第69話 鶴と雀
滝川一益は、庭先に落雷があっても平然として読書を続けた、武田討伐後、関東管領として諸侯に面会する際も、一枚しか無い着物を洗濯したからとて乾くまで裸のまま皆を待たせていた、などという逸話が示すとおり、何があっても動じない男として有名だったが、武田軍を追う自軍に斬りこんできて大暴れしているのが前田慶次郎だという報告を受けて、さすがに腰を抜かしそうになった。すぐさま駆けつけて叱りつけると、気絶した雑兵の山を築いていた慶次郎は悪びれずニコニコしている。
「これは大伯父上。お久しぶりでございます。皆さま方のお働きを見て、この慶次郎も久々、腕を試してみとうなりました。」
慶次郎は大人しく縛に付いたが、飼い犬に手を噛まれた一益の怒りは収まらず、この素行収まらぬ男を重罪人として土牢の奥深くに放り込んだ。
しかし六月、二人の運命は劇的に変化する。
本能寺で主君信長が倒れたことを知った一益は、関東管領の地位を投げ打って京へ戻ろうと決意した。牢から慶次郎を出して、西上の意思を告げた。
「わしが今日この地位にあるのは、亡き殿のおかげじゃ。亡主の仇を討たずんば、この一益、天下の笑いものよ。」
「上さまご逝去と聞けば、たちまち北条に味方する国人どもが押し寄せて参りましょう。座して攻撃を待つより、こちらから攻めて、敵に一塩つけてやりましょう。」
一益は武蔵に出陣し、北条氏直の軍と戦ったが、もう既に時の勢いを失っていたためか、敗北してしまった。辛くも厩橋城に引き上げた。
一益は慶次郎を自分の居間に呼んだ。
庭のつくばいに数羽の雀が来て、鳴き騒ぎながら水浴びしている。鹿威しが鳴ると一斉に飛び立つが、しばらくすると又、戻ってきて、庭に散らばり、ミミズなど器用につつきだしては、あっという間に飲み込んでしまう。
一益はその様をじっと見やっていたが、おもむろに口を開いた。
「わしは最近、自分が鶴のような身じゃとつくづく思う。大きくて立派に見えるが、何をするにも人にじろじろと見られ、口を開くにも用心し、気の休まる暇もない。それに比べ、雀は自由じゃ。小さくて目立たぬゆえに、人を恐れず、好きなときに好きなところを飛び回っておる。わしはもう、つくづく疲れ果てたわい。」
「何をお気の弱いことを。」
慶次郎は励ましながらも、大伯父も年をとったものだ、と思わずにはいられない。
「わしはこれから密かに城を出、諏訪から木曽路を通って京に戻ろうと思う。しかし、そなたはもう連れて行かぬ。」
「やはり、お許しいただけぬか、武田の遺臣たちを助けたことを。」
「いや。もうずっと前から、そなたを前田に戻そうと思うておったのだ。そなたが役に立つのでつい、長い間借りっぱなしになってしもうたが。」
一益はしみじみとこの、手に負えぬ『我が子』を眺めた。
「利久殿も今では御隠居殿と呼ばれて、御留守居役など賜っておるそうじゃ。もうそろそろ旧怨を忘れてもよい頃ではないか、のう、慶次郎。わしはそなたを野に放してやろうと思う。雀の自由もなかなかのものじゃぞ。」
慶次郎は尚も供を願った。引き取り手の無い宙ぶらりんな存在の子供を手元に置いて育ててくれた、たった一人の肉親を、かつてない苦境の中に放っておくことは出来なかった。
しかし一益はがんとして拒んだ。人殺しとして追われる自分を拾い上げ、大将と呼ばれる身にしてくれた主の死に直面して、剛勇で鳴らした大伯父の心にも、何ものにも埋めることの出来ない空ろな穴が、ぽっかりと空いてしまったようだった。
厩橋を発った慶次郎はすぐ、御坂峠に向かった。しかし菊一行の行方は杳として知れなかった。八王子の山奥に松が隠れているとの噂も聞き、周辺一帯の山を捜索したが、見つからなかった。徳川家康が松を捕らえ、側室にしたとの噂の真偽を確かめに、浜松城にも忍び込んだ。だが、二人もいた松姫は、本物を逃がそうとして人身御供になった武田の遺臣の妻や娘だった。家康の方も、偽者と知りながら手厚く処遇していた。彼が求めていたのは武田の名跡であって、武田の姫ではなかった。
街道沿いには、落ち武者狩りで命を落とした武田の遺臣を弔う真新しい塚が、そこかしこにひっそりと建っていた。慶次郎はその一つ一つに心ばかりの野の花を手向け、そのうちの一つに眠っているであろう女とその家臣たちの冥福を祈った。
菊が死んだものとあきらめた慶次郎は、加賀へ向かった。
七尾の小丸山城にいた叔父利家は、慶次郎を喜んで迎えた。滝川の家にあって慶次郎の武名は鳴り響いていたからだ。
当時、利家は羽柴秀吉と柴田勝家の対立の中、微妙な立場に置かれていた。勝家にはかつて信長の勘気を被った際、とりなしてもらった恩もあり、北陸戦線では部下の立場であった。秀吉とは家が隣同士であり、二人の娘を養女にやるほどの個人的に親密な間柄だった。
利家はこの難局を切り抜けた。賤ケ岳の戦いでは戦わずして秀吉に降伏し、勝家は北庄城で自害した。秀吉は利家に能登の旧領を安堵し、新たに加賀二郡を与えた。利家は小丸山城を廃し、金沢城に入った。
北陸の情勢は尚、不穏だった。富山の佐々成政は反秀吉の旗を掲げ、秀吉方の利家との戦いをやめようとしなかった。この戦いは天正十三年八月、秀吉が自ら十万の大軍を率いて富山城を囲み、成政を降伏させるまで続いた。この間、慶次郎は前田軍にあって成政を脅かす目覚しい働きをし、その功により越中阿尾城を賜って、六千石を受けた。しかし慶次郎が居城に落ち着く暇など無かった。
若いときには傾き者として人目を引き、長槍が得意で猪武者の代名詞のように思われ、又、律義者として世の信用も厚い叔父だが、算術が得意で当時最新鋭の計算機である算盤を肌身離さず持ち歩き、情報収集にも長けているという、別の面も持っていた。だからこそ、熾烈な戦国の世の中で、今まで生き残ってこられたのだ。慶次郎を都の警護という名目で京にやったのは、彼の忍びの腕を見込んでのことだった。京の情勢を調べて報告せよ、というのが叔父が慶次郎に出した指令だったのだ。
「とまあ、こんなわけだ。」
慶次郎は長い長い話を締めくくった。
「信ずる信じないは姫の勝手だ。」
話に引き込まれて、いつの間にか聞き入っていた菊は、はっと我に返った。
「も、もちろん信じないわよ、自分から間者だったなんて、言う者の言うことを誰が……。」
「初めは好都合だと思った。武田に乗り込む絶好の機会だと。」
慶次郎はあっさり認めた。
「悪いとは思わなかった、主のために働くのは臣の務めだ。でも、姫君と共に旅をしているうちに考えが変わった。昨日まで味方だった者に追われて、誰を信じていいのか、何に頼っていいのかわからず彷徨う人々は、あのときの、荒子の城で、巫女に追われて逃げ惑う幼い俺と重なった。いつの間にか、逃げているのは小さいときの俺自身だったんだ。でもあのとき……御坂峠で、死線を共にくぐってきた人たちを逃がそうと決めたとき、中でも、俺が斬り込むことで姫君が逃げることが出来るだろうと思ったとき……不思議と心が鎮まった。悪夢に追われて逃げるだけではなく、立ち向かうべきだとわかったんだ。姫君が死んだ、と思う一方で、何処かで生きていてくれるのでは、生きていてほしいと思っていた。今、こうして会えて、こんなに嬉しいことはない。」
慶次郎は静かに言った。
「どうして」
菊は震える声で尋ねた。
「あたしを助けてくれようと思ったの?何も得なことは無いのに。」
「如何に剣や槍の腕を磨こうと、戦で手柄を立てようと、夜になると悪夢は俺を追ってきた。でもあのときから、もう夢を見なくなった。姫君、あなたは俺を悪夢から解放してくれたんだ。そして俺に、何のために戦うべきなのかを教えてくれた。」
涼しい一陣の風が吹いてきて、木漏れ日が二人の肩に煌きながら落ちてきた。




