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12/17

三年の海の往来、彼の小指から微かに熾火が戻り、見送りの私は初めて掌を上げた

 半年で、彼は戻ってきた。

 設計図の予測値より、早かった。

 第一の寄港、二年目の春。


 彼は、私の予測より早く戻ってきた。

 設計図の第一稿では、年に一度の寄港を想定していた。三年で三度。


 けれど現実の海風は、設計図の風と別の癖を持っている。

 彼の商船は半年で一度、神殿の港に錨を下ろすと、二年目の春に私は知った。


 半年のあいだ、私は耳の訓練を続けた。

 神殿の入口の石の柱の影に立って、港から登ってくる足音の中から、革沓の拍子だけを抜き取る稽古。


 漁師の藁沓とも、神殿の参拝者の素足とも、商家の若者の革沓は別の周期を持つ。

 彼の革沓の周期は、その中でもさらに、半拍だけ遅い。


 半拍の遅れを、私の耳は半年で覚えた。


 彼の革沓の拍子を、私はその朝、複数の足音の中から先に抜き取れていた。

 耳の側の訓練は、一冬と一春で成った。


 神殿の入口の石の柱の影で、私はもう一度、絹の包みを受け取った。

 受け渡しの一瞬、彼の小指の縁が、私の小指の縁に触れる。


 ——魂の指紋。前回の発動に、今回が重なった。


 ただし波紋の沈み方は、前回の〇・〇二より、〇・〇四深い。

 深くなった〇・〇二の差を、私は記録する。


 彼の側に、半年前の小指の温度が、まだ薄く残っているのだ。

 私の側の小指の縁にも、半年分、冷えきれずに残っていた〇・〇三度の余韻がある。


 両方の余韻が、今、また触れ合った。


 彼は包みを離す動作を、前回より一拍、長く保った。


「——お前の手の動きを、半年、夢の縁で見ていた気がする」


 声は半分、彼自身に向けられていた。

 商人の作法を、半歩よりさらに踏み外した声。


「気のせいでしょう」


 短く返した。

 返したあとの彼の頷き方は、前回より、納得から遠かった。


   *   *   *


 第二の寄港、二年目の秋。


 半年で、彼の商船はまた戻ってきた。


 受け渡しの瞬間、波紋は〇・〇六深い。


 半年ごとに、〇・〇二ずつ。

 逆流の累積は、線形に近い形で静かに、確実に重なっていく。


 前世の最後の冬に観測した、彼から戻ってきた一滴の余韻と比べれば、まだ薄い。

 薄いまま、しかし途切れない。


 受け取りの後、絹の包みを長が確認する手順の最中、彼は短く繰り返し呟いた。


「——儀礼書の整理の癖が、どこかで見たことがある」

「——お前の声の抑揚は、海の波の癖と、よく似ている」

「——お前の歩幅は、夜の月の影の歩幅に、似ている」


 いずれも、彼自身、何を言っているのか半ば理解していない。

 瞳の奥の沈みが口より早く動いて、勝手に言葉を作っている——規格の縁の、日常的な現象。


 私は答えない。短く、返事の音だけ返す。


 返事の音の高さを、私は毎回、〇・〇一以下の精度で揃えていた。

 揃えていなければ、私の声の抑揚が彼の側の既視感と共鳴して、規格の外へ出る。


 共鳴の出口は、まだ閉じていた。

 閉じていることを、私は毎回、自分の声の精度で確認していた。


 ただし、確認の頻度は、毎回〇・〇一刻みで増えていた。

 確認の頻度の増加そのものが、私の側の逸脱の指標になっていた。


   *   *   *


 第三の寄港、三年目の春。


 受け渡しの形式は、いつも通り。


 ただし帰り際、彼は袖の内側から、小さな桐の小箱のようなものを取り出した。

 香木の匂いが、絹の包みの匂いから半歩、外れて立ち上がる。


「——奉納ではない。あなたに、と思って」


 彼の声は、商人の節度の中にあった。

 けれど「あなたに」の三音だけが、節度の外側でわずかに揺れた。


 揺れの幅を、私は記憶する。

 記憶は、設計図の側ではなく、保留の欄に置く。


 神殿の身分の女に、私的な物を渡してはならない。彼もそれを知っている。

 だから「奉納ではない」と前置きを入れた。


 受け取らないでもいい、その権利を私の側に残した上で、差し出した。


 私は受け取った。

 受け取った理由は、設計図の中になかった。


 桐の小箱は、私の掌に乗ったとき、絹の包みよりずっと軽かった。

 軽さの中に、香木の濃度だけが密度として残っている。


 箱は開けない。

 開ければ、香りが現世に逃げる——彼が「あなたに」と言った言葉の、その指向の輪郭までぼやけてしまう。


 私は小箱を、巫女見習いの懐に滑り込ませた。


 帳簿の外側に、私はその受領を、書かずに置いた。


「——次の寄港の頃には、海の風の癖が、変わっていると思う」


 彼の声は、商人の予測のような口調だった。

 けれど目の奥には、商人の予測の外側、その何かが、薄く沈んでいた。


   *   *   *


 その夜、狭間。


「観測している。彼の側からの、微かな逆流の累積。前世の階梯の、第一段の延長線上の現象だ」


「承知している」


「お前の側にも、共鳴の累積がある。寄港の刻限の自発的な計数、香木の私的受領、見送りの動作の予兆。三項目、記録に書き留める」


「……」


「『微かに』」


 アズラエルの声が、その一語を、帳簿に置く音として返してきた。


「『微かに』。これは私の帳簿の語彙ではない。お前の魂の語彙だ。今夜、私はこれを借りる。記録の側に、お前の語彙を借りる例外を、今夜だけ認める」


 接続が切れる。


   *   *   *


 目を覚ました朝、私は窓辺で、指で日数を数えていた。


 次の寄港まで——半年と七日。


 計算の事実そのものは、設計図の予測値の精度確認として、許容範囲だ。

 ただし指で数えていた、という動作は、設計図の精度確認の手順にはない。


 数える前に頭の中で計算が終わるのが、私の通常の手順。

 今朝の私は、頭で計算したあと、もう一度指でなぞった。


 なぞった、という動作の意味を、私はまだ持たない。


 保留の欄に、もう一行を加える。


   *   *   *


 三年目の秋、彼の商船はもう一度、この港に錨を下ろす。

 その寄港が、最後だ——設計図の第一稿に、そう書き込まれている。


 秋風が、神殿の油皿の火を一段強く揺らす朝だった。

 海風の中に、嵐の前の濃度がわずかに混じる。

 煤の匂いが、いつもより重く列柱の根に降りている。


 一万回の中で、海の周期の揺らぎが起こる前に空気がこの重さに変わる感触を、私は知っている。

 あと一日、ないし二日。


 第三の寄港の彼が、絹の包みの受け渡しを終えて、神殿の入口で礼をした。

 今世、これが、私の前で彼が立ち上がる最後の礼。

 彼自身は、それを知らない。


 石の柱の手前で、彼は一度だけ振り返った。


「——次は、夏に戻る」


 私は答えない。

 軽く頭を下げる動作を、私の器は、いつも通りに行った。


 ただし礼の角度は、寄港のたびに少しずつ深くなっていた。

 今朝の私の礼は、最初の春の礼より〇・〇五度、深い。


 器の動作の最後で、私は——一度だけ——掌を、軽く、上げた。


 手を振る、という動作。

 一万回の中で、私が忘却側の彼を見送る際に、初めて行う動作だった。


 彼は驚いた顔をした。それから、笑った。

 笑った顔のまま、彼は石の柱の向こうへ、消えた。


 夕、石の柱の影に残ったのは、油皿の火の煤と、私の右の掌のまだ降りきっていない位置の余韻だった。


 帳簿の外側に、私はその動作を、今朝も書こうとした。

 書けない。


 なぜ私が掌を上げたのか——理由が、まだ、ない。

 理由のないまま、保留の欄に、また一行が増えた。


 次の寄港まで、半年。

 半年のあいだに、私は私の掌、その動作の理由を、見つけねばならない。


 ただし、半年は、私の側にしか流れない。

 彼の側の半年は、嵐の前夜まで、今夜のうちにもう半分以上が刻まれている。


 その差分を、私は今夜から、設計図の最終工程として組み直す。


 最終工程の配置——彼の最後の航海の、最後の波頭、最後の意識の到達距離。

 三項目の数値が、今夜、私の中で並び始める。


 巫女見習いの懐の中で、香木の小箱が、夜気の中でも温度を一段上に保っていた。

 その温度を、私は記録しなかった。

 記録しないという判断も、保留の欄の一行に加わる。


 夜が、油皿の火の煙で薄く塞がれていた。


 半年の起点は、今夜だった。

 私は——一度だけ——掌を、軽く、上げた。

 ——一万回の中で、忘却側の彼を見送る際に、私が初めて行う動作だった。

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