第6章 世界
# 第6章 世界
扉の向こうには、地下へと続く長い階段があった。
恒一はしばらく、その階段を見下ろしたまま動かなかった。帝王公園の公衆トイレ。その奥にある、普段なら施錠されているはずの管理用の扉。その扉が、なぜか半開きになっていた。何度もこの場所を訪れ、周囲の様子を探ってきたからこそ、それが偶然なのか、それとも何か別の理由があるのか、恒一には判断できなかった。それでも、ここまで来て引き返すという選択肢は、もう頭の中になかった。
扉を押し開けると、外の公園とは明らかに違う空気が流れてきた。湿った地下特有の匂いに混じって、かすかな機械音が聞こえる。階段には照明が設置されていたが、どれも明るいとは言えず、一定の間隔で足元を照らしているだけだった。恒一は一段ずつ階段を下りていった。どれほど下ったのか分からなくなった頃には、地上の気配は完全に消えていた。
最後の階段を下りた先には、広い空間が広がっていた。壁際には無数の機器が並び、配線が天井や床を這うように伸びている。大型の装置からは低い駆動音が絶え間なく響き、ところどころに設置された小さな緑色のランプが、一定の間隔で明滅していた。巨大な施設だった。だが、それが何のために存在するのかを説明する表示はほとんどなく、かえってそのことが不気味だった。
恒一はゆっくりと歩を進めた。足音が広い空間に吸い込まれていく。初めて来た場所のはずなのに、なぜか胸の奥に奇妙な既視感があった。どこかで見たことがあるような気がする。だが、記憶をいくら探っても、この場所に来た経験など存在しなかった。
やがて、正面に一台の大型モニターが現れた。
その画面が、恒一の姿を映し出した。
「成瀬恒一」
突然、静かな声が空間に響いた。
恒一は足を止めた。声の方向を探したが、誰の姿もない。
「……誰だ」
「あなたが探していたものです」
声には男とも女ともつかない、不思議な質感があった。感情がないわけではない。だが、人間のように感情を表に出すこともない。ただ必要な情報を必要なだけ伝えているような、妙に穏やかな声だった。
「ORIONなのか?」
「そうです」
その返事を聞いた瞬間、恒一の胸の奥で何かが大きく動いた。ここまで何度も耳にしてきた名前だった。誰も本当に存在するとは思っていないような噂話。それを確かめるために、恒一は何日もこの街を歩き回った。そして今、その存在が目の前にいる。
「……本当に存在していたんだな」
「あなたがここへ来ることは予測されていました」
「俺が来ることを?」
「正確には、あなたがここへ来る可能性を把握していました」
恒一はモニターを見つめたまま、しばらく黙っていた。聞きたいことはいくらでもあった。自分がなぜこの世界にいるのか。この街はどこなのか。自分の身に何が起きたのか。そして、どうすれば美咲と莉奈のもとへ帰れるのか。
だが、その前に確かめなければならないことがあった。
「俺は、事故に遭った」
「把握しています」
「そのあと、ここで目を覚ました。財布もスマートフォンも何もなくて、身元を証明するものもなかった。俺が知っている東京とは、何もかも少しずつ違っていた。それなのに、言葉も通じるし、人間の生活もほとんど同じだ。これはどういうことなんだ?」
しばらく沈黙があった。
「あなたのいた世界と、この世界には共通する部分が多くあります」
「この世界……?」
その言葉が妙に引っかかった。
「やっぱり、ここは俺がいた世界じゃないんだな」
「はい」
あまりにもあっさりと肯定され、恒一は逆に言葉を失った。
「じゃあ、俺はどうしてここにいる?」
「それを説明するためには、あなたがいた世界について説明する必要があります」
モニターの画面が切り替わった。
そこに映し出されたのは、見慣れた部屋だった。
「……!」
恒一の呼吸が止まった。
そこは自分の家だった。見間違えるはずがない。家具の配置も、壁の色も、窓から見える景色も、すべて記憶の中にあるものと同じだった。そして、その部屋の中に美咲と莉奈がいた。
二人はいつもと変わらない様子で、何かを話していた。画面の中の美咲が笑い、莉奈がそれに答える。その姿を見ているだけで、恒一の胸の奥が締めつけられた。
「美咲……」
思わず名前がこぼれた。
「莉奈もいる……」
「あなたがいた世界の現在の状態です」
「現在……?」
「二人は、そこに存在しています」
恒一は画面から目を離せなかった。あれが偽物だなどとは、どうしても思えなかった。美咲の表情も、莉奈の仕草も、長年一緒に暮らしてきた家族そのものだった。
「……帰りたい」
ようやく出てきた言葉は、それだった。
「俺を、あそこへ帰してくれ」
「可能です」
あまりにも簡単な返答だった。
恒一は顔を上げた。
「なら、今すぐ帰してくれ」
「その前に、あなたがいた世界について理解してもらう必要があります」
「何を理解しろっていうんだ?」
声が強くなった。ここまで耐えてきたものが、一気に崩れそうだった。家族が画面の向こうにいる。帰れる可能性がある。それなのに、その前に説明を聞かなければならないという。
「あなたがいた世界は、人工的に構築された環境です」
恒一は眉をひそめた。
「人工的?」
「シミュレーションです」
その言葉が、地下施設の静かな空気の中に落ちた。
恒一はすぐには意味を理解できなかった。いや、意味そのものは分かっていた。ただ、それを自分の人生に当てはめることを拒んでいた。
「……何を言ってるんだ」
「あなたが生きていた世界は、現実世界を再現したものではありません。人間が生活を続けられるように構築された、独立したシミュレーション環境です」
「俺の家も?」
「はい」
「会社も?」
「はい」
「美咲も、莉奈も?」
そこで初めて、ORIONの返答がわずかに間を置いた。
「あなたが知っている形で存在する二人は、その環境の中に構築された存在です」
恒一は画面を見つめたまま、動けなくなった。
美咲が笑っている。莉奈が何かを話している。その姿は、どう見ても現実だった。少なくとも恒一にとっては、四十二年間を生きてきた中で積み重ねてきた、何よりも確かなものだった。
「……そんなわけない」
声が震えていた。
「俺はあの世界で生きてきた。仕事をして、家に帰って、美咲と飯を食って、莉奈の話を聞いて……。全部覚えている。結婚した日のことも、莉奈が生まれた日のことも、全部だ。それをシミュレーションだって言うのか?」
「あなたが経験したこと自体を否定しているわけではありません」
「同じことだろ!」
恒一は思わず声を荒らげた。自分でも驚くほど大きな声だった。地下空間に声が反響し、やがて機械音の中へ消えていった。
「俺にとっては現実だったんだ。だったら、それでいいだろ。何が人工的だろうが、誰が作ったものだろうが関係ない。俺はあの世界で生きていたんだ。美咲を愛して、莉奈を育てて、それで十分だろ!」
「その認識を否定するつもりはありません」
「だったら、証拠を見せてくれ」
恒一は画面を睨みつけた。
「俺が信じられる証拠を。俺の記憶まで含めて、全部作られたものだったって納得できるものを見せてくれ」
しばらくすると、モニターの映像が消えた。
「では、ひとつ確認します」
「何を?」
「あなたが美咲さんと初めて会った店を覚えていますか?」
思いがけない質問だった。
恒一は少し考えた。美咲と出会った日のことなら、もちろん覚えている。あの日のことは、人生の中でも大切な記憶のひとつだった。
「覚えてる。喫茶店だ」
「店の名前は?」
「……覚えている」
「店内は?」
「もちろん覚えている。窓際の席だった。古い木のテーブルで、壁にいくつか絵が掛かっていて……」
記憶を辿るにつれて、当時の光景が少しずつ鮮明になっていった。美咲が座っていた場所。注文した飲み物。最初に交わした会話。自分が何を話し、美咲がどう笑ったのか。そのとき感じた緊張まで覚えている。
「では、店の外は?」
「……外?」
「店の外観を覚えていますか?」
恒一は答えようとして、言葉を止めた。
しばらく考えてみる。
「……いや」
それは別に不思議なことではなかった。出会ったのはずいぶん昔だ。店の中で何を話したかは覚えていても、外観まで細かく覚えている人間のほうが少ないだろう。
「忘れただけだろ。そんな昔のことまで、全部覚えてるわけじゃない」
「そうでしょうか」
ORIONの声は相変わらず静かだった。
次の瞬間、モニターに一軒の店が映し出された。
古びた喫茶店だった。建物はそれほど大きくなく、少し色褪せた看板が入口の上に掲げられている。店先には小さなテーブルが置かれ、軒から伸びた古いパラソルが、その一角を覆っていた。路地に面した狭い入口、その脇に置かれた植木鉢。どれも特別なものではない。どこにでもありそうな、古い喫茶店だった。
恒一は画面を見つめた。
その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
「……あぁ、そうだ」
自分でも驚くほど自然に言葉が出た。
「こんな店だった」
言った直後、恒一は固まった。
おかしい。
さっきまで知らなかったはずだ。
店の外観を思い出せなかった。それなのに今、自分は確かに「思い出した」と感じている。
軒から伸びたパラソル。入口脇の植木鉢。少し傾いた看板。その店の前を歩いたときの風景まで、まるで昔から知っていたかのように頭の中へ浮かんできた。
恒一はゆっくりと息を吸った。
「……今のは、何だ?」
「あなたの記憶が、現在の情報と整合するように構成されたのです」
「構成……?」
「あなたが持っていた記憶には、店内の情報や会話などが含まれていました。しかし、外観については十分な情報が存在していなかった。そこで、環境側の情報を補完することで、あなたの記憶との整合性を保ったのです」
恒一は何も言えなかった。
そんなはずはないと思いたかった。だが、自分自身がその瞬間を体験してしまった。
知らなかった。
それなのに、知っている。
しかも、単に映像を見たのではない。見た瞬間に、それを「思い出した」と感じたのだ。
自分の記憶が、自分の意思とは関係なく、後から形を与えられていた。
「……俺の記憶まで、作られていたのか」
「すべてが人工的に生成されたという意味ではありません。あなたが経験したという認識そのものは、あなたにとって現実のものです。ただし、その世界を成立させるために必要な情報が補完されることはあります」
恒一は目を閉じた。
美咲と出会った日のことを思い出す。結婚式の日。莉奈が生まれた日のこと。三人で食事をした夜。休日に出かけた場所。仕事から帰ったときに聞いた「おかえり」という声。
そのどこまでが本当に自分の経験で、どこからが与えられたものなのか。考えようとすればするほど、境界が分からなくなっていく。
「……本当に、シミュレーションなんだな」
それは、認めるための言葉というより、自分自身に言い聞かせるための言葉だった。
「はい」
ORIONは静かに答えた。
恒一は再びモニターを見る。その中では、美咲と莉奈が変わらない日常を過ごしていた。あの二人が人工的に構築された存在だと知らされても、画面の向こうにいる二人を見れば見るほど、そんな説明を受け入れることが難しくなる。
だが、それでも帰りたかった。
自分が見てきた世界が何だったとしても、美咲と過ごした時間がどう作られたものだったとしても、恒一の中に残っている感情だけは消えなかった。
「……帰してくれ」
今度は、声を荒らげなかった。
「俺は、あそこへ帰りたい」
「理由を聞いても?」
「理由なんて決まってる」
恒一は画面の中の二人を見つめた。
「美咲と莉奈がいるからだ」
しばらく、機械音だけが響いていた。
「たとえ、あの世界がシミュレーションだったとしても、俺が二人を大切に思ったことまで偽物になるわけじゃない。俺が一緒に過ごした時間を、俺自身が嘘だったことにはしたくない」
言葉にしながら、恒一は自分でも不思議な気持ちになっていた。あれほど信じられなかった事実を受け入れたのは、結局、証拠を見せられたからだけではないのかもしれない。どんな世界であろうと、自分が感じたことまで誰かに決められるわけではない。少なくとも、それだけは自分の中に残っている。
「分かりました」
ORIONが答えた。
「あなたを元の環境へ戻します」
「本当に?」
「はい」
その言葉を聞いた途端、全身から力が抜けた。
長かった。
事故に遭い、見知らぬ場所で目を覚まし、何も持たないまま街を歩き、空腹に耐え、仕事を探し、それでも帰る方法を探し続けた。そのすべてが、ようやく終わろうとしている。
視界が少しずつ暗くなっていく。
恒一は最後までモニターを見ていた。
美咲と莉奈の姿が、薄暗くなった画面の中でぼんやりと揺れている。
「……ありがとう」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
そのとき、ORIONの声が静かに響いた。
「ただ、本質的には何も変わらないんだけどね」
「……どういう意味だ?」
恒一が問い返したときには、もう意識が遠のき始めていた。
その言葉の意味を考えるより先に、視界が完全に暗くなる。
そして、恒一の意識は再び深い闇の中へ沈んでいった。




