第五話 人ならざる力
『土と血の王冠』をお読みいただきありがとうございます。
それでは、本編をお楽しみください。
後から来たオークの一体は松明を持っていた。
オークはユルヴァンたちを見ると、侮るかのように口元を歪めた。
完全に舐められている。
オークは、あの巨体に似合わぬ速さで動く魔物だ。
「ユルヴァン……お前だけなら、あの隠れ家まで逃げられるだろう」
ユルヴァンはロイクを見た。
ロイクは夜目が利かない。それは、ロイク自身も分かっているはずだ。
ロイクの声には、覚悟が滲んでいた。こちらの心配に気づいたのだろう。ロイクは続けた。
「へっ。俺が物語の主人公じゃないなんて……とっくにわかってたんだよ。羨ましくない、なんて嘘は言わねえ。けどな——」
松明の炎が揺れた。
薄暗い中では、ロイクの表情までは分からない。それでも、笑っているような気がした。
「俺は、前に死ぬとき誓ったんだ! 次こそは友達を見捨てねぇって!」
「何言ってるんだ! ロイクも一緒に!」
「行け! ユルヴァン! お前なら暗闇でも走れるだろ!」
ロイクは声を張り上げた。震える足を踏みしめ、オークたちの前に立ちはだかる。
「大丈夫だ! 後で隠れ家で会おうぜ」
松明の明かりが、ロイクの顔を照らしていた。
その顔は恐怖で強張り、よく見れば足も震えていた。
ロイク……君こそが主人公だ。
ユルヴァンは、ロイクの背後でオークたちを見据えた。
自分でも驚くほど落ち着いていた。まるで、目の前の光景を、自分ではない誰かが見ているようだった。
自分のための力なんて要らない。今は、ロイク……君を守れる力が欲しい。
その瞬間、血が沸き立ち、全身を熱が駆け抜ける。
ドクン——心臓が跳ねる。
内側で獣が目を覚ますような感覚だった。
「——ガアアア!」
ユルヴァンの口から、人のものとは思えない咆哮が迸った。
オークたちが身を震わせ、一斉にユルヴァンへと視線を向けた。
「ユルヴァン……?」
ロイクが振り返った。
松明の明かりに照らされたその姿に、ロイクは息を呑んだ。
赤い瞳の奥で、瞳孔が縦に細く裂けていく。額からは二本の角が、皮膚を押し上げるように伸びていた。
そこにいたのは、見慣れた友の姿を残しながら、人ならざるものへと変貌したユルヴァンだった。
次の瞬間、ユルヴァンは地を蹴った。
先頭にいたオークがとっさに石斧を振り下ろす。
だが、オークが腕を振り切るよりも早く、ユルヴァンはその懐へと飛び込んでいた。次の瞬間、拳がオークの腹へと深くめり込む。
「プギイィィィィ!」
赤黒い液体を口から吐き出し、オークはゆっくりと後方へ倒れ込んだ。
「ブォ! プギャギャ……!」
「プギャ! プギャ!」
二体のオークが濁った声を上げた。
一体が倒れた仲間へ目を向ける。もう一体はユルヴァンを睨みつけ、手にした斧を振り上げた。
「ブォォォ!」
怒りをぶつけるかのように、オークはユルヴァンへ突進してきた。もう一体も同時に走り出してきた。
「……」
ユルヴァンは倒れたオークから視線を外した。
オークが眼前まで迫る。ユルヴァンは一瞬だけ背後を振り返った。
ロイクは後ろにしっかりいる。
その姿を確かめると、再びオークへ向き直り、人差し指を突きつけた。
「炎よ——燃え上がれ」
ロイクはその言葉に目を見開いた。
それは、普通の人間が口にすることのない言葉。
物語の英雄だけが紡ぐ、特別な言葉。
一握りの者だけが扱える奇跡を、この世に呼び起こすための言葉だった。
魔法。
ユルヴァンの指先から蒼い炎が噴き出した。炎は瞬く間に広がり、オークの全身を包み込んだ。
「プギイィ! プギイィ!」
炎に包まれたオークは、地面を転がりながら暴れた。
その巨体が、突進してきたもう一体の足元を薙ぎ払う。体勢を崩したオークに、蒼い炎が燃え移った。
「プギイィ! プギ。プギャ! プギャ……」
蒼い炎は、まるで生き物のようにオークの身体を這い回っていた。青白い光が、夜の森を不気味に照らし出す。
ユルヴァンは、自分の指先を見つめた。そこから炎が生まれたことが、まだ信じられなかった。
やがて、ゆっくりとロイクの方へ顔を向けた。
「ロイク……」
「ユルヴァン。お前……すげぇよ! 魔法使いになったんだ!」
蒼い炎に照らされたロイクは、満面の笑みでユルヴァンを迎えた。
「こわく……ないの? 自分でもわかるんだ。人じゃなくなってる。まるで怪物みたいだ」
背後では、オークたちの悲鳴がまだ響いていた。
「ああ。怖い——」
「っ……」
「怖いくらいにかっこいいぜ! お前!」
「え?」
ロイクは目を輝かせてユルヴァンに詰め寄った。
「竜の力を手に入れた主人公! 最高じゃねぇか! 俺はその相棒だろ? 俺も核を取り込めば魔法が使えるのか? いや、失敗すれば魔物になるし……でも竜の核なら……いや、痛そうだし……いやでもさ——」
「ちょ、ちょっとロイク?」
「……あ、悪い。興奮しすぎた」
ロイクは急に、とめどなく話し始めた。普段はふざけた調子でいても、意外なほど冷静なロイクが、ここまで興奮するのは珍しかった。
それでもロイクは変わらないね。
ユルヴァンは苦笑しながら、ロイクに声をかけようとした。だが、一歩踏み出そうとした瞬間、急に視界がぶれた。
「お、おい。ユルヴァン!」
身体の奥で、何かが蠢いている。
熱が骨の髄にまで染み込み、身体の内側から作り替えられていくようだった。
「あ、あつい……」
「ユルヴァン!」
視界は赤く揺れ、激しい頭痛が広がった。額に手を当てようとして角が邪魔をした。
「ユルヴァン! まずいな。隠れ家まで歩けそうか?」
「う、うん……頑張るよ」
「こんだけ燃えてんだ。村の奴らが気づいてもおかしくねえ。急いで移動するぞ」
ロイクは蒼い炎に照らされた森を見回し、帰る方向を見定めたようだった。ユルヴァンは、その後をゆっくりと追いかける。
ロイクはユルヴァンを支えようと、その肩に手を伸ばした。
「熱っ!」
「えっ?」
「お前の身体、すごく熱いぞ! 触れないくらいだ!」
ロイクは慌てて手を離した。
「ご、ごめん……でも、歩けるよ」
「馬鹿言うな! 顔色だって真っ青じゃねえか!」
ロイクは一瞬ためらった後、再びユルヴァンの肩に手を回した。熱さに耐えるように、その手がわずかに震えていた。
「うっ……大丈夫だ。我慢できるぜ。行こう」
「ごめん。ロイク……」
ロイクは熱さをこらえながら、無理に笑ってみせた。
熱い。
身体の奥で、何かが燃えている。
皮膚の表面ではない。骨の奥、血の中、もっと深い場所から熱が湧き上がってくる。
「ロイク……少し、休ませて……」
「駄目だ。ここにいたら見つかる。隠れ家まで頑張れるか?」
「うん……」
そう答えたものの、足元がおぼつかない。
一歩進むたびに、頭の奥で何かが脈打った。
ドクン。
ドクン。
心臓の鼓動とは違う。まるで、身体の中にもう一つの心臓があるようだった。
「……っ」
視界が歪む。
森の木々が赤く染まり、夜の闇が奇妙な色を帯びていく。その向こうに、見知らぬ景色が浮かんだ。
荒れ果てた大地。
燃え盛る山。
そして、空を覆う無数の竜。
違う。これは僕の記憶じゃない。
そう思った瞬間、胸の奥から激しい熱が込み上げた。
「ユルヴァン! おい、しっかりしろ!」
ロイクの声が遠く聞こえる。
「……大丈夫。少し、頭が痛いだけだ」
「全然大丈夫そうに見えねえよ!」
ロイクの声に、ユルヴァンはかすかに笑った。そのとき、膝から力が抜けた。
「ユルヴァン!」
倒れかけた身体を、ロイクが必死に支える。もう、足に力が入らなかった。
「ごめん……ロイク。僕……」
「謝るな! いいから俺につかまれ!」
ロイクはユルヴァンの腕を自分の肩に回した。先ほどよりも熱くなった身体を、それでもしっかりと支え、歩き出した。
「これで……三回目の貸しだぜ? まあ、俺をオークから助けてくれたからな。今回のはチャラにしておいてやる」
「はは……そうだね」
夜の森に、二人の足音だけが続いていた。
◆◆◆
——隠れ家に着くなり、ユルヴァンはその場に倒れ込んだ。
「ガルドさんがくれた水袋に水が入ってる。まずはそれを飲め」
ロイクは水袋の口をユルヴァンの口元へ運んだ。
ユルヴァンはわずかに口を開き、どうにか一口だけ水を飲み込んだ。だが、それ以上は喉を通らなかった。
「はあ。はあ」
「ミレアが用意してくれた熱冷ましの薬草液なら、少しは楽になるか? いや、でも——」
ロイクは籠の中を探り、薬草液を取り出した。これでいいのかと迷うように瓶を見つめる。やがて「よしっ」と頷き、ユルヴァンの口元へ運んだ。
「効果はわからないが、こういう時はミレアの愛のパワーが救ってくれるだろう!」
「ぱわー……?」
「なんでもねえ! とりあえず、今はゆっくり寝たほうがいい」
「うん……ありがとう……」
ユルヴァンは目を閉じ始めた。
うっすらとぼやける意識の中、ロイクが「あ、でも作ってんのはガルドさんだった——」と言うのが聞こえた。ユルヴァンはそのまま意識を手放した。
◆◆◆
——暗闇。
音も、光もない。そこには、何もなかった。
いや、違う。
何かが、そこに生まれようとしていた。
それは、誰かに望まれて生まれた命ではなかった。
父も母もいない。
生まれた理由さえ、分からない。
ただ、突然。
そこに存在した。
自分は、何なのだろう。
その問いに答える者は、どこにもいなかった。
目の前では、また一つの命が消えていく。昨日までそこにあったものが、今日はもうない。
大地には幾重もの傷跡が刻まれ、空には絶えず咆哮が響いていた。
争いは終わらない。
どれだけ命が失われても、誰も戦いをやめようとはしなかった。
それを、ただ見つめ続けていた。
やがて、その竜は翼を広げた。
終わらせよう。
その意思が、初めて生まれた。
竜は戦いへと身を投じた。
その瞬間、視界が白く染まった。
そして、ユルヴァンの意識は再び闇へと沈んでいった。
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次回の投稿は明日11月1日の19時45分となります。
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