。


 戦の前夜、私の薄荷の痣は、彼の手のひらの下で、いつもより一段だけ、強く熱を持った。


 熱の意味を、私は、四年経っても、まだ知らなかった。


   *   *   *


 夢を、見るようになった。


 草原の真ん中に、小さな泉がひとつある。

 泉の縁に、誰かが二人、座っている。

 顔は、よく、見えない。

 ひとりは女で、ひとりは男だ、ということだけが、なぜか分かる。


 女の声で、笑い声が、ひと節、聞こえる。

 三音だけ。

 その三音を聞いたあとの男の沈黙が、なぜか、よく覚えている、聞き慣れた沈黙だった。


 泉の向こうには、馬がいる。

 影だけが見える。たてがみが、風に、長く流れている。

 その影が、こちらに向き直りかけたところで——いつも、夢は終わる。


 目が覚めた朝、私は、夢の三音を、思い出そうとして、思い出せない。

 思い出せないのに、その三音の輪郭の重さだけが、胸の奥に、ひと粒、置かれて残っている。


 彼に話すことは、しなかった。

 話せば、彼の目の底のあの色が、もう一度、私の側に強く届いてしまう——届いたあとの私が、何をしてしまうのか、私のほうで、まだ、責任を持てなかった。


   *   *   *


 戦のたびに、彼は、傷を負って戻った。


 肩、腕、腿、脇腹。場所は毎回違ったが、深さは、いつも、ぎりぎり致命に届かない深さで止まっていた。

 戦士たちの誰も、それを偶然だとは、もう、言わなくなっていた。


 手当ては、私の役目になった。

 白湯と、布と、薬草の擦り潰し。村の年寄りが私の手に教え込んだ動作が、ここで役に立った。


 手当てのあいだ、彼は、目を閉じている。

 ときどき、目だけが、薄く開いて、私の手の動きを見た。

 見たあとの彼が——ある日の手当ての途中、ひと呼吸だけ、息を、止めた。


 布を絞る、私の手の動きの、最後のひと拍。

 その拍を見た瞬間、彼の喉が、止まった。

 止まったあと、長く息を吐いた。

 吐いた息は、戦から戻った男の息ではなく、もっと古い、ずっと古い場所から出た息のように、私の耳に届いた。


 彼は、その夜、何も言わなかった。

 翌朝、戦の前夜の手のひらを、薄荷の痣の上に、いつもより、ひと呼吸だけ長く置いた。


   *   *   *


 彼の、咳。


 戦から戻ったあとの数日、彼は、決まった頻度で、低い咳をする。

 冬の夜、私の毛皮の側で眠っている彼の咳を、私は、いつのまにか、息の数で数えていた。


 なぜ数えるのか、私には、分からなかった。

 ただ、数えていた。

 数えていたから、数えるという動作が、私の体の中の、もとからあった動作のように、続いた。


 四年のあいだ、その数は、外したことが、なかった。

 外していない、と言えること自体が、奇妙だった。

 奇妙なのに、私はその奇妙さを、誰にも、話さなかった。


 五年目の冬。


 彼が、いつもより深い傷を負って戻った。

 その夜の咳は、いつもより、ひと拍、間が、ずれた。


 数えていた私の中で——半拍だけ、ずれた。

 ずれた、というより、私のほうが、半拍、外したくなくて、揃えに行った。

 揃えに行ったのに、揃いきらなかった。


 誤って数えたのではない。

 外したくなかった、という、私の側の何かが、数の上に、混ざってきた。


 数の中に、私の意思が、混ざっている。

 その混ざりに、私は、初めて、気づいた。


 気づいたあと、私は、自分が四年のあいだ、何をしてきたのかを、半分、理解した。

 半分、まだ、理解できなかった。


   *   *   *


 夜、私は、火の側に降りて、土に薄く落ちた灰を、指で、撫でていた。


 指は、勝手に、線を引いていた。

 肩から、背中の弧、腰の角度——戦に出る前夜の、入口に座っている彼の、後ろ姿の、一本の線。


 線の終わり——彼が、入口の前で、いつか、いなくなる、という終わり。

 その終わりまで、指は、引こうとした。

 引こうとして、毎夜、引けなかった。


 彼が、入口に、座っているからだった。


 線を、終わりまで、引くためには、彼が、入口から、いなくなる夜が、必要だった。

 四年、ひと夜も、彼は、入口から、いなくなったことが、なかった。


 だから、線は、いつも途中で、止まる。

 止まったまま、私は、灰を、指で、消す。

 消すと、そこには、何もなかったことになる。


 なかったことになるのに——次の夜、私はまた、同じ線を、引き始める。


 彼の死を引き終えるための線を、毎夜、引き終えられないまま、私は、彼の入口の沈黙の側で、眠った。

 彼は一度も、私の名を尋ねなかった。

 尋ねたところで答えが返らないことを——彼の魂のほうが、先に、覚えていた。

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