第34話 蛇
「何考えてるのよ!気でも狂ったの?」
怒り収まらぬ菊は、小屋の隅に妹を乱暴に突き飛ばして怒鳴った。
「あいつは仇じゃないの、どういうつもりよ!」
松も負けずに言い返した。
「姉上こそ一体何なのよ!怒って、人に命令ばかりして!」
菊は一瞬息を呑んだが、胸をぎゅっと手で押さえて気を静めると、言った。
「松……私たち、もうお姫さまでも何でもないのよ。」
「そのとおりですわ。姫さま、そこのところをわかっていただきませんと。」
冷ややかな声で姉妹の争いに割って入った女に、固唾を呑んで見守っていた皆が一斉に目を向けた。
「春日……。」
菊は、妹の老女が自分の味方になって妹を説得してくれるのかと思ってほっとしたが、次の瞬間、冷水を浴びせられる思いがした。
「だから私たち、お暇いたします。」
「はっ、春日!」
「お松さまはともかく、お菊さまはようくおわかりの御様子。いくら昨日まで姫君、姫君ってちやほやされてきたって、御家が滅んでしまったのでは、どうしようもありませんものね。」
昨日まで忠実だった老女の唇の端に冷笑が浮かぶのを、菊は呆然として眺めた。
春日は片頬に冷笑を刻んだまま、すっと皆のほうに向き直った。
「さあ、行きましょう。」
その声につられるように、四、五人の者たちがおずおずと春日の周りに集まった。いずれも一行の中では年若く、家中でも家柄の良い娘ばかりだった。
「今まで大変お世話になりました……というのが、御挨拶なんでしょうけれどね。」
春日はクックッと笑った。
「お世話してきたのは私たちのほうですわね。ほんとはお礼を言っていただかなきゃならないんでしょうけどね。」
「おのれ、春日!言わせておけば!御恩重畳の姫君に何をぬかす!」
我に返った揚羽が春日に掴みかかろうとするのを必死になって止めながら、菊は尋ねた。
「行くって……いったい何処へ行くの?」
「東山の麓に茶店がたくさん出来ているのを御存知でしょう。あそこに行くんですよ。」
東山には清水寺をはじめとしてたくさんの寺社がある。その麓に近頃、参拝の客目当ての茶店がたくさん出来てきた。その茶店では最初茶を出していたが、客の要請にどんどん応えていくうちに、酒を出し、つまみを出し、料理を出し、と段々手が込んできて、その給仕をする女が必要となり、果ては詩歌管弦の相手をするようになるといった、たいした盛況ぶりなのである。
揚羽が声を荒げた。
「茶店なんて……恥ずかしくないのか?お客は織田の家中ばかりなのに?それに……。」
中には、戦場で荒くれた男たちに悦楽の場を提供する店もあるというではないか、と言いかけて、揚羽は口をつぐんだ。
「恥ずかしい?こんなボロを着て、河原で施粥にありつく、そんな生活のほうがよっぽど恥ずかしいんじゃありませんか?」
春日は声を張り上げた。
「じゃ、どうしてそなたは我らについてきたのだ。」
菊が問うと、
「当てが外れたんですよ。」
春日はふてくされて言った。
「あなたにくっついていけば、上杉に迎えてもらえると思ったんですけどねえ。でも上杉も織田に追い詰められて、手詰まりだっていうじゃありませんか。北陸の魚津の城なんて落城寸前という話ですよ。手取川で先代が織田軍をさんざんに打ち破ったという話も今は昔ですねえ。あの城を突破されれば上杉もいよいよお終いだって、もっぱらの評判ですよ。まあ、下手に越後に行って、あんな地獄をもう一度味合わなくて済んだだけでも良しとしなけりゃならないんでしょうがね。」
肩をすくめた。
「ともかく、ご奉公はこれでおしまいにいたしましょう。付いてきたい人はいらっしゃい。男衆でも、幾らでも使ってくれるという話ですよ。」
いったい、いつの間に、何処で、そんな手づるを見つけてきたのだろう。下女が二人、下男が一人、新たに春日の仲間に加わった。
「あら、いいんですか?」
春日は勝ち誇ったような笑みを松に向けた。
「いらっしゃらなくって?武田の姫君と名乗れば、大丈夫、下にもおかぬもてなしですよ?私が保証してさしあげますわ。元の、楽しい暮らしが待っているんですよ?」
松はふらりと立ち上がった。よろよろと空ろな目をして春日の元に近づいていく。
「だめよ!」
菊が叫んだ。
「だめよ、行っては!そんな誘いに惑わされては!どんなに苦しくっても、逃げちゃいけない!」
だが松は夢を見ているように口を開いた。
「奇妙丸さまにも……会える?」
春日は蛇のように優しく笑った。
「もちろんですとも。姫君のおいでになるのは数多ある店の中でも最高級のお店、たくさんの貴人がおいでになります。皆さま、派手で楽しい暮らしをなさっていますよ。さあ……。」




