第73話 晩秋
慶次郎が息せき切って馬で乗り付けてきたので、菊は驚いて店の前に出た。
「来い。見せたいものがある。」
有無を言わせず菊を馬に乗せると、鞭を振るった。
こんなに速く走らせて危ないじゃない、怖いわ、と抗議する菊の声にも耳を貸さない。
一体どうしたのか、着物もぐっしょり濡れて、思い詰めたような彼の表情に、菊もいつしか無口になった。
次第に雲は晴れて、午後の陽が馬上の二人を斜めに照らす。
彼は、とある寺の山門の前で、馬を止めた。
菊の手を取って、降りるのを手伝った。馬を門前に繋ぐと、寺の中へずんずんと入っていく。
大きな寺だが、かなり荒れている。門番もおらず、境内には人っ子一人見当たらない。
「ここだ。」
慶次郎が菊を案内したのは、寺の回廊を繋ぐ木の橋の上だった。
橋の下は深い深い谷になっていて、底は見えない。
その谷を覆うのは一面のもみじだった。赤や黄色に染まるその葉を見下ろすと、まるで、もみじの中を漂っているようだ。
山の巣に帰る烏の鳴き交わす声だけがして、寺の鐘が何処かから時を告げている。
先ほどまで空を覆っていた雲はいつの間にか散り散りになり、茜に染まった空の下、都の町並みが遥か遠くに小さく見えている。
言葉も無い菊に、慶次郎は言った。
「ここを見せたかった。姫君は日々の生活に追われて、こんな風景を見るゆとりも無かったはずだ。」
「きれい……。」
菊はようやく答えた。
「とっても。」
橋の欄干から身を乗り出した。
「うわぁ、高いのね。おお怖、ここから飛んだら、どうなるかしら。」
慶次郎を振り返った菊は凍りついた。
彼は欄干に登って、下を見ていた。懐手をして、まるでふざけてでもいるように暢気に片足をぶらぶらさせてみたりしている。底も見えない千尋の谷からは冷たい晩秋の風が吹き上げてきて、彼の髪を逆立て、袴の裾を舞い上げる。
彼はちらりと彼女を見ると、
「飛べって言ったら、飛ぶ。」
と言う。
冗談を言っているのかと思ったが、その強い眼差しに、菊は思わずぞくりとした。
慶次郎は菊の強張った顔を見ると笑って、
「飛ばないよ。」
欄干から、ぴょんと飛んで下りた。
菊がほっとすると、慶次郎は彼女に聞こえないほどの小さい声で、
「今は。」
と付け加えた。
からかわれたのだ、と菊は思った。
でも、あの目は何だろう。
店に帰ったその夜、部屋に来た松に、いきさつを話した。
「飛んだの?」
松は思いがけず真面目に尋ねる。
「まさか。飛ぶわけないじゃない。」
菊が笑うと、
「飛ぶわよ、あの人。あなたが望めば。」
松は表情を崩さない。
菊は、何故かしら、背に冷たいものが走るのを覚えた。




