第72話 馳走
菊は、慶次郎が加賀から戻ってこないものと覚悟した。
もう二度と上京しないと奥方は言ったのだ。
加賀に戻れば越中阿尾六千石の城主だ。たしかに宗家とは段違いの家格ではあるが、武士たるもの、一国一城の主にして、家の跡取りも居る、このうえ何を望むことがあるだろう。
(あのひとは、あたしの為に命を捨てようとしてくれた。そして、あたしによって心が救われたと言ってくれた)
良い思い出になったじゃないの、と自分に言い聞かせ、彼のことをあきらめようとした矢先だった。
教会から戻り、部屋に入ると、慶次郎が暢気にうたた寝している。
「一体、何をしているのっ?」
「見ればわかるだろう、昼寝しているのさ。」
慶次郎は大あくびをした。
「折角、静かだったのに。」
「こっ、ここはあたしの部屋ですっ!勝手に入んないでくださいっ!」
慶次郎は笑って、お帰りなさいも無しか、と言う。
「奥方がいらしたのよ。」
「聞いた。」
「もう京には上らないって。あなたも戻って来ないかと思った。」
「帰る、って言っただろう。」
「帰るっていうのは、自分の居るべき場所へ戻るとき使う言葉よ。あなたの場合、おうちへ戻るときが『帰る』、よ。」
慶次郎は顔をつるりと撫でた。
「おこうのことを気にしているんだろう。あれとは別れた。」
菊は言葉を失った。
「子供を連れて実家に戻った。もう戻って来ない。」
「それって……ひょっとして……。」
「姫君には関係ない。」
慶次郎は素早く言った。
「前々から決まっていたことだ。俺たちは、最初から……終わっていたんだ。」
それは違う、と菊は言いたかった。
あの人がわざわざあたしを訪ねてきたのは、夫に未練があったからではないだろうか?
でも、言えなかった。
菊も女だった。
「どっちにしても俺の家はお終いなんだ。」
慶次郎が言った。
「義父が死んだ。」
慶次郎が枕元に駆けつけたとき、既に義父の利久は虫の息だった。
でも差し出した手を力なく握り、済まぬ、済まぬのう、と言い続ける義父の姿に、慶次郎は、胸に張った冷たい氷が見る見る溶けていくのを感じた。
「今まで改まって言う機会が無かったが……そなたには本当に気の毒なことをした。ずっと気に病んでおったのじゃ。あんな巫女に、子供だったそなたを追いかけ回したりさせて、悪いことをした。」
利久は前の妻と長男を病で亡くし、後添えにもらった若い妻を大層気に入っていた。
「腹の子がわしの種ではないことは知っておったが、構うまいと思っていた。前の子も長い間出来なくて、ようやく生まれたのもひ弱で、あっという間に亡くしてしもうた。どうしても跡取りが欲しくてしたことじゃったが、武士の社会では横紙破りになってしもうた。結果として、そなたに苦労をかけることになって済まなかった。」
人の良い義父は、死の直前になってもまだ、慶次郎に謝り続けるのだった。
(こんなところが殿に、頼りないと思われたのだろうが……悪気の無い、正直なお人なのだ)
やがてもの言わなくなったその皺だらけの小さな手を夜具に収め、合掌した慶次郎の目から、大粒の涙が後から後から、湯のように湧いて出た。
自分でも思いがけなかった。
母が死んだと聞いたときも、涙一つ出なかったのに。
心が解けたせいだ、と彼は思った。
その硬く冷たく凍りついた心を解いてくれたのは、と彼は言いかけてやめた。代わりに言った。
「だから、帰るっていうのは、ここへ戻ることを言うんだ。もう加賀には行かない。」
もちろん、騒ぎはこれですまなかった。
慶次郎はそれから程なく、前田本家に呼び出された。
書院に通されてかしこまっていると、叔父の利家が足音荒く入ってきた。
どかっと前に座ると、苦虫を噛み潰したような顔で一言、
「困ったことをしでかしてくれたな。」
戦場で鍛えた声は、低くてもよく響く。
「五郎兵衛{前田安勝}叔父さまから書状が届きました。こうは元気なようでございます。」
慶次郎が、しらっと述べると、
「たわけ!」
利家は怒鳴った。
「そちら夫婦のことではないわい。離婚なんぞ珍しくもなんともない。むしろ、よう今までもったもんじゃ、そちのような気まま者と、おこうのような見栄っ張りが。わしはそのようなことを言っておるのではない。そちの出入りしている家の女主人、あれは上杉の正室だそうではないか。」
「は、さようで。」
「そち、彦右衛門{滝川一益}の命で上杉の探索をしていたそうじゃが、いつからそのような仲になった。」
「これは異なこと。私とあの方は『そのような仲』ではございませぬ。下衆な勘繰りはおやめいただきたい。」
慶次郎が抗議すると、
「わかっていないようだな。」
利家はいらいらと膝を揺すった。
「そちらがどんな仲だか、わしゃ知らん。密通が事実であろうが無かろうが、そんなことはどうでもよいことじゃ。かような噂がたつこと自体が問題なのじゃ。関白殿下の耳にでも入ってみよ、とんでもないことになるぞ。よいか、上杉との間柄は、そちが潜入していた頃とは、わけが違うのじゃ。」
目の前に立ちふさがるもの全てに噛み付いて引き倒し、とどめを刺さずにおられなかった信長と違い、秀吉のやり方は巧妙だった。主もてこずった北国の雄・上杉家、名君・謙信亡き今も無傷のまま残るその軍団と正面から事を構えるのを嫌った秀吉は、越水の会の後も気を使った。景勝が初めて上京する際も、加賀前田家を先導に、大層なもてなしぶりだった。
「その上杉の奥方と噂になるとは」
利家は噛み付いた。
「何を考えておる!」
「何も考えておりません。」
慶次郎は平然と言った。
「何もしておらぬものを、どう考えようがありましょう。」
「では考えてみよ。」
利家は教え諭すように言う。
「そちはいまや六千石の城持ちじゃ。これを何とする。城も無く、手当ても無く、彷徨う身の哀れさは、身に染みたはずじゃ。そなたの義父を見よ。育ての親の彦右衛門{滝川一益}も、この九月にみまかったが、草深い越前大野で、世捨て人同然の惨めな最期じゃったそうな。哀れ、織田の四天王と呼ばれた男も、時勢を見誤ったのが運の尽きよ。それに比べてこのわしを見よ。小さな荒子の城主から、今では大大名と呼ばれるまでになった。それが、世間体を省みないそちの不行跡のせいで、監督不行き届きと怒られることになりそうじゃ。わしの立場にもなってもみよ。」
慶次郎は大人しく聞いていたが、ははっとかしこまった。
御心を悩ませ給うたこと、慶次郎深く痛みいりました、つきましてはお詫びかたがた、これからもよろしくお目をおかけいただきたいと存じまして、と茶の湯の誘いがあったのは、翌日の昼過ぎだった。
わしの説教が効いたか、存外可愛い奴じゃの、と利家は、供も連れず、軽装で出かけた。
(血の繋がりは無いのに)
利家は密かに思っている。
(派手好きで目立ちたがりなところなど、あいつとは妙に指向が似ておる。なんだか張り合いたくなってしまうのじゃ)
およしなさいませ全く、年甲斐も無い、と、お松に注意されてもやめられない。
(ついつい口を出したくなってしまうのじゃ。それでも大人しく受け入れるなんて、思ったより素直な奴じゃ)
慶次郎は既に茶室に来て、火をおこして待っていた。
「今日は寒うございますな。」
晩秋の空は曇って冷たい風が吹いている。
「そなた、千宗易殿に茶の湯を習って大層腕をあげたそうじゃの。」
「茶の湯はもてなしの心が基本、とか。」
慶次郎は澄まして言った。
「馳走にと思い、風呂をたてておきました。まずは、ごゆるりとどうぞ。」
当時一般的な風呂は蒸し風呂だが、慶次郎の家には、この頃流行り始めた据え風呂がある。
風呂場に入って素裸になった利家の後から、お背中をお流しいたしましょう、と慶次郎が入って、扉をぴしゃり、と閉めた。
「おうおう、寒い寒い、まずは湯につかろう。」
と利家の声、
「湯加減を。」
と、慶次郎が湯をかき混ぜ、桶に入った湯をたらす水音、
「ちょうど、ようございます、ささ、どうぞ。」
「うん、う、うぁっ、ちっ?」
次の瞬間、悲鳴とともに派手な水音がして、大きなものが水に飛び込んだ音、バタバタッと蓋が閉まり、続いて、何故か、転がしてあった大きな丸太が、何本も蓋の上に置かれ、ガラガラッと戸を開けて、慶次郎が高らかに笑いながら風呂場から飛び出してきた。
「菊姫さまは」
慶次郎は呼びかけた。
風呂桶の中からは、怒り狂った利家が、怒鳴ったり蓋を叩いたりして暴れている音がしている。桶は水を跳ねながら、まるで踊っているようだ。
「ただのお方ではない。男どもが、がんじがらめに縛られている家や体面に、風穴を開けようとしているお方じゃ。叔父上のように世間体ばかり気にする輩には、到底理解出来ないじゃろうがの。俺は、あの方をお守りするためならば何も惜しくはないわい。水風呂の馳走の件が世に広まれば、叔父上も、あれはうつけ者ゆえ勘当いたしました、もう前田の家とは関わりございませぬ、と、関白と世間に対して申し開きが立つであろう。では御免!」
慶次郎は厩に駆けつけると、中から一頭の馬を引っ張りだしてきた。これは先頃、叔父が手に入れて、大層自慢していた鹿毛の名馬だ。鞍を置くと素早くまたがって、一鞭くれると、屋敷を飛び出していった。




