第74話 新しい生活
前田の家を身ひとつ、いや、奪った名馬と共に飛び出した慶次郎だったが、さりとて店に留め置くことも出来なかった。
何処か適当な住まいは無いか探していると、話を聞きつけた信虎がやってきて、どうじゃ、わしの屋敷に住まぬか、と言う。
困ったときはお互い様じゃ。古屋敷ゆえ、家賃なんぞと面倒なことは言わぬ。ただ、何かあったとき、ちょっとした雑用をしてくれれば良いのじゃ。
もちろん、この古狸が無料で住まわそうと思っているわけが無く、菊は、およしなさい、きっと他に、もっと良い話があるわよ、と、さんざん引き止めたのだが、慶次郎は、公方の御伽衆をお勤めになったほどの御老人、ときには古の武勇伝などもお聞かせいただけるだろう、喜んでお世話になります、と言って、さっさと引っ越して行った。
信虎の屋敷は、屋敷というのも恥ずかしいような大きいだけのボロボロの住まいで、月夜には化け物が出てきそうな有様だったが、主人のほうが大物の化け物なので、うっかり現れて何か用事を言いつけられたら大変とばかり、小物の化け物どもは闇の中に大人しく控えているようだった。
ちょっとした雑用どころではなく、信虎はこのボロ屋敷の大規模な修繕を慶次郎に命じたのだが、もともと器用で腰の軽い男なので、下男同然の扱いにも何の痛痒も感じないらしく、袖をまくって襷を掛け、尻端折りして、鼻歌交じりに板戸を修理したり、築地の破れを繕ったりしている。
菊も慶次郎に頼み事をした。
それは達丸の教育だった。彼の優れた武術を教えてもらいたいと思ったのだ。
慶次郎の気ままな性格にはいささかどころではない不安が残るものの、武具の扱い方、戦場での作法や戦の駆け引きなど教えられる適任者が他には居なかった。
ずっと悩まされていた懸案がようやく解決した、と、ほっとした菊だったが、何をやっているのかと思って時々そっと覗きに行っても、一向に槍や刀を振るっている様子は無い。信虎の屋敷の裏に作った小さな畑で、鍬の扱い方を教わっていたり、源氏物語や伊勢物語の講釈を受けている、といった有様で、一体何処が武将らしい教育なのか、菊にはさっぱりわからない。
「小さいときにお寺に通わせて、四書五経はもう習ったのよ。」
とうとう堪忍袋の緒が切れて抗議した。
「武将にこれ以上の学問は要らないはず。それに何で畑仕事なの?」
「まあそう噛み付くな。」
慶次郎は諸肌脱ぎになって薪を割っている。
斧が真っ直ぐ振り下ろされるとコーンコーンといい音がして、気持ちよく真っ二つになっていく。外は凍えるような寒さだが、彼の身体はびっしょり汗をかいて、ちょっと赤くなっている。微かに湯気がたつ、滑らかに動く肩や、所々古い傷跡が見える厚い胸板に、菊は目のやり場に困ってしまう。
「なかなか筋がいいんだ。今年は菜っ葉や大根が良く出来るだろう。頭もいい。何を読ませてもあっという間に覚えてしまう。」
「ねえ、真面目に聞いてよ。」
「姫君。」
慶次郎は手を止めて、首に掛けた手拭いで汗を拭いた。薪を集めて縄で括って手際よく纏めていく。
「あの子はひ弱くなんかない。しっかりしてるぞ。自分が興味あることをすればいいんだ。」
「だってあの子は武田の跡継ぎよ。甲斐源氏の宗家の子よ。」
「家だの何だのに囚われるなんて、馬鹿馬鹿しいって思っていたのは自分じゃないのか?」
「それは……。」
菊は口ごもった。
「あたしは、自分自身は、世の決まり事から距離を置いて生きていきたいと思っている。でもつらいもの、茨の道なんだもの。子供には、大事な子だからこそ、世間さまの目に適う道に進ませたいのよ、だって、そのほうがよっぽど楽なんだもの。」
人々は、生きている間、伝統に従って生活すれば最低限の生活の保障は得られた。地震や日照りなどの天災、敵の侵略などの人災の統御は、宗教家や為政者の為すべきことで、一般庶民の手には余ることである。現世で努力すれば死後、来世で報われる、筈だった、が。
(でも今のあたしは、曲がりなりにも武田の当主だ)
そんな立場の彼女がただ、庶民と同じように盲目的に伝統に従っているだけですむのだろうか、自分の頭で考えることも無しに?それにもう、いくら現世で努力しても、自分が本当に来世で報われるかどうか、そもそも来世があるのかどうかさえ、わからなくなってしまっていた。
菊が黙ったのを見て、慶次郎は言った。
「なあ、姫君。昔の俺だったら、一も二も無く、男は力だ、武将になるのが正しい道だって言うだろう。でも、姫君はそういう道は捨てたんじゃないのか?自分は何ものにも囚われたくないと言っておいて、他人には『正しい』生き方を押し付けるのか?何をしたいか、何になりたいか、まず達丸に聞いてみるのが順序じゃないのか?」
「じゃあ、自分はどうなのよ。」
やりこめられて菊は段々、腹が立ってきた。
「色々、噂は聞いているわよ。」
彼がどうしているかは家に居ても、京雀の噂で耳に入ってくる。
やれ先週は一人で十数人の乱暴者たちを叩き伏せた、先日は風呂屋で、仕返しに来た武者たちをからかって肝を冷やさせた。何でも、短刀をしのばせていると見せて、取り出したのは実は長煙管で、それで悠々と背中を掻きだしたので、飛び上がって身構えていた武者たちは大恥をかいた、とか、たわいないような、恐ろしいような話ばかりだ。
「俺は槍を糧として生きていく。」
慶次郎はすまして言った。
「これは俺の生き方だ、今更、変えようとは思わない。でも、武将になるのが全てだとも思わない。あの子には、あの子の生き方があっていいはずだ。」
慶次郎は相変わらず、達丸に、畑仕事や家の修理の手伝いをさせた。
二月三月とたつうちに、達丸は目に見えて足腰が鍛えられ、日に焼けてたくましくなってきた。鍬を真っ直ぐ振り下ろす訓練を散々した後、慶次郎は達丸に木刀を持たせた。頭の重い鍬を振るうのに馴れた手は、木刀を振るっても、目標に正確に打ち降ろすことが出来るようになった。
達丸は、松が宮中や貴族の館で踊るとき、ついていくこともあった。
愛らしい顔をして、上等ではないものの、こざっぱりした衣装を身に着け、何ともいえない品や愛嬌があり、素直な明るい性格で、世間一般の職人や芸人の子とは見るからに違うので、その家の主から召使まで、可愛がってくれる人がたくさん出来ていた。そういう家にいる子供と遊んだり、本を借りて読んだりするのも又、達丸の楽しみの一つだった。




