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13/17

三年目の嵐、雷光の中で彼の商船は沈み、屋根の上で薄荷の痣が初めて単独で熱を持った

 三年目の秋の終わり、嵐は港の上空に達する。

 屋根の縁に立つ私の左鎖骨の薄荷が、一万回の中で初めて、単独で熱を持ち始める。

 三年目の秋の終わり。


 彼の商船が最後の寄港から沖へ出てから、三日が経っていた。


 夕刻、海風が一段、重さを変えた。

 煤の匂いが、列柱の根まで降りきっている。


 あと半刻。半刻のうちに、嵐は港の上空に達する。


 半年の起点から、ここまでの計数を、私は朝の検収以来間違えていない。

 寄港のあと、彼の商船が陸を離れる速度、海の風の沈み方、空の重さの推移。

 すべて、設計図の第一稿に記された値の許容内に、収まっていた。


 私は儀礼書を脇に置き、神殿の裏手の螺旋階段を上がった。

 神殿の屋根。日没の儀礼、その刻限のあいだ、この場所は誰も使わない。


 長は奥の祭壇で、嵐よけの祈りを捧げている。

 私はその祈りに加わらない。

 私の祈りの相手は、神殿の神々ではない。


 私の祈りの相手は——というより、祈りという形式を、私は今世も持たない。

 設計図の最終工程に、祈りの欄はない。

 ただ観測と、計測と、回収の三項があるだけだ。


   *   *   *


 屋根の縁に立つ。


 港の沖、もう肉眼の届かない距離に、彼の商船は出ていた。

 ただし一万回の中で、彼の死の瞬間にだけ、私の目は距離を越える。


 帆の輪郭が、観測者の目の側に、揃ってくる。

 三つ重ねの波の家紋を染めた帆。

 海風の中で、その帆がいつもより低い角度に傾いている。


 日没ののち、空が割れた。

 雷光が、海の上を二度、三度。


 雷光のあいだに、彼の商船の輪郭が、瞬きの形で浮かぶ。

 波頭が、商船の船腹を上から叩く。一段、二段。

 船腹は耐える形を取り続ける。


 けれど三段目で、舷側げんそくの木が、海の側へしなった。

 帆柱が、ひとつ折れた。


 折れた帆柱の倒れる向きは、商家の家紋を染めた帆を、海面の方へ引き倒す向きだった。

 三つ重ねの波の家紋が、海風の中で半分、海に沈む。


 左鎖骨の下で、薄荷の痣が、熱を持ち始める。


 一万回の中で、薄荷が単独で熱を持つ——これが、初めてだった。

 接触型の死では混ざっていた熱が、距離型の死では分離して立ち上がる。

 今、契約成立の引き金が海の上で、引かれかけている。


 設計図の最終工程は、ここから先、屋根の上から距離を介して動く。


 目を閉じない。

 閉じれば、観測値が情動で歪む。


 雷光の合間に、商船の最後の輪郭を、私の目は計測する。

 計測が、今世の祈りの代わりだ。


 彼の最後の輪郭を、私が、最も正確に、最後まで観測しきる——それが、距離型の死を設計した第一稿の、中心の一項だった。


 彼の意識——最後の一筋が、薄荷の痣を介して、私の側に届いた。

 言葉ではない。光の波形に近い、短い情動の切片。


「——あの神殿の、巫女の、手」


 それが、彼が最期に再生した記憶だった。


 絹の包みを差し出した瞬間の、私の手の動き。

 三年で六度、彼が見た、その動き。


 彼は私の本当の名前には、まだ届かない。

 今世、彼の規格は最後まで、忘却側のまま守られた。


 彼の最後の呼吸が、海の中で、止まる。


 その瞬間、薄荷の痣が、最も強く熱を持った。

 距離を介して、熾火が、私の側に流れ込んでくる。


 物理的接触はない。

 両手は屋根の縁の手すりを掴んだまま。


 けれど鎖骨の下から、三年分の熾火が一斉に、私の魂の側へ納まった。


 納まる量は、八年型の前世より少ない。三年は八年より短い。

 けれど、距離を越えてきた一筋には別種の重みが、まじっていた。


 重みの内訳を、私はこの瞬間、まだ整理できない。

 整理は、狭間でする。


 雷光が、もう一度。

 今度は商船の輪郭が、海の上にもう、ない。


   *   *   *


 ——この死は、契約の成立条件を、満たすのか。


 一万三回の世で、私は彼との物理的接触のもとで愛のピークを起動してきた。

 三世前の革命前夜の刃。前世の修道院の冬の、腕の中。

 それ以前の世もほとんどが、最後の触れ合いを伴っていた。


 今世は、距離。


 距離を介した熾火回収を、契約は、認めるのか。


 帳簿の外側に、私はその問いを、置こうとした。


 ただし、置く前に、虚無が短く開きかけた。

 狭間の予兆——だが、開きかけたまま、いったん閉じる。


 閉じたまま、私は屋根の縁の手すりに、額を一度だけ預けた。

 雨の名残が、額に薄く落ちて、滑った。


   *   *   *


 星の海のような虚無が開く。狭間。

 ただし——アズラエルの声は、すぐには、来なかった。


 虚無の中で、私はしばらく、ひとりだった。

 一万四回の中で、初めての、無音。


 無音の中で、私は自分の呼吸の音だけを、聞いていた。

 検収の朝、整列の一拍にも似た、ただし朝より冷えた音だった。


 ……


「結線確認」


 声がやっと、来た。


「結線の確認に、時間がかかった」


「初めての遅延だな」


「ない、ということではない。今世の死の様態が、私の帳簿の通常の照合手順から半歩、外れていた」


 アズラエルは、続けて言葉を選んだ。

 これも、一万四回の中で、初めて見る所作だった。


「成立は、認める。純度〇・九五。八年型の前世より、〇・〇一だけ薄い。距離を介した回収は、純度の上限を、わずかに削る」


「承知した」


「削るが、純度自体は契約の許容内に収まっている。ただし削れた〇・〇一の差分が、お前の魂の何かとこの瞬間、置換されている。私の帳簿は、置換の事実だけを記録する。中身は、記録しない」


「……」


「ただし——」


 間。


「お前の今世の魂に、二つの伝承断片が残っている。古代神殿の薄荷の葉の図と、その脇の、海を越える巫女の一行。前世、修道院の写本の『痣ある者が、死の際に——』の一文」


「ある」


「同じ伝承だと、お前は今、判別しているか」


 私は、しばらく、答えを保留した。


 答えを返す前に、私の中の二つの断片が、自動で並んでくる。

 葉の図の主筋の終端の止まり方、写本の文の途切れ方、そして、両方が、私の左鎖骨の下の同じ識標を語っていること。


 断片同士は、年代と素材を違えても、同じ一つの主筋を共有している。

 それは私の魂の側でも、計測のあと、揺るがなかった。


「同じ伝承だ」

「同じ伝承の、古い層と、新しい層」


「承認」


 アズラエルの声は、その一語以外、何も付け加えなかった。


 ただし、付け加えなかったということそのものを、私は記憶する。

 一万四回の中で観測対象として、アズラエルの沈黙の長さを記憶するのは、これが最初だった。


「次世を告げる。彼が記憶側、お前が忘却側。時代は、これより遡らない。横へ動く——海の世から、草原の世へ」


「草原」


「戦乱の世。馬と矢と、剣の世だ。お前は赤子から、生きる」


 接続が、切れる。


   *   *   *


 屋根の縁に、私は立ち続けていた。


 嵐は、静まりかけている。雷光は、もう、ない。

 港の上空が、雨の名残だけを、薄く残している。


 懐に手を入れた。

 香木の小箱は、まだ、私の懐にあった。


 三年目の春、彼から受け取った設計図の外側の、私的な物。


 箱を開ける。

 香木の匂いが、雨の名残の中に、ひとすじ立ち上がる。


 私はその匂いを吸い込み、一度、目を閉じた。


 帳簿の外側に、私はその匂いを、書こうとした。

 書けない。

 今世の私は、書ける段階に、まだ、いない。


 書けないまま、私はもう一度、目を開けた。


 屋根の縁の向こう、海の上空には、もう商船の輪郭はない。

 乗組員も、跡取りも、家紋ごと、海の中だ。


 設計図の最終工程は、ここで完了した。


 箱の蓋を、もう一度閉めた。


 香木は、海風と雨の名残を一筋だけ吸い込んだまま、また密度として箱の中に閉じる。

 次世にこの箱は持ち越せない。

 器ごと、今世の終わりに、地に置かれる。


 ただし、香木の匂いの記憶だけは、魂の側の保留の欄に移される。

 それも持ち越せるかどうかは、次世の検収の朝に、答えが出る。


 次世。草原の世。彼が、記憶側。

 次世の私は、何も覚えないまま、戦乱の世に生まれ落ちる。


 屋根の縁から、私は一歩、後ろに下がった。

 屋根を降りる螺旋階段の最初の段に足を置いたとき、薄荷の痣の熱は、もう、引いていた。


 熱が引いた、ということは、契約は今世も成立した、ということだ。

 アズラエルの言葉と、私の器の答えが、同じ結論を返した。


 それでも私の中の自問は、まだ、解けていない。

 距離型の回収が照合手順から半歩外れていた、というアズラエルの言い方は——その半歩を、誰が、どう、許したのか——そこには、答えていなかった。


 今世、私の器には、まだ何十年かの寿命が残っている。

 前世の三十年と同じ、帳簿の外の時間。


 その時間を、私は——前世と同じ言い方で、好きに使う。


 次世の検収は、何十年か先の朝に来る。


 その朝の私は、何も覚えていない。


 アズラエルの声が、狭間で、少しだけ、遅れた。

 ——『結線の確認に、時間がかかった』。初めての、遅延。

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