第88話 千人斬り
松の様子がおかしいことを菊に告げたのは、揚羽だった。
去年、傾城を禁止した秀吉は、二条柳町に遊里を開くことを許可した。都のあちこちに散らばった傾城屋を町から隔離して、ひとところに集めようというのだった。
その二条柳町に出かけて、廓の周囲に柳を植える工事をしているのを眺めたり、木の香も新しい建物を覗いたりしている。病が益々重くなって寝込んでいる春日に、遊女たちの暮らしぶりや遊び、歌などを詳しく聞いているという。春日も松に、遊女の間で流行の踊りなどを熱心に教えているという。つらいだろうに身を起こして脇息に寄りかかり、夜遅くまで稽古に付き合っている。
一座が客を失って閑古鳥が鳴いているという状況で、とうとう遊女に身を落とすつもりかと心配した菊が意見すると、松は思いもかけず明るい表情で、
「そんなつまらないこと心配してないで、自分の頭のハエでも追ったら?」
などと、憎まれ口を叩くのだった。
そのうち、新作を舞台にかけると言い出した。
ついでに芝居小屋にも、大掛かりな改修を施すという。
「じゃあ、こんなの、どう?」
折角ジョヴァンニから教わったステップを松の目の前で踏んで見せても、興味なさそうに
「ふーん。」
と言うだけだった。
「それより、舞台作るの、手伝ってくれない?」
猿若を貸してよ、あれは能の心得があるから、と今迄、店の下働きをしていたのを引き抜いて、いちいち相談しながら舞台づくりをし、演出の打ち合わせをする。
菊も頼まれて、舞台の背景に大きな松の絵を描いた。
右上から左下にかけて、瘤だらけの曲がりくねった枝がうねうねと伸びていて、枝のそこここに綿菓子のようなこんもりした葉が真ん丸く浮かんでいる、といったもので、一目見た松は、
「下手くそ。何でこんなに傾いているの、この松。」
と斬って捨てた。
「それは……」
猿若に、右のほうに背景の中心を持ってきて欲しいのです、ちょうど主役の立ち位置と反対の辺りに、と頼まれたからだと菊が弁明するのも聞かずに、松は、
「まっ、いいわ、姉上の腕前ならこんなもんでしょ。」
首を振って楽屋に引っ込んでしまった。
松が店から借りたのは猿若ばかりではなかった。菊のばかりか揚羽や雇い人の着物、教会から預かっている祭具まで引っ掻き回していった。挙句の果ては信虎の屋敷に押しかけて、慶次郎の衣装の中でもとりわけ派手なものを、何着もさらっていったという。
「何で男物の着物を……いくらあの娘が背が高いからって。」
「着物ばかりじゃない。太刀も貸した。」
扇の絵付けに精を出す菊の傍らに寝転んだ慶次郎が、面白そうに言う。
「それも磨り上げてない、とびっきり長いやつを。」
「まさか舞台の上で振り回すつもりじゃないでしょうね。」
菊は、教会の芝居で暴れ回っていたジャンヌを思い出して心配になった。
「面白そうだ、俺も見に行くとしよう。」
「他人事だと思って。」
「彼女が人真似をするような人間じゃないことは、姉のそなたが一番よく、知っているだろう。きっと今迄、誰も見たことの無いような舞台になるはずだ。」
「あなたが踊りに興味があるとは知らなかったわ。」
菊が皮肉っぽく言うと、
「興味は無いさ。」
慶次郎がきっぱり言った。
「じゃ、何故?」
「千人斬りが横行しているの、知っているだろう?」
「ああ……でも、あれは大坂の町で、でしょ?こっちは関係ないわ。」
普請景気に沸く大坂の町には、諸国から様々な人間たちが流れ込んでいた。大勢の人が集まるとそこに揉め事が起きるのは必至で、男たちは皆、磨り上げていない太刀を身につけて歩いていた。そのうちの誰かが、千人斬りと称して多くの町人を殺害して回っていたのだ。
「それが都にも現れたんだ。でも大坂の町とは一味違う。そいつ、か、そいつらは、侍しか斬らない。それも関白の手の者しか。」
わざと人が集まる場所で騒ぎを起こす。まるで関白の権威に挑戦するかのように。
「所司代の者が今、血眼になって追っている。」
菊がはっと顔を上げると、慶次郎はうなずいた。
「俺は、アイツと又、会えるのを楽しみにしている。」




