第70話 三河万歳
それから慶次郎は度々、菊の元を訪れるようになった。
といっても何をするでもない、まるで我が家のように上がりこんでは、勝手に茶を点てて飲んでいく。気が向けば菊にも点ててくれる。どっちが客だかわからない。でも千宗易から習っているという慶次郎の点てる茶は結構美味くて、ついつい馳走になってしまう菊も菊だ、と揚羽に責められる。
奥で半日、寝転がって何か本を読んでいることもある。
「何読んでるの?」
たまたま来ていた松が、そっと後ろから忍び寄って手元を覗き込もうとすると、慌てて隠そうとする。争ううち、ハタリと本が落ちてしまった。
「えーっ、何、『源氏物語』!」
松が大声を出すので、慶次郎は不貞腐れて言った。
「俺が『源氏』読んじゃおかしいか。」
何やら赤くなっているようだ。
「おかしくないけど……意外。読めるの?」
「失礼だな。俺だって本くらい読むぞ。」
どうやら本気で怒っているようだ。
松がまじまじ慶次郎を見つめると、今度こそ本当にかーっと赤くなった。
本を懐にしまうと、足音荒く部屋を出て行ってしまった。
松は尚も追いかけて、
「三条大納言から伊勢物語の講釈も伺っているんでしょ?ねえ、いったいどうしちゃったの?」
土間に立った慶次郎は振り返った。
「家が滅びようと、身が落ちぶれようとも、姫君は変わらないものを持っていた。彼女が絵なら、俺には何があるんだろう、と思って、本を読んでいるんだ。俺は、あのひとにふさわしい男になりたいんだ。」
言い捨てて、さっと出て行った。
後には、ぽかんとした松が残された。
「やだ……本気?」
源氏物語や伊勢物語を読んでいるのは別に、慶次郎だけではなかった。それは当時の流行だった。
旧勢力を憎み、激しく対立した信長が倒れると、彼らはそろそろと息を吹き返してきた。あとを継いだ秀吉が、武家でなく貴族の肩書である関白を称するようになると、その動きは益々顕著になった。
古来貴族は、己の権威を保つため、武家に官位を授ける。そのことによって自分の権威のほうが上であることを世に宣言し、武家を飼いならし、骨抜きにしてしまう。信長は旧勢力が下さる『権威』なんてハナも引っ掛けなかったが、自らの低い出自に引け目のある秀吉は見事、その術策にはまってしまったのだ。
貴族は同時に、世の中にその武器である『文化』を宣伝し始める。それは戦が止んで落ち着いてきた人々の心にしっくりとはまった。もともと、上流の武士階級は幼少の頃から寺に預けられ、漢書を読み、古典に親しみ、お互い交際するにも教養が必要とされたが、町人や百姓にはそのような機会も習慣も無かった。でも世の中が落ち着いてくると、彼らもその例に倣い始める。
人はパンのみにて生くるにあらず、いわんや武器と金においておや。
その結果としての古典文学ブームなのだ。
この風潮は、また幸運なことに、菊においてもぴたりとはまった。
国を失い、家を失い、それでも彼女には家柄があり、脈々と受け継がれてきた文化教養があった。焼け野原では何の役にもたたなかった、良いものを見分ける力、それだけが彼女のたった一つで最大の武器だった。
菊は、あの死の逃避行の間も肌身離さず持ってきた叔父の道具箱を取り出した。そこには貴重で高価な絵の具も入っていた。当時の絵の具は、宝石の材料にもなるような石で作られている。彼女はその絵の具を使って扇に、雅な王朝文化の絵を描いた。全て躑躅ケ崎の館で朝に夕に眺めて、頭に入っていた本や調度品の図柄である。
皆、無くなってしまった。焼けたり、略奪されたり。
(ものは皆、滅びる、でも)
その姿は、彼女の心の中にくっきりと残っている。
(誰にも奪えない、あたしの心だけは)
いわば伝家の宝刀を抜いた。
彼女の扇はたちまち、都の評判となった。
移った当初は広々として嬉しかった店もすぐ手狭になり、もっと広い店を借りればよかったと悔やむほどだった。だからその日、達丸とその仲間たちが、道の端で気分が悪くなったという二人の婦人を店に連れてきたときも、休ませる部屋が無く、菊の居間に通すしかなかった。
年の頃四十前後とみえる婦人たちは、目立たぬながら上等な絹の着物を身につけていて、何処ぞの上流の武家の奥方たちのお忍びの外出らしかった。でも茶や菓子など振舞われて一息つくと、根が陽気な質らしく、押さえても押さえても出るお国言葉で楽しげに事情を説明しては笑い転げた。
「本当に助かりました。慣れない道で迷うておるうち、何やら目の前がぐるぐる回りだしてしもうて。」
「このひとを負ぶうて歩くうち、私までも目が回りだしてのう。」
「最近太って太って、座ってばかりいては身体に毒じゃによって、少し歩いたほうがええと言うて、二人で出かけたらまあ、このようなことに。」
「これからは転がって歩くことにしようかのう。」
三河万歳のように早口でしゃべっては笑い転げる二人を見ていると、こちらまで気持ちが明るくなるようだった。
「我らは田舎者での。国は尾張なのじゃが、清洲のお城下ではお隣同士でのう。」
「晩のおかずを分け合い、井戸端で共に洗濯をするうち仲良うなって。」
「亭主殿はいつも戦でおらぬし、今では亭主殿より深い仲じゃ。」
「ほほほ、誰と結婚したかわからぬわい。」
又、ひとしきり笑った後で、色白で目がぱっちりとした太り肉の女が言う。このひとはとりわけ声が大きく、話の主導権を握っている。
「我らを案内してくれたお子は、こちらの坊でしょうか。ほんにお礼を言います。あのお子は……。」
「あ、又、遊びに行ってしまいました。」
大勢の子どもに混じっていても、色白でひ弱な感じの達丸はひときわ目立つ。
「どうかお気遣いなさらぬよう。」
弱った雀や傷ついた子犬を拾って帰っては、世話するのが好きな子だ。動物ばかりではなく、庭の片隅に花を植えて世話している。
(でも武将のすることとして、ふさわしいとはいえない)
「あのお子は……あなたさまのお子か?いえ、ぶしつけなのは承知なのですが、たしか、叔母上と呼んでいたような気がして……。」
痩せたほうの女が言う。穏やかで優しそうな目をしている。口数少なく控えめだけれど実は、賑やかでおしゃべりな友の、ともすれば脱線しがちなところをしっかり支えているようだった。
「甥です。父母を戦で亡くしたので、私が引き取って育てているのです。」
清須の殿さまに討たれたのです、と心の中で付け加えた。
口に出しても仕方ない。織田の家中を避けていたら商売が成り立たない。
でも二人の婦人たちの表情は途端に、同情の色で一杯になった。
まだお若いのに、さぞかしご苦労なさったであろう。子育ては言うに言われぬ苦労がある。子供は可愛いものじゃ、もっとも一番ほっとするのは寝顔を見ているときじゃが。
「そなたは、お子はおらぬのかえ?失礼ながら、ご亭主は?」
「訳あって、主人とは別れて暮らしております。子はおりません。生まれなかったのです。」
「まあ。」
太り肉の婦人は益々共感したように叫んだ。
「私も子はおらぬ。でも、子供が大好きじゃ。」
「この人はほんに子供好きでの。自分には子が生まれなかったからとて、あちらこちらから子供を集めてきて、一生懸命育てておる。子供だけで一部隊できるわ、のう。」
「子は宝じゃ。それにしても女子一人、偉いものじゃ。」
そのとき近くの寺から、鐘を突く音が聞こえてきた。
「おや、もうこんなに遅くなって。帰らぬと。」
「帰るにも道が不案内じゃ。」
「店の者に案内させます。」
「いや、それには及ばぬ。」
婦人たちは固辞する。帰っていく場所を知られると不都合があるのだろう。
菊は仕方なく、手元にある、まだ何も描いていない扇の地紙を取り上げた。婦人たちが内野の方に帰りたいと言うので、紙の上にさらさらと地図を描き、新兵衛を呼ぶと手渡した。新兵衛は紙を作業場に持っていくと、あっという間に扇に仕上げて戻ってきた。婦人たちは菊の鮮やかな筆遣いに驚嘆した。
「これは良いわ。地図を書いてもらっても、折りたたんで持っているうちに、破けたり無くしたり。」
「何処にしまってあったかも忘れてしまったりして、困っておったのじゃ。そうか、地図の扇か。」
「これは良いものを。お代はいかほどか。」
「いえ、これは差し上げます。」
「さんざんお世話になっておいて、それはあまりに申し訳無いこと。」
「いいえ。私こそ、有難うございました。」
菊は心を込めて言った。
「女が子育てしているなんて、当たり前のことだと思われているというのに、こんなにお褒めいただくなんて。私こそ、嬉しい日でした。」
「私は松と申します。」
「私は寧々。これからもこの店を、贔屓にするとしよう。」
二人の婦人は名乗った。




