一万五回目、縄に繋がれ族長の天幕に引かれた私に、彼は『俺の魂が、お前を、殺すなと言う』と告げた
時代はさらに遡り、草原の風の世へ。
今度は——彼が、覚えている側だった。
夕暮れの草原に、煙が低く伸びていた。
焼けた天幕の煤と、馬の汗と、人の血の匂いが、風に混ざって私の鼻に届く。
私の村は、もう、ない。
半日前まで、私の手は土を掻き、薪を割り、井戸の縄を握っていた手だった。
今、その手は別の縄に繋がれている。
粗く撚った革の縄が、両手首のあいだを通り、私の前を歩く女の腰の縄へと続く。
女は、知らない女だ。
私の村の女ではない。さらに南の、別の谷の女だろう。
彼女の足取りは、私のものより半歩、遅い。
私はその半歩に合わせて、足を運んだ。
半歩を合わせなければ、縄が肩を引く。
肩を引かれれば、私の前後の女たちがつられて転ぶ。
誰も、転んだ女がそのあとどうなるかを口に出さなかった。
ただ、誰も転んでいなかった。
私たちの行列の左右と後ろを、馬上の戦士たちが固めていた。
馬の蹄が乾いた草の根を踏み砕く音。
鞍の革が、戦士たちの腰の重みで低く軋む音。
そのあいだ、戦士たちはひと言も私たちに声をかけなかった。
ただときどき、後ろの馬の鼻息が私の首の後ろにかかった。
馬の息は、人の息よりずっと熱い。
私は視線を、足元から動かさなかった。
動かしたら、横の戦士の鞘の柄を見てしまうかもしれない。
見てしまえば、その柄が誰の血で湿っているのかを考えてしまう。
考えれば、足が止まる。
止まれば、縄が引かれる。
左の鎖骨の下が、汗ばんでいた。
夏の終わりの夕風は、私の額や首には冷たい。
けれど、その一点だけ——左の鎖骨の下、葉のかたちに広がった生まれつきの痣だけは、汗の冷えてこない場所だった。
子供の頃から、ずっとそうだった。
他の場所が冷えても、ここだけが冷えない。
村の年寄りはその色を見て「白銀の薄荷だ」と、ひと言だけ言った。それ以上は、何も言わなかった。
私も、それ以上は聞かなかった。
今日、煤と血の匂いの中で——その一点だけが、また、冷えていない。
* * *
行列が、止まった。
目の前にひとつ、白い天幕があった。
他の天幕より一回り大きく、入口の脇に長い槍が二本、地に立てられている。
槍の先には、何もつけられていなかった。
つけられていない、ということは——この戦士は、首の戦利品を入口に飾る男ではない、ということだ。
縄を引いていた戦士が、私の縄だけを列から外した。
私の前後の女たちは、別の方向へ連れていかれた。
誰の目も、私を見送らなかった。
誰も、私を知らない。
戦士は、私を天幕の前に引いた。
幕が、内側から上げられた。
最初に見えたのは、天幕の中の火のかたち。
次に、その火を背にして立っている男の輪郭。
彼は若かった。
私より、いくつか上だろう。
革の上着の肩に、戦から戻ったばかりの土と血が、薄く乾いていた。
彼は、私を見た。
その目を、私は知らない。
知らないのに、私の体の芯のあたりが——その目を知らない、ということに、なぜか納得しなかった。
彼の目には、敵意がなかった。
欲望もなかった。
戦から戻ったばかりの男が捕らえた女を見るときの、あの濁りも、なかった。
そのかわり、彼の目の底には、ひとつの色が、深く、沈んでいた。
長く、長く、何かを探してきた人の色だった。
彼は私の前で半歩、踏み出した。
半歩、それ以上は近づいてこなかった。
戦士は私の縄の端を彼に渡し、彼から短い一言を受けて、頭を下げて天幕を出ていった。
天幕の中には、火の音と、私の呼吸の音と、彼の呼吸の音、それだけが残った。
彼が、口を開いた。
「俺の魂が、お前を、殺すなと言う」
声は、低かった。
戦士の声というより、戦士が戦士でない時の、夜の声に近かった。
言葉の意味は、私の頭の外側にいったん浮いた。
働かせるために、殺さない。
慰みものにするために、殺さない。
子を産ませるために、殺さない。
けれど、彼の言葉はそのどれでもなかった。
俺の魂が、と、彼は言った。
彼自身でもない。族長としての判断でもない。
彼の魂が、と彼は言った。
私は、答え方を知らなかった。
奴隷の女が族長の天幕で、最初に何を言うべきか——村の年寄りも、教えなかった。
誰も、教えなかった。
私はただ、頭を下げた。
下げる以外の動作を、私の体は思いつかなかった。
彼は、私の縄を解かなかった。
「縄は、解かない。今夜は、このまま、置く」
声は、命令の形をしていなかった。
決めたことを、自分自身にもう一度確かめている声だった。
彼は私を、天幕の隅の毛皮の上に座らせた。
毛皮は私の知っているどの毛皮よりも厚く、私の村でなら、年寄りの長にしか許されない厚みだった。
彼は自分の寝床の側に戻り、戻ったまま横にはならなかった。
火を見たまま、胡座を組んでいる。
火の灯りが、彼の頬の半分だけを照らしていた。
もう半分は影のままで、影の中の輪郭が、戦から戻ったばかりだとは思えないほど、静かだった。
ときどき、目だけが私の側に来る。
長く見るのではない。短い、確かめるような視線。
目が来るたびに、私の左の鎖骨の下が、わずかに熱くなった。
熱の意味を、私は知らない。
ただ、その熱は不快ではなかった。
縄に擦れた手首の痛みより、ずっと内側の、深いところでゆっくり起きる熱だった。
夜が深くなっても、彼は横にならなかった。
戦から戻った男の、はずなのに。
私は毛皮の上で膝を抱え、眠ろうとした。
眠れないまま、目を閉じた。
閉じた目の裏側で——私は、知らない男の眼差しに、私の何かが応えていることを認めた。
応える、という言葉が私の語彙の中にもとからあったか、わからなかった。
わからないまま、その言葉が内側から勝手に、私の体の上に置かれた。
縄の擦れた皮膚は痛む。痛むのに、私の意識は手首から離れて、彼の側へ、ゆっくり向きを変えてしまう。
繋がれていることが、もう、私の中でいちばん重いことではなくなっていた。
* * *
夜明けの光が、天幕の縫い目から細く入ってきた。
彼はその時間にもまだ眠っていなかった。
火は、半分、灰になっていた。
彼が立ち上がり、私の側へ歩いてきた。
革の手袋を外し、私の手首の縄に手をかけた。
縄を解く動作は戦士の動きだった。指先に迷いは、なかった。
縄が、落ちた。
彼は解いた縄を、火の側に投げた。
革の縄は灰の上で、ゆっくり燻り始めた。
彼は私の前に半身をかがめた。
目の高さが、近くなった。
近くなった分だけ、彼の目の底のあの、長く長く何かを探してきた色が、もう一度はっきり私に届いた。
「どこへも、行かなくていい」
声は、昨夜より少しだけ低かった。
「ただし、行きたくなったら、行け」
もうひと言を、彼はひと呼吸、間を置いて足した。
足したあと、彼は私の答えを待たなかった。
彼は立ち上がり、天幕の入口の幕を押し上げて、外へ出ていった。
出ていったあと、入口の幕はすぐには降りなかった。
風が、外の朝の匂いをひと吹き、私の側に押し込んだ。
草の匂いと、馬の匂いと、煙の名残。
私は解かれた手首を、もう片方の手で軽く押さえた。
縄の跡が、皮膚にまだ赤く残っている。
跡は、やがて消える。
昨夜の縄そのものは、もう、灰の中にある。
逃げる、という言葉が、意外なほど薄く、私の中を通り抜けた。
通り抜けたあとに残ったものに、私は、名前を、持たなかった。
けれど、縄が解かれたあとの私の手首のほうが、縄に繋がれていたときより、重かった。
重さの正体を、私は知らない。
ただ、その重さは嫌な重さではなかった。
左の鎖骨の下、葉のかたちの痣。
その汗の冷えない一点は、ひと晩じゅう、彼の眼差しの方角にゆっくり向きを揃えていた。
朝になって、私はそのことを、初めて知った。
彼は私を縄のまま一夜置いた。
『俺の魂が、お前を、殺すなと言う』——それが、彼の最初の言葉だった。




