第78話 八多羅拍子
天正十四年の年が明けてすぐ、北陸・東海から畿内にかけて大地震があった。なかでも近江・伊勢・美濃・尾張の被害はひどかった。秀吉は徳川家康を討つため、大規模な召集をかけていたが、この地震で前線基地にと考えていた大垣城・長浜城・伊勢長島城が崩壊し、戦どころではなくなった。
前年、家老の石川数正にさえ見放されて滅亡の危機にあった家康は窮地を脱した。
聚楽第、方広寺の大仏造営と、秀吉は着々と京に足固めをし、大坂にも巨大な城下町を築きつつある。
天下はいよいよ秀吉のものになりつつあるが、彼は東への目配りも忘れず、妹、旭に続いて、秋には最愛の母、大政所を人質として、家康の下へ差し出した。こうまでされて、何の見返りも無いわけにはいかない。
十月、ついに家康は上洛し、大坂城にて秀吉に臣従を誓った。
かくして最大の脅威を取り除いた秀吉は、翌天正十五年春、九州遠征を計画することになる。
朝廷でも訃報と慶事があった。
正親町天皇は二十九年の長きにわたり位にあって、かねがね譲位を希望していた。だが当時、天皇の代替わりは死去によるもので、譲位によるものは絶えて久しく無かった。朝廷の財政は逼迫していて、即位に必要な儀式が行えなかったためである。この計画を信長が支援していたのだが、本能寺の変で頓挫してしまっていた。
七月、皇太子、誠仁親王が急病で亡くなる。まだ三十五歳の若さだった。天皇の悲しみは計り知れないものがあった。そこで秀吉が、院御所の造営などの援助をして、天皇の悲願をかなえることにした。
十一月、正親町天皇は七十歳にして譲位し、孫の周仁親王が十六歳にして即位した。後陽成天皇である。
松が助けた女御は未亡人になったが、相変わらず贔屓にしてくれる。
当時の御所は、信長や秀吉の手が加わってようやく活計の道が出来たとはいうものの、今では考えられないくらい、貧しくみすぼらしいものだった。しかしその分、気楽でのんびりした空気が漂っていた。
諸国を回る旅の一座や、河原の見世物小屋の興行も、御所に参上していたが、女御が一番気に入って、呼んでくれるのはやはり、『出雲の阿国一座』であった。松がとっさに使った偽名ではあるが、旅の一座の女主人の名としてはありふれたものであり、鋭く見抜いた女御以外は不審に思う者もいない。
戦乱続く都を逃れて地方へ下っていた公家たちも、続々と都に戻ってきている。
権力は武家の手に渡って久しいが、文化は公家たちがしっかりと伝統を受け継いできた。とはいうものの、先立つものが無い哀しさ、日々食べていくので精一杯だった為、故事成事、絶えて久しいものも又、少なからずある。世の中が落ち着いてきたので、せめて音曲なりとも復興したいというのが、宮家のもう一つの悲願だった。そこで次代を担う子供たちに、音曲や舞を教え始めた。
今日は子供たちのおさらい会なのだ。
御所には、信虎も度々、ご機嫌伺いに参上している。
足利十三代将軍・義輝の御伽衆だった信虎は、宮中にも顔が広い。松と同じように、達丸をお供に連れて行くことも多い。
菊や松が心配するように、確かに達丸は、武将向きの強面なところはまるで無い。でも物腰が柔らかく、誰に対しても身分の上下を問わず、隔てなく接することが出来る。そのため貴族の子弟から巷の悪ガキまで、尋常でないほど顔が広い。
達丸は身分が違うので、おさらい会に出演することは出来ない。でも出演者の子供たちとは顔見知りなので、彼らが出番を待つ間、控えの局で四方山話をしていた。
従者に着付けをしてもらう子。
一人、おさらいをする子。
「ああ。もう、あがっちゃって。」
と言いながら印を結ぶ{精神統一の一種}子。
かと思うと、全く気にしないで、暢気に寝そべったり、話に夢中な子。
人それぞれである。
「私なんか還城楽を舞うんだ。」
「わあ、そりゃ大変だ。」
「全然、出来てない、バラバラになっちゃうから。」
「八多羅拍子は難しいから。」
皆、同情する。
還城楽は舞の一種だが、八多羅拍子という和楽には珍しい三拍子を踏む。農耕民族の日本人にとっては拍子の取りにくい、難しい舞である。
「どうしよう、今日はお爺さま、お婆さまを始めとして一族の者が皆来ているんだ。宮さまの御前で失敗したら、どんなふうに言われるか……。」
青ざめて、冷や汗をかいている者もいる。
達丸は根が親切だ。
何とかして皆の気持ちを楽にしてやることは出来ないだろうか。
(そうだ、いい物がある)
祖父がいつも瓢箪を肌身離さず持ち歩いていることを、達丸は知っている。中に何が入っているかは知らないが、寒いときや一休みするとき、その瓢箪を傾けて一口、中のものを飲むと、祖父はたちまち血色がよくなり、気難しくくっついた眉と眉が離れて、たちまちご機嫌になるのだ。
達丸は祖父を探しに行った。あいにく祖父は他の人たちと話をしているとのことで、いなかった。でも従者が瓢箪を預かっていたので、達丸は、祖父に持ってくるように言われた、と、ちょっとした嘘をついてもらってきた。
瓢箪の中からは鼻をつく強烈な匂いがして、子供たちは顔をしかめたが、薬湯だと思って飲んだらいいよ、と達丸が勧めると、勇気をふるって飲む子が現れた。鼻をつまんで飲み込むと、その子はたちまち血色が良くなった。それを見て、他の子も次々と瓢箪の中身を飲み始めた。
達丸も一口、味見をしてみた。薬くさかったが、液体が腹の底に落ち着くと、じんわりと体の隅々まで暖かさが広がった。
なるほど、こんな寒い日に、うってつけの飲み物だ。
達丸も子供たちも、もう一口、二口、と飲んだ。
最後には、局に居た子供たち全員が、瓢箪の中身を口にした。
瓢箪はすっかり空になった。
おさらい会は、小御所の庭で盛大に行われた。
楽之屋には幔幕が張られ、そこからはみ出るように大きな大太鼓と、それよりやや小さめの大鉦鼓が並べられている。
今日は楽人も皆、子供だ。
練習の成果を家族に見てもらおうと、生真面目に、一生懸命演奏している。
燦々と日の光が降り注ぎ、松の古木に混じった桜が、気の早い花を一輪二輪咲かせている。
庭の中央に設けられた舞台では、崑崙八仙が厳かに舞われている。
鶴舞とも呼ばれるこの舞では、鶴を象徴した面に、鶴の鳴き声を模した鈴が付けられ、甲{冠の広くて平たい部分}はその羽毛を表す。袍は、白羽二重に四色で鯉の刺繍をし、上に濃紺の網を被せてある。
田で鯉を漁る鶴たちが、互いの袖を摘んで優雅な円となり、回り始めた。
でも、その鈴の音が聞こえないほど、泣き声は大きい。
「嫌だ嫌だ、おうちに帰るの!」
いくらお付きの者がなだめても泣き止まない。
泣いている少女は、先だって即位した後陽成天皇の妃だった。誠仁親王の女御と同じ近衛家の出で、姪にあたる。
だが幼い妃は実家を恋しがって、宮中の暮らしに馴染めなかった。昼も夜も泣いてばかりいる。食事も喉を通らないので、最近めっきり痩せてきて、皆、心配している。
せめて同い年の子供たちの舞を見て、気晴らしをなされたらどうか、と催された今日のおさらい会だが、どうもこれも失敗に終わりそうだった。
「もう嫌、お部屋に帰る。」
少女が泣きながら立ち上がったときである。
向こうのほうで争う声が聞こえた。
「お待ちください、まだ出番ではありませぬ。」
誰かが何か言い返したが、何を言っているのかわからない。
と、幔幕の下から這い出してきたものがある。
それは還城楽だった。
『むやみに』『やみくもに』という意味で、『やたらめったら』など『やたら』が付く言葉の語源にもなった、難しい拍子を達者に舞いながら、庭の中央に出てきた。西国の蛮人が好物の蛇を求め得て喜び、打ち食す姿を現しているという。手には桴や木蛇を持っている。
その後ろから幔幕をくぐって姿を現したのは、陵王と納曾利二人だった。
陵王は、面の金翅鳥を幕に引っ掛けて歪んでしまっているのもお構いなく、吊り顎を揺らしながら、威勢よく舞い始めた。これは古代中国の英雄が、味方の士気を鼓舞し、武勇を発揮した故事に基づく勇壮な舞だ。王は美しい容貌を隠すため、龍の仮面を被ったという。
納曾利は双龍の舞ともいわれ、雌雄の龍が遊び戯れる様を表した走舞だ。
皆、何かに取り付かれたように達者に舞っているが、こんなにいっぺんに出てきて、一斉に舞うなんてことは古来、聞いたことが無い。
その後ろからもう一人、這い出してきたのは扶桑老だった。
不老長寿の薬を求めて山野を彷徨う老人の筈だが、今日は鳩杖をつきながら、薬ならぬ龍たちの後を
「これこれ、行ってはならぬ、お待ちなされ。」
と、息を切らして追いかけ始めた。
これは今日の舞の締めを飾るため、別室に控えていた三条家の当主だった。
だが、還城楽も陵王も納曾利も、水の流れに浮かぶ木の葉のように、楽しげに逃げ回る。
追いかける扶桑老は、白い長い髭が馬の尻尾のように揺れ、今にも転びそうだ。
崑崙を舞っている子供たちは、よその騒ぎなどお構いなしに、輪になってくるくると回っている。ともかく自分のやるべきことは終えてしまいたいと思っているようだ。
大人たちは唖然として庭の騒ぎを見下ろしている。
突然、
「あーはっはっは、はははは。」
明るい大きな笑い声が響き渡った。
それは後陽成天皇の妃だった。
宮中に上がってからというもの、涙の乾く間も無かった姫が今、大声で笑っていた。




