彼は一度も私の名を尋ねず、縄の跡に銀の腕輪を嵌めた
自由は、縄より、重かった。
逃げない理由を——私の魂のほうは、もう、知っていた。
最初の冬は、火の側で過ごした。
縄を解かれた手首は、しばらくのあいだ、私の中で他人の手のようだった。
縄の跡はひと月で消えた。けれど、解かれているという感触のほうは、ひと月では馴染まなかった。
逃げる、という言葉は、最初の数日、私の頭の中を一度だけ通った。
通っただけで、戻ってきた。
逃げる先がない、というだけでは、なかった。
戻ってきた言葉のあとに、私の体の芯のあたりが——ここから動かない、と、勝手に決めた。
決めた理由を、私は知らない。
ただ、自由は、縄より重かった。
逃げない理由を、私の魂のほうは、もう知っているふうだった。
* * *
戦は、季節ごとに来た。
春の戦は、南の谷との水場の境のため。
夏の戦は、東の部族との馬の縄張り。
秋の戦は、冬の備えの羊の囲いのため。
冬の戦は、もう少なかったが、それでも、年に一度はあった。
彼が、戦のたびに天幕を出ていく。
戦士たちを率いて、馬の蹄の音がひと固まりに遠ざかる。
帰ってくる蹄の音は、出ていったときより、ひとつかふたつ、減っていることがあった。
帰ってきた彼は、土と血を、肩に乾かせて天幕に戻る。
戻ってからの最初の動作は、決まっていた。
戦の上着を毛皮の上に置き、私の側に来て、私の顔をひと目だけ見る。
それから、自分の寝床の側で、胡座を組む。
この動作の順序は、四年のあいだ、ひと度も狂わなかった。
* * *
二年目の秋、彼は、私の手首に、銀の腕輪を、黙って嵌めた。
腕輪は、敵の族長から戦利品として奪ってきたもの、ではないことを、私はすぐに分かった。
銀の艶が、戦利品の銀ではなかった。新しく打たれて、新しく磨かれた銀だった。
彼は、嵌めるとき、何も言わなかった。
嵌めたあとも、何も言わなかった。
ただ、嵌め終えた手首を、自分の手のひらでひと撫でして、立ち上がった。
腕輪は、縄の跡があった、その同じ手首に、嵌められていた。
縄の代わりに、銀の輪。
重さは、縄より、ずっと、軽かった。
軽いのに、私の手首は——縄のときよりも、深く、その輪を受け入れていた。
* * *
夜、彼は、天幕の入口に座る。
毛皮を一枚だけ羽織って、入口の幕の内側で、外の風を聞いている。
眠るのは、入口に座った姿勢のまま、ほんの短い時間だけ。
奥の毛皮で深く眠るのは、彼ではなく、私のほうだった。
彼は、私の名前を、一度も尋ねなかった。
他の戦士は、私のことを「族長の女」と呼んだ。
長老たちも、それで通した。
私自身も、そう呼ばれることに馴染んでいった。
彼だけは、その呼び方を使わなかった。
使う代わりに、彼は、私を呼ばなかった。
呼ばずに、目だけで、私を呼ぶ。
名前を尋ねないのは、戦士の作法ではなかった。
奴隷の女の名前を、族長は、本来、最初の夜に尋ねるか、勝手につけるか、どちらかをするものだ。
彼は、どちらも、しなかった。
尋ねたところで答えが返らない、ということを、彼の魂のほうが、先に知っていた——とでも言うように。
* * *
戦の前夜だけ、彼は、ひとつだけ違う動作をした。
寝る前に、私の側に来て、私の左の鎖骨の上に、革の手袋を外した手のひらを、ひと呼吸だけ、置く。
葉のかたちの痣の上、汗の冷えない一点。
彼の手のひらが、その一点の輪郭の上に、ぴたりと収まる。
大きさが、最初から、合うように作られていたかのようだった。
手のひらは、ひと呼吸で、離れる。
離れる前に、彼の指は、ほんの僅か、強く触れる。
強く、というのは、力の話ではなかった。
離れがたさの、話だった。
彼は何も言わずに、自分の寝床へ戻る。
翌朝、戦に出る。
この動作を、彼は、四年のあいだ、戦の前夜にだけ行った。
戦のない夜には、しなかった。
戦から帰ってきた夜にも、しなかった。
戦の前夜、私の薄荷の痣は、彼の手のひらの下で、いつもより一段だけ、強く熱を持った。
熱の意味を、私は、四年経っても、まだ知らなかった。
* * *
夢を、見るようになった。
草原の真ん中に、小さな泉がひとつある。
泉の縁に、誰かが二人、座っている。
顔は、よく、見えない。
ひとりは女で、ひとりは男だ、ということだけが、なぜか分かる。
女の声で、笑い声が、ひと節、聞こえる。
三音だけ。
その三音を聞いたあとの男の沈黙が、なぜか、よく覚えている、聞き慣れた沈黙だった。
泉の向こうには、馬がいる。
影だけが見える。たてがみが、風に、長く流れている。
その影が、こちらに向き直りかけたところで——いつも、夢は終わる。
目が覚めた朝、私は、夢の三音を、思い出そうとして、思い出せない。
思い出せないのに、その三音の輪郭の重さだけが、胸の奥に、ひと粒、置かれて残っている。
彼に話すことは、しなかった。
話せば、彼の目の底のあの色が、もう一度、私の側に強く届いてしまう——届いたあとの私が、何をしてしまうのか、私のほうで、まだ、責任を持てなかった。
* * *
戦のたびに、彼は、傷を負って戻った。
肩、腕、腿、脇腹。場所は毎回違ったが、深さは、いつも、ぎりぎり致命に届かない深さで止まっていた。
戦士たちの誰も、それを偶然だとは、もう、言わなくなっていた。
手当ては、私の役目になった。
白湯と、布と、薬草の擦り潰し。村の年寄りが私の手に教え込んだ動作が、ここで役に立った。
手当てのあいだ、彼は、目を閉じている。
ときどき、目だけが、薄く開いて、私の手の動きを見た。
見たあとの彼が——ある日の手当ての途中、ひと呼吸だけ、息を、止めた。
布を絞る、私の手の動きの、最後のひと拍。
その拍を見た瞬間、彼の喉が、止まった。
止まったあと、長く息を吐いた。
吐いた息は、戦から戻った男の息ではなく、もっと古い、ずっと古い場所から出た息のように、私の耳に届いた。
彼は、その夜、何も言わなかった。
翌朝、戦の前夜の手のひらを、薄荷の痣の上に、いつもより、ひと呼吸だけ長く置いた。
* * *
彼の、咳。
戦から戻ったあとの数日、彼は、決まった頻度で、低い咳をする。
冬の夜、私の毛皮の側で眠っている彼の咳を、私は、いつのまにか、息の数で数えていた。
なぜ数えるのか、私には、分からなかった。
ただ、数えていた。
数えていたから、数えるという動作が、私の体の中の、もとからあった動作のように、続いた。
四年のあいだ、その数は、外したことが、なかった。
外していない、と言えること自体が、奇妙だった。
奇妙なのに、私はその奇妙さを、誰にも、話さなかった。
五年目の冬。
彼が、いつもより深い傷を負って戻った。
その夜の咳は、いつもより、ひと拍、間が、ずれた。
数えていた私の中で——半拍だけ、ずれた。
ずれた、というより、私のほうが、半拍、外したくなくて、揃えに行った。
揃えに行ったのに、揃いきらなかった。
誤って数えたのではない。
外したくなかった、という、私の側の何かが、数の上に、混ざってきた。
数の中に、私の意思が、混ざっている。
その混ざりに、私は、初めて、気づいた。
気づいたあと、私は、自分が四年のあいだ、何をしてきたのかを、半分、理解した。
半分、まだ、理解できなかった。
* * *
夜、私は、火の側に降りて、土に薄く落ちた灰を、指で、撫でていた。
指は、勝手に、線を引いていた。
肩から、背中の弧、腰の角度——戦に出る前夜の、入口に座っている彼の、後ろ姿の、一本の線。
線の終わり——彼が、入口の前で、いつか、いなくなる、という終わり。
その終わりまで、指は、引こうとした。
引こうとして、毎夜、引けなかった。
彼が、入口に、座っているからだった。
線を、終わりまで、引くためには、彼が、入口から、いなくなる夜が、必要だった。
四年、ひと夜も、彼は、入口から、いなくなったことが、なかった。
だから、線は、いつも途中で、止まる。
止まったまま、私は、灰を、指で、消す。
消すと、そこには、何もなかったことになる。
なかったことになるのに——次の夜、私はまた、同じ線を、引き始める。
彼の死を引き終えるための線を、毎夜、引き終えられないまま、私は、彼の入口の沈黙の側で、眠った。
彼は一度も、私の名を尋ねなかった。
尋ねたところで答えが返らないことを——彼の魂のほうが、先に、覚えていた。




