合鍵
タケルが再びシークレットガーデンに戻ってきたのは、長かった陽もさすがに暮れて、夜の闇がすっかり入り江の海を覆った8時頃だった。
駐車場には、ハナコの錆びの浮いた白い小さな軽自動車だけがポツンと停められていた。
タケルはその横に、空色のワンボックスカーを停めると、急ぎ足でコンクリートの建物に向かった。
鉄の古めかしい扉はすでに閉じられ、重い閂がかけられていたが、二階の窓は、まだ外に向かって開いていて、そこからユラユラと黄色い光が揺らめいているのが見えた。
タケルは月明かりも無い、真っ暗な建物の裏を通って、ラウンジのカウンター横に直接入れる、勝手口の方へとまわった。
勝手口の横には、手すりのついた黒いボロボロの鉄の外階段があって、そこを登れば普通に外から二階へは上がれるのだが、どういうわけか、その入口の扉と思しき場所は、コンクリートでがっちり塗り固められていたので、そこから二階に出入りすることはできなかった。
気が弱かったり、迷信を信じるタイプだったり、あるいは霊感の強い人間だとしたら、夜、この怪しげな幽霊屋敷のような建物には、決して近づきたいと思わないだろう。
けれどタケルは、その育ちのわりには、霊的なことに対してつくづく鈍感な方だった。
それが『神職となって神社の後を継ぐ』ということに対して、ためらいを感じさせ、グズグズと先延ばしにしてしまう理由の一つとなっていた。
家族や親戚には、「そういう資質は、現代においては必要欠くべからざるモノでは無い」と、さんざん言われ、しぶしぶ神職の資格が取れる大学には通っていたが、それもほとんどは時間稼ぎのためであって、その気になれば大学なんて行かなくても、専門の養成所に行けば、もっと手っ取り早く資格は取れた。しかし、
『 神主さん=オレ 』
という図式が、どうしても腑に落ちないタケルとしては、なんとしても『その日』が来るのを後回しにしたかった。
神の中継ぎをする者たるや、研ぎ澄まされた感覚と能力を持ち合わせずして何とする。
という幼い頃からの強い思い込みが、タケルをいつも尻ごみさせていた。
そんな霊感のカケラも持ち合わせていないタケルであったが、
ただ一度だけ
この入り江で、見てはいけないモノを見てしまったことがあった。
それはタケルの20歳の誕生日の出来事で、台風の最中、忽然と現れた大潮の満月が、明るすぎるくらいの夜だった。
今でもソレが、タケルの中の大事な何かを持ち去ったまま
それきり帰ってこない……
重厚な表玄関とは違って、安普請な勝手口のベニヤ板の扉に、銀色のペラペラの合鍵を差し込んでまわすと、
カチン。
と、これまた頼りない音がする。
閉まっていても開いていても同じじゃないかと言う気がするのだが、とりあえずハナコの他に、『BLUE GARDEN』のスタッフである井田店長と、ホナミとタケルは、この合鍵を持っていた。
もちろん御園生社長も、高級なキーケースの中に、このペラペラの鍵をひとつ、持っているのだろうけど。
ラウンジの中は、電気が点いていなかった。
ぽっかりと穴のあいた海側の天井から、黄色いロウソクの灯りが漏れているだけ。
黒い鉄のシーリングファンが、相変わらず静かに回っていて、そのゆるやかな風がロウソクの灯りを不安定に弄ぶので、吹き抜けの天井に映った仄かな明かりは、まるで水面のようにユラユラと揺れていた。
「ハナ」
タケルが静かに呼ぶと、しばらくして天井の穴の奥からゴソゴソという音がして、ハナコがひょっこりと顔をのぞかせた。
長い髪がさらさらと、黒いベールのように流れ落ちる。
「遅くなってごめん。寝てた?」
「寝てない。……けど、ちょっとウトウトしてた……かも……」
ハナコは薄いニット生地のキャミソールと、ショートパンツに着替えていた。
そして目をこすりながらゆっくりと身を起こし、崩れた天井のふちに腰を降ろした。
背後からロウソクの光が当たり、逆光になって顔の表情がよく見えない。
「Tシャツ、ソファーの前のテーブルの上に置いてあるわ」
「ありがとう」
天井から下がったハナコの二本の細い脚が
ロウソクの光りに合わせてゆらゆらと揺れている。
ふいにタケルは
海の底から手の届かない月を見上げているような
淋しい気持ちになった。
「なぁ。 降りてきてよ……」
ハナコはしばらく黙っていたが、立ち上がって、一度天井の奥に見えなくなると、手に実用的な長い梯子を抱えて戻ってきた。
そしてそれを慣れた手つきで下に降ろすと、ラウンジの床にしっかり固定されたことを確認し、慎重に一段一段、後ろ向きで降りてきた。
タケルは念のため、その梯子を両手で支えた。
見上げると……
細く締まった足首、手触りの良さそうな太腿、
小ぶりな形の良いヒップ、華奢なウェストが、
甘い香りと共に、タケルの目の前をゆっくりと通過していく。
梯子を降り切ると
ハナコはちょうど後ろ向きのまま
タケルの両腕の中にいる形になった。
タケルの胸に、強烈な思いが湧きあがり
眉根を寄せて目を細める。
抱きしめたい……
その思いを潰すべきなのか、従うべきなのか。
心が迷いに答える前に
ハナコがくるりと振り返った。
二つの黒い大きな瞳が、驚いたように見開かれ、タケルの目の中に固定された。
柔らかそうなふっくらとした唇が、半開きのまま止まっている。
タケルは、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
そして思わず、ハナコの細い肩を握りしめ……
……たつもりが、握ったのは実際、固い梯子段だった。
次に、乾いた唇からようやく出た言葉は、
「おひさすぶりです」
という、間抜けな挨拶だった。
「さっき会ったじゃない」
ハナコはグサリと言い捨てると、タケルの腕の下をさっさと潜って、カウンターの方へスタスタと歩いて行った。
『バカ、オレ、死ね!!』
タケルはブンブン頭を振って、自分に呪いの言葉を浴びせかけた。
そしてしばらくガックリうな垂れ、梯子を握ったまま突っ立っていた。




