第90話 阿国
さすがの女も、心を動かされたに見えた。
もう一押し、と『阿国』は、床机から立ち上がった。片面に金泥で太陽、もう片面に銀泥で月を描いた派手な扇を開くと、ゆったりと踊り始めた。
花籠に月を入れて
漏らさじこれを
曇らさじと
持つが大事な
と、そのとき、あれほどごった返していた鼠木戸の辺りから、さっと人波が引いた。
踊りこんできたのは抜き身を引っさげた、十数人の男たちだった。所司代の役人たちとみえた。
「鎮まれい!捕り物がある。出し物は控えよ!」
その中の一人が怒鳴ると、辺りの者は総立ちになって、しんと静まり返った。鳴り物もばらばらと止んだ。
だが『阿国』だけは、知らん顔をして踊り続けている。
ふいに何処からか、笑い声が上がった。
「だっ、誰だ、前へ出ろっ!」
「ふん、無粋な役人どもだ。皆、折角、楽しんでいるのに。これからいいところじゃないか、なあ。」
桟敷の端に座っていた若い侍だった。顔は黒い漆塗りの笠に深く隠されてよく見えない。
観客に同意を求めると、そうだそうだとの声が、後ろのほうから、ぱらぱらと涌いた。
「何を、無礼な奴め。」
「一体全体、何が起こったのかわかれば皆、大人しく解散すると思うけど、な。」
又も同意を求めると、拍手が涌いた。
「あいつ、なかなか人を乗せるのが上手うございますなあ。」
振り返ると、いつの間にかすぐ後ろに、猿若が来ていた。心底感心しているような素直な口調だったが、素早い身のこなしで慶次郎に、今迄、舞台で松が身に着けていた朱鞘の太刀を渡した。
慶次郎は微かに頷いた。
そして二人同時に、菊の傍らから姿を消した。
「我らは今、都を騒がせている盗賊を追っている。恐れ多くも関白殿下にたてついて、その臣下を殺めておる不届き者だ。本日、ここにその者が来ているとの知らせを受けたのだ。」
殺気だっている大勢の観客に幾重にも取り囲まれて、さすがの役人も気後れしたのだろう、笠の男に促されるままに語った。
話を聞いた男は、そうか、と納得した。
「それは生憎だった。」
「何っ?」
「生憎っていうのはな、そいつが俺だってことよ。」
言うが早いか、抜き打ちに正面の男を斬って捨てた。返す刀で隣の男に斬りつけた。
刀を握ったままの腕が血飛沫を撒き散らしながら空中高く跳ね上がり、女の悲鳴が響き渡った。
人々は雪崩を打って狭い出口に殺到した。
役人たちは逃げる男の後を追った。
男は常人より身軽で、逃げ惑う人々の肩や頭を軽々と踏みながら、まるで空中遊泳を楽しむかのようにあっちへ行ったりこっちへ行ったりした。
対する役人たちは、気の狂った牛の群れのように出口に殺到する人々に阻まれて、思うように追いかけることが出来ない。おまけに人々の間から幾つもの手が伸びて、ポカポカ殴られたり、足払いをかけられたりした。犯人を見つけようとしても、この混雑の中では一体、誰がやったかもわからなかった。
力を持つお上に対して普段は大人しい民衆だったが、誰ともわからない立場に立つことさえ出来れば、反抗する機会を逃さなかった。
そのうちお客は垣根を半ば壊して皆、逃げてしまった。
最初駆けつけた侍たちは、人ごみの中から伸びてきた刃で、いつの間にか殆どが殺られてしまった。
だがそのときには、何倍もの応援の侍たちが、芝居小屋を幾重にも取り囲んでいた。
出てくる客の中にあの男はいなかった。
まだこの中にいる。
捕らえるのは時間の問題だ。
誰もが思った、だが。
小屋の中には一座の者しかいなかった。
そのうち、楽屋の物入れの中で、被衣を被ってうずくまっている者が見つかって、役人たちは色めきたった。だが、手ん手に白刃を握った侍たちが幾重にも取り囲んで、用心深くその被衣を引っ剥がしてみると、中から現れたのはあの道化役の間抜け面だった。
「うひゃア、恐ろしや。お役人さま、もう騒ぎは終わりましただかね?」
役人たちが首をひねりながら引き上げた後、菊は誰も居なくなった舞台に上がっていった。橋掛かりにかがむと、床に手を当てた。継ぎ目に指をかけ、床を持ち上げようと苦労していると、何処からか現れた慶次郎が手伝ってくれた。床の一部が蓋のように持ち上がると、ぽっかりと穴が開いた。
「もう大丈夫よ。上がっていらっしゃい。」
菊が穴を覗き込んで声をかけると、
「いってえ。」
ぶつぶつ言いながら、若侍が上がってきた。
逃げ回っている時には確かに被っていた笠は、何処かにすっ飛んでしまっている。
腫れあがった頬に押されて三日月のように細くなった目の端で、慶次郎を認めると、
「野郎、思いっきり殴りやがって。」
「こないだのお返しだ。それに言っとくが」
御自慢の衣装のあちこちにかぎ裂きを作って、折角の色男が台無しになった慶次郎が、ぶすっと答えた。
「俺が本気出したら、こんなもンじゃねえ。手加減してやってんだ、ありがたいと思え。」
「腕はちっとも衰えていないようね、土屋殿。組み手はそなたが一番だと、兄上がいつも仰っていた。」
菊が言った。
「お久しゅうございます、姫君。」
土屋惣蔵は手をついた。そのまま顔を上げない。ぽたぽたと落ちる涙が、床に幾つもの小さな水溜りを作った。
「生きていてくれただけでも良かっ……。」
「言うことはそれだけ?」
菊の言葉を遮ったのは、橋掛かりに現れた松だった。
「そなたの役目は兄上を守ることだったはず。よくもまあ、おめおめと生きて、ここに姿を現したものね。」
もう頭巾は取っていたが、先ほどの男衣装のまま、仁王立ちになって正論をぶつけてくる背の高い松は、えもいわれぬ迫力があった。
「命を惜しんだか、え?」
「そのようなことは決してありませぬ!」
惣蔵は床に手を突いたまま、松を見上げて必死で反論した。
「あの日私は、崖の上の、人一人しか通れない狭い道で、上がってくる敵を防いでおりました。片手に刀、もう一方の手には垂れ下がっている葛の根を掴んでおりました。ところが手が滑り、体勢を崩して崖を転がり落ち、あっという間に川に転落してしまったのです。散々水を飲んで、ずっと川下に流されてしまい、気が付いたときには、たった一人で河原に倒れておりました。川に沿って山を下り、ようやく人里にたどりついたときにはもう、先日あった合戦の話で持ちきりでございました。大将首は既に都へ送られた後だ、と。」
涙で言葉が途切れた。
「せめて首を取り返し、御大将の恥を雪がねばと、都を目指したのですが、着いたときには、妙心寺の僧が引き取って供養してくれた後で……。」
ふいに惣蔵に松が抱きついた。
「わかった、もういい、いいから……。」
そのまま、子供のように大声で泣き出した。
惣蔵は呆然と松の肩を抱いている。
呆気に取られて見ている菊の肩をつついて、慶次郎が促した。
「行こう、お邪魔、だろ。」
「へっ?え、ええ、そうね。」
惣蔵の姿が十分遠くなっているのを、ちらっと見て確かめてから、魂を抜かれたようになって歩いている菊の耳に、慶次郎は囁いた。
「達丸だけど……暫く、俺が預かるか?」
「え?いいけど、どうして?」
「どうしてって……姫君、達丸が生きていること、アイツが知ったら……相当マズいんじゃないのか?」
菊はぼんやりした頭で、慶次郎の言葉を反芻した。そして、雷に打たれたように飛び上がった。
「うん、マズい!絶対まずい!でもどうしよ、いつまで隠せる?」
「さあなあ、俺もあんまり難しいコト、考えられない性質だからなあ。」
慶次郎は頭を掻いた。
「ま、様子を見ようや。なるようにしかならんだろう。」




