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第35話 当主

 春日が松の手を取ろうとした、その時だった。

「いい加減かげんにせい。」

 低いが、戦場できたえた、よく通る太いだみ声が響いた。

「おっ、お屋形やかたさまっ?」

「ち、父上!」

 皆、一斉いっせいに振り向いた。今は亡き信玄が墓場からよみがえってきたのかと思ったのだ。

 しかし、そこに立っていたのは小柄こがらな老人だった。

 蟷螂かまきりのような逆三角形にとがったあごへびのような三白眼さんぱくがん、何よりも人目を引くのは()()()()と光る巨大な頭だった。白の小袖こそで墨染すみぞめの法衣ころもを付け、掛絡からをまとっている。岩塊がんかいのような大きな手にゴツゴツとねじくれたつえをついて、いつの間にか小屋の中央まで進み出て、あたりをねめ回している。

老女ろうじょともあろう者が、女衒ぜげん真似まねか。とっとと立ち去れい。目の毒じゃ。」

 老人は分厚ぶあつくちびるを開き、信玄そっくりの声で言った。

 春日は顔色を変えて小屋の外へ出て行った。春日にくみする者たちがぞろぞろと続いた。

 残ったのは、年配の女房が三人、大人しい若い女房が二人、下男下女が四人、数人の郎党ろうとうと揚羽、猿若、三九郎、兄の子供たちといったところだった。

「残ったのはこれだけか。情けないもんじゃのう。」

 老人は面々をぐるりと見渡して、ひとごとのように言った。

 菊はようやくわれかえった。

「ところで……どちらさまです?」

 老人は首を振った。

「益々情けないのう。そなた、自分の祖父もわからんか。」

「はっ?」

「わしの名は無人斎むじんさい道有どうゆう。武田家の第十八代当主じゃ。」

 一同は仰天ぎょうてんした。信玄がよみがえったのと同じ、いや、それ以上の衝撃だった。なぜならその男は、とっくの昔に死んだはずだったからだ。



     挿絵(By みてみん)



 男は蛇蝎だかつのように嫌われ、恐れられていた。

 武田たけだ信虎のぶとら

 菊の祖父にあたるこの男は、甲斐の国主であったその間、向かうところ敵なしだった。敵に対して過酷かこくであったばかりでなく、身内や部下に対しても厳しかった。後の世に暴虐ぼうぎゃくの限りを尽くした男としてその名をとどめているのは多分に、父を追ってその地位を奪った息子・信玄をかばうための作り話であるとの評価が定着しつつあるとはいうものの、この男が息子の計略けいりゃくによって国主の座を追われたとき、臣下の者たちが両手を挙げて万歳ばんざいを叫んだのは事実であったようだ。

 甲斐を追われた信虎は、娘の嫁ぎ先を頼って今川家に落ち着いた。だがこの老人はりなかった。孫の氏真が国主の座につくと、その地位を奪おうとして画策かくさくし、計略けいりゃく露見ろけんして追われた。次に京に現れ、十三代将軍・足利あしかが義輝よしてる御伽衆おとぎしゅうを務めていた。信玄が天正元年に世を去ると、老人は諏訪すわへとやってきた。諏訪には勝頼が居て、祖父と孫は生まれて初めて対面した。しかしその席において、この祖父は刀を抜き、孫の顔面に突きつけて、この刀は、その場に臨席りんせきした家来けらいの父の血を吸ったのだと暴言を吐いた、という噂だった。のち老人は娘の嫁ぎ先の根津家の厄介やっかいになり、勝頼が大敗北ををきっして武田家滅亡のきっかけとなる長篠ながしの合戦かっせんの前年、この世を去った、という話だった。

「フン、あやつら、わしの悪い評判をき散らすだけでは足らんと見えて、とうとう殺してしまいよった。」

 ヒョッ、ヒョッ、ヒョッと老人は薄気味悪うすきみわるく笑った。

「見ろ、足があるじゃろう。わしに甲斐に居られては困ると見えてな、四郎のヤツめ、会見の後すぐ、わしを京に追い返したのじゃ。おかげで、武田がこのようなことになるのをたりにすることになったわけよ。」

「お祖父さま、どうしてここがわかったの?」

 菊が尋ねると、

「わからないでか。そなたたち、京のを訪ねて回ったじゃろうが。」

「ええ。でも皆、断られてしまったわ。」

「都の人間なぞ皆そういうものじゃ。他人が困っている時、助けてくれんわ。」

「では私たちが困っていること、御存知なのね。」

 菊は目を輝かせた。

 ああ、やっぱり頼りになるのは身内みうちだわ。

「お祖父じいさま、じゃ、私たちを助けて下さろうと……。」

 言いかけた菊の言葉をさえぎるように信虎は哄笑こうしょうした。その細い目には悪意が踊っている。

「馬鹿め。わしが何故ここに来たと思う。わしを国から追い出した武田の残党がづらかくのを見に来たのよ。何が親子じゃ、身内じゃ。ひとがいかに頼りにならないか、思い知るがよいわ。」

 皆が凍り付いている中、信虎は呵々(かか)と笑っていたが、菊はその前に歩み出ると、深々と頭を下げた。

「お祖父さま、わざわざ訪ねてくださって有難う。又いらして下さいね。お待ちしております。」

「ちょっ、ちょっと」

 われかえった松があきれて言った。

「今までのやりとり、なーんにも聞いてないの?何で、こんな爺さん……。」

「松。」

 菊は静かに言った。

「こんなに苦労したのに、何もわかっていないの?武田が滅ぶとき、皆、蜘蛛くもの子を散らすように私たちから逃げて行ったわ。親類縁者はもとより、あんなに信じていた、あんなに引き立ててやった、あんなに親しかった、あの人もこの人も、誰も彼も、私たちのことなんて知らない、どうでもいい、顔も見たくないって。四郎兄さまがどんなにみじめな最期さいごげたか、あなたは覚えていないの?私は忘れない、決して忘れないわ。」

「……。」

「でもお祖父さまは、私たちをわざわざ訪ねてきて下さった。お祖父さまが何故京にいらしたか。それは父上や兄上がお祖父さまを甲斐から追い出したからよ。お祖父さまがどんなに心細くみじめな思いをなさったか、今の私にはわかるつもりよ。でもそれで武田から離れてしまうのではなく、私たちの行方を捜してわざわざ訪ねて下さったじゃないの。お礼を言うのは当然だと思うわ。」

 松が応えるより早く、信虎は冷たい声で口をはさんだ。

「甘いの。」

 じろりと孫娘をにらみつけた。

「甘い、甘い。そなたはとことん甘いの。そんなことでこの厳しい世の中を渡っていけるかの。」

「自分でもわかっています。」

 菊は素直に応えた。

「でも私、もう自分にうそつくの、やめたんです。生きられるだけ生きてみます。死んだらそれまでと思うしかありません。」

 菊は皆に向き直った。

「御覧のとおりよ。私は今、自分に出来ることを精一杯せいいっぱいやっていくしかないと思っている。私を信じて残ってくれる人、他に行き場が無いから仕方なく残っている人、様々だと思うけど、今日からは皆、運を天にまかせて、一つになって生きていくしかないわ。楽な道じゃない、それでも前に進んで行きましょう。」

 信虎は小屋にかけられたむしろをくぐりながら思った。

(どうやら武田の新しい当主とうしゅが決まったようじゃわい) 

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