もう一度 そっちに寄っても良いか?
午後4時を過ぎ、ハナコは最後の客の車が崖を登って帰るのを、シークレトガーデンの鉄扉から見送った。
途中、タイヤがスリップする不穏な音が聞こえたが、しばらくすると崖の上からチェーンを掛け外しする金属音が微かに響いた。
それを聞き届けると、ハナコは大きく伸びをしてラウンジに戻り、BGMを消し、デッキの横から海へと続く、短い堤防の上を歩いて行った。
ひと気もなくなり、夕暮れの近づきつつある入り江は、静けさに包まれていた。
堤防の先端に着くと、ハナコは少しヒールのあるゴールドのビーチサンダルを脱ぎ捨てて、まだ太陽の熱を吸い込んで、ぬくもりを保ったままのコンクリートの上に腰を下ろした。
堤防から足を下ろし、子どものようにつま先を揺らすと、朝から立ち通しだったふくらはぎの緊張が、和らいでいくようだった。
長くすんなりした足の影が、穏やかな水面に映っている。
ハナコはここから眺める、誰もいないシークレットガーデンの景色が好きだった。
この入り江の廃屋のような建物に住み始めて、すでに8年近くが経過したが、住み飽きると言うこともなかったし、一人で淋しいと思うこともなかった。
ここはすでに、ハナコの体の一部のようなものだった。
肌色の砂浜や、エメラルドグリーンに透き通った海の色は、ハナコが生まれ育った京都の海の景色に似ていた。
ハナコが、サーフポイントとしても名の知られた、京都の日本海に面した小さな海辺の町を離れ、東京にやって来たのは、今から10年ほど前のことだった。
小さな田舎町で、日本人離れした容姿を持ち、常に人の注目を浴びて気位高く育ったハナコは、いつしか華やかな世界に憧れるようになり、当時多くの一流タレントやモデルを生み出していた、有名芸能プロダクションのオーディションを受け、研究生として合格すると、何の迷いも宛ても無く、高校の卒業と同時に、たった一人で上京した。
しかし覚悟はしていたものの、現実は想像以上に厳しかった。
レッスンでは訛りを徹底的に直され、立ち居振る舞いを正され、体重管理にも細かい指示が出た。
けれどレッスンの厳しさよりも、何より苦痛だったのは、同じプロダクションの研究生達との人間関係だった。
女の子達は、ハナコなど比べ物にならないほどプライドも美意識も高く、誰を見ても自分より美しく、洗練されているように見えた。
そしてその彼女たちに、自分の裏日本の京訛りを、馬鹿にされているのではと強く思い込み、ふとした時にその訛りが出るのが怖くて、心を開いて話す友達を作る事が出来なかった。
ようやくまわしてもらえたマイナー雑誌の片隅のモデルや、エキストラの仕事中も、それを埋めるように、生活費のためにしなくてはならない水商売のようなアルバイト中も、常に緊張し、小さなプライドを守るために四方に壁を作り、それにもたれるように毎日を暮らしていた。
そして田舎育ちのハナコは、そんな都会での生活に、次第に身も心も萎れていった。
そんな時、大阪から京都によくサーフィンをしに来ていた『ガーデングループ』の社長である御園生秀則と、偶然、東京で再会したのだ。
ハナコは当時、サーフィンをしていたわけではなかったが、京都のサーフポイントや、サーファーがよく集まるカフェなどにしばしば姿を現した。
御園生やその仲間たちは、当時まだ高校生だった彼女を見かけると、いつもからかうように気さくに声をかけ、そのたび彼女は、めいっぱいすまし顔で、大人のような口をきくのだった。
そんな鼻っ柱の強い少女だったハナコのことを、みなとても可愛がっていた。
御園生はハナコより背も低く、見た目も全く冴えない男だったが、仕事においては優れた経営者であり、40代半ばで既に相当の財力を持っていた。
そして誰に対しても人なつこく、面倒見の良い男だった。
なので、東京という思わぬ場所でハナコと再会したことを心から喜んだが、京都にいた頃に比べると、憔悴しきったような彼女のことを父親のように心配し、大阪弁でつまらない冗談を飛ばして励まし、元気づけようとした。
その後も仕事で上京するたびに、懐かしい郷土の土産を持ってきたり、高級京懐石の店に連れて行ったりして、ハナコを優しく労わった。
そんな御園生に、京都にいた頃とは違い、ハナコはすぐに依存していった。
そして御園生のほうも、以前の健康的で、勝気な可愛い少女だったハナコが、本人は気付かずとも、いつの間にか洗練された雰囲気と、大人の美しさを身につけ始め、それとは対照的に、時おり見せる、弱々しく頼りなげな姿に、次第に本気で心を奪われていった。
それから、自分の娘といってもおかしくないほど、年の離れていたハナコに、男として惜しげなく愛情を注ぐようになるまで、そう時間はかからなかった。
御園生は大阪にきちんとした家庭があったが、仕事で上京した時は必ず数泊し、ハナコを連れて千葉にサーフィンに行った。
夏の京都の、静かな海で泳いで育ったハナコに、太平洋の波を強く受けとめ続ける千葉の外房の海岸線を見せてやると、ハナコはいつも無邪気に喜んだ。
冬の京都の寒く陰気な荒波と違って、太平洋の波はいつも明るく、体の奥底に力を与えてくれるように感じられた。
御園生は、正直言ってサーフィンの腕前のほうは決して上手いとは言えなかったが、持ち前の図々しさと陽気な性格で、すぐに誰とでも打ち解けるので、千葉の海にも知り合いが多かった。
なのでハナコは、自然とローカルサーファーやその連れの女性達と一緒に過ごす機会も増え、そんな中で、小さく縮んでいた心は少しずつ解きほぐされていった。
そしてあるきっかけで、二人は、村人から訳あって葬り去られていたこの入り江の存在を知ることとなり、それ以来ハナコはすっかり、この小さな故郷の海のような場所の虜になってしまった。
御園生は、いとも簡単に、この訳ありの入り江を持ち主から手に入れ、ハナコに与えた。
するとハナコは、あっさりと華やかな世界への未練を捨てて、この入り江に一人で住むことを決めたのだった。
御園生は、数年前に、すでに全国展開されている輸入雑貨と衣料品のセレクトショップの他に、念願のサーフショップを東京の吉祥寺と、更には大阪の心斎橋にオープンし、ますます多忙となり、この入り江にゆっくりと来れるのは一カ月に一度も無かった。
しかしハナコはすでに、それを淋しいと思うことは無かった。
むしろ自分も、この入り江の景色の一部のように、本当はいつもひっそりと一人で居たいと思う。
いつまでもこのまま、時間が止まったように、
ここに居続けることができれば良いのに……
そんな思いに耽っていると、腰のポケットに入れた携帯電話の、バイブレーションを感じた。
長い指先でそれを取り出し、片手で気だるそうに髪を掻き上げながら、発信者名を確認する。
野川タケル……
ハナコはため息をついて、生温かい堤防に寝そべると、空を見上げながら電話に出た。
水色から薄桃色のグラデーションが、視界いっぱいに広がる。
「なぁに?」
「あ、オレだけど……」
ハナコのつれない電話の出方に、タケルの声が詰まる。
「あの子、どうした?」
「あの子って、アヒルちゃん?」
「うん……すっかり忘れてた。まだいるなら、これからそっちに迎えに行くけど……」
ためらいがちに切り出すタケルに、ハナコは無表情に答える。
「30分くらい前に帰ったわ。ホナミンが行方駅まで送って行ってくれて」
それを聞いて、声のトーンがホッとしたように一段上がる。
「そっか!なら良かった。 ……怒ってたか?」
「ううん。あの子は怒ってないけど、ホナミンが怒ってた」
そう言って、ハナコはコンクリートの上で長い髪を散らしながら、猫のように寝返りを打ち、ふふふ、と笑った。
寝そべりながら含み笑いをすると、その声に微妙な媚が混ざり、タケルの鼓膜は、息を吹きかけられたようにくすぐったくなった。
「……もう一度……そっち、寄ってもいいか?」
「今どこにいるの?」
「カガミハマ」
「それなら、山道で帰った方が早いんじゃない?」
ハナコが、またつれなく答える。
けれどタケルは怯まなかった。
「そこに、オレのTシャツがあるだろ」
「あるわ、緑の……。でも、今度にしたら?」
「迷惑じゃなかったら、取りに戻りたい。首都高降りてから裸だと、さすがにみっともない」
しばらくの沈黙……
タケルの携帯からは、車が国道を行き交う音に混ざって、今日の波を共に楽しんだ男たちの声が聞こえてくる。
ハナコの携帯からは、堤防に当たる小さな波が、気ままに響く音が聞こえてくる。
「……何時頃、来られそうなの?」
「ササラ君達と、久しぶりに少し話してから行くけど……6時くらいには着けるようにする」
「そう、分かったわ」
「ありがとう。なるべく早めに行く」
そう言って、電話は切れた。
ハナコは携帯電話をコンクリートの上にコロン、と転がした。
そして明るかった夏の空が、薄桃色から、美しいすみれ色へと変わって行くのを、そのまましばらく見つめていた。




