第79話 朝霧
「何のお咎めも無かったのは、お妃さまが笑ってくださったからよ。」
松は姉を、難詰している。
慶次郎の一件以来、姉に頭が上がらなかったけれど、これでようやく立場が逆転した。
「瓢箪の中身は薬酒だったそうよ。それもかなりきついお酒だったから、子供たちは皆、戻してしまって、何日も寝込んだそうよ。」
信虎もきつく叱られて、謹慎しているという。
「あの爺さんにはいい『薬』だわ。これでちょっとは大人しくなるでしょうよ。」
松は満足そうに言ってから、
「それにしても達丸ときたら。悪気は無かったんでしょうけど、ほんと、大騒ぎだったって。皆、酔っ払っちゃって話も出来ない有様で。いったい、どういう教育をしているのよ?あんな気ままな男に全て任せてしまうから、こんなことになるのよ。」
松は自分のことは棚に上げて言う。
菊は何も言い返せなかった。
折角、女御があたしたちに目をかけてくださっているのに、お出入り差し止めなんて事態にならないように、気をつけてちょうだい、という松を見送って、菊はがっくりと肩を落とした。
確かにあたしは達丸のことを見ていなかった、と菊は反省する。
でも、じゃあ、どうすればいいっていうの?首に縄をつけて、ずーっと見張っていればいいっていうの?
達丸は最近、生意気になってきて、全然、言うことを聞かない。
慶次郎のことも悩みの種だった。
彼と暮らすということは、平時に火薬庫で暮らすようなものだ。
奥方が堪らない、と言っていた気持ちも、今では納得出来る。
『恋人』などという便利な言葉も無い時代だ。
『好き』というだけで不義密通で死罪になりかねないのに、こういう付き合いを、何といっていいのかも、よくわからない。
一目見たときから惹かれていた、でもあたしは、彼のことを、本当に理解して好きになったんだろうか。
強くて逞しくて謎めいていて、女を惹き付ける男。
実際、彼と街を歩いていると、遊女たちの嫉妬交じりの熱い視線を感じる、野次も飛ばされる。
だけど彼の本質は。
彼の心は、深く深く傷ついている。
ならず者どもは、彼の心の傷口から流れる血の臭いを敏感に感じ取って、喧嘩を売る、彼も又、嬉々として応じ、騒ぎは騒ぎを呼ぶ。
(あたしは本当に、彼のことをわかっているんだろうか。お嬢さまが珍しい生き物を見るように、自分と育ちの違う人間に惹かれている、ただそれだけなんじゃないか。彼の本質を、あの何物にも縛られることの無い自由奔放な魂を、受け止めることが出来るんだろうか)
でももし、二人が離れ離れになったら。
(彼は今度こそ、本当に壊れてしまうかもしれない)
怖かった。
幼い頃、母に聞かせてもらったお伽話では、落窪の君も鉢担ぎ姫も、素敵な若殿と結ばれて幸せになるのだった。
大きくなっても、自分の行く末に幸せが待っていることを、露ほども疑っていなかった。
側室は数多居たけれど、母はその中でも一番、父に愛されていたから。
(でも、今のあたしは違う)
現実は、全ての物語の結末が、『めでたし、めでたし』で締めくくられるものではないことを、知っている。
甲斐の山中を織田の兵に追われて彷徨っていたときは、と菊は思い巡らす。
命があるだけでも幸い、と思えたのに。
今では、そんなこともすっかり忘れて、あれも、これも、一つ得られれば又もう一つ、と願い止まることを知らない。
あたしは何と欲深いことであろうか、と。
暗闇の中で、菊はふと、目を覚ました。
起き上がると、隣の部屋に通じる襖をそっと開けて、目を凝らす。そこに敷かれた夜具は、もぬけの殻だった。
引き戸を、なるべく音がしないようにそっと開けて、外に出て行く気配がする。
菊も素早く身支度を済ませて、店をしのび出た。
朝霧が立ち込める街は、しんと静まり返っている。
ひたひたと歩く自分の足音が聞こえそうで、菊は少し大股に歩く。
彼女が歩くに連れて、霧の粒子は、あるかないかの風に揺れて、筋を引きながら、濃くなったり薄くなったりする。
その中に、先を急ぐ人影が、ぼんやりと浮かんでいる。
(全く達丸ったら、一体、何処へ行くんだろう、毎朝毎朝、こんなに早く)
達丸はいつも、朝ご飯を食べようという頃になって、疲れきって帰ってくる。
手も足も、ドロドロになっている。
何処へ行っているの、と聞いても、曖昧に笑うだけで、一向、答えようとしないのだ。
菊は最近、達丸がわからない。
(今日こそは、現場を押さえてやるんだから)
達丸は鴨川の川べりに出た。
深く葦が茂って、沼のようになっている方へ、慣れた足取りで歩んでいく。
泥濘に足を取られて、菊は後を追うのもやっとだ。
干潟になっていて、たくさんの鶴が、羽を休めたり、長い嘴で餌を探ったりしている。
川辺には、大きな影が立っていた。
「おはよう。」
達丸が声をかける。
慶次郎だった。
手を挙げて挨拶を返すと、二人そろって茂みの中に入っていく。
素早く袖を襷掛けにし、裾をからげると、脛の辺りまで、じゃぶじゃぶと水の中に入っていく。
春とは名のみの冷たい水の中に手を突っ込んで、何やら熱心に探っていたかと思うと、竹の籠を水飛沫と共に引っ張りあげた。
「わあ、すごい、すごい!」
達丸が歓声を上げる。
「やっと捕まえた、こいつがきっと主だ。」
慶次郎も満足そうだ。
菊も何が入っているか知りたくて、つい身を乗り出してしまった。
ガサガサッと枯れた葦が鳴った。
達丸と慶次郎は同時に振り向いて、菊に気が付いた。
「叔母さま。」
達丸がニコニコしている。
「見て、すごいでしょう。」
見事な鯉だった。
黒光りする背をくねらせ、尻尾でぴたぴたと籠を叩く。
「鯉は今、腹に卵を持っているんだ。脂が載ってて、美味いぞぉ。」
慶次郎も子供のように笑っている。
達丸は懐から紙と矢立を取り出すと、素早く写生し始めた。
「こうやって描いておけば、いつ、どれだけ取れたか、後から見てもわかるよね。」
いつの間に、こんなに上手くなったんだろう。
菊は、達丸の筆捌きを見ながら思った。
いつも側に居たのに、あたしは何も気づかなかった。それはあたしが、達丸を武将にすることしか考えていなかったからだ。
でもこの子の才能は……絵にある。
突然、バサバサッと音がして、三人は顔を上げた。
干潟で羽を休めていた鶴たちが、一斉に飛び立ったのだ。
霧を破って、日の光が何本もの矢になって、空を照らす。
朝焼けの空に、何十羽もの鶴が列を作って飛び立ち、空一杯に舞っている。
達丸が歓声を上げ、絵筆で、この光景を写し取ろうとしている。
「俺が漁をすると聞いて、ぜひ見たいから、と言うんで……。男の子って、狩りだの漁だの、獲物を追うのが好きなんだな。」
慶次郎が呟いた。
何だか、誰かから伝え聞いたことを話しているようだ。
彼は、達丸に、誰かの姿を重ねているんだろうか、と菊は思った。
妻と子を手放した夫。
夫も子も無い妻。
父も母も失った子。
地縁血縁から切り離された三人だけど今、こうやって川のほとりに立って、飛翔する鶴の群れを眺めて、感動を分かち合っている。
たとえ、世間一般の物の見方から外れた間柄であっても、この瞬間、心が通い合っていれば、その関係を、あたしは良しとしよう、と菊は思った。
たとえそれが、鶴が大空の彼方へ消えていくまでの、ほんの一瞬の間のことであっても。
その日から菊は、達丸に武将になれとは言わなくなった。
代わりに紙と絵筆をたくさん与え、工房に好きなように出入りさせて、職人たちの仕事を見たり手伝ったりさせるようになった。
ようやく謹慎の解けた信虎も又、達丸をお供に連れて歩くようになった。
当時、子供の守りをするのは老人であり、その老人の手を引き、杖となる役も又、子供だった。
信虎は名だたる神社仏閣を訪ねて回った。
そういうところには必ず、宝物にしている絵や像があった。
信虎は宝物を見せてくれるよう頼み、達丸に模写させた。
礼に、といって達丸に寿像{肖像画}を描かせると、坊さんや神主さんは、その達者な筆運びに驚いたり喜んだりした。
達丸の言うところによると、
「お饅頭とか出してくださるの。でも私が食べようとするとお祖父さまが、いやいや、って仰って、食べられないの。お祖父さまが『いや、この子は絵師の卵ですのじゃ。』って、何度も仰るの。そのうちお坊さまが、はたと膝を打って、紙に包んだ小さな包みをお祖父さまのお膝近くに扇で置かれるの。それからやっと、お饅頭を頂いてもいいことになって……。」
という経過があって、信虎のほうも何がしかの礼をもらい、達丸は絵の勉強になって、三方一両得、というわけだった。
猿回しが子猿を連れて歩いて芸を見せてるみたい、みっともないわ、と、話を聞きつけた松は文句を言っていたが、菊は聞こえないふりをしていた。




