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水槽の世界  作者: ほげお
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第5章 違和感

#第5章 違和感


帝王公園へ行くと決めた翌日から、恒一の生活は大きく変わったわけではなかった。


朝になれば段ボールの上から起き上がり、顔を洗える場所を探し、食べるものを確保する。仕事にありつけそうな場所があれば足を運び、荷物運びや清掃、倉庫の整理など、その日にできる仕事を引き受ける。稼いだ金はほとんどその日の食事に消え、仕事がなければ、また食べるものを探さなければならない。


それでも、以前とは一つだけ違っていた。頭の片隅に、常にORIONという言葉が残っていた。


帝王公園の地下にあるという巨大な施設。都市のあらゆる情報を把握しているとも、政府すらその正体を完全には知らないとも言われている。もちろん、単なる都市伝説かもしれない。実際、恒一がこれまで話を聞いた人間の中にも、ORIONを実際に見た者はいなかった。


だが、もし本当に存在するのなら、自分がなぜこの世界にいるのかを知る手掛かりになるかもしれない。そう考えると、無視することはできなかった。


恒一は、仕事を探すついでに、少しずつORIONについて聞いて回るようになった。ただし、露骨に尋ねることはしなかった。いきなり「ORIONはどこにある?」などと聞けば、不審に思われる。そこで、仕事仲間や食堂の店員、荷物を運ぶ途中で知り合った人間などに、世間話のつもりで話を振った。


「ORIONって、知ってます?」


「知ってるっていうか、名前くらいはな」


そんな返事が多かった。


誰かが「政府の極秘システムだ」と言えば、別の誰かは「巨大企業が作ったAIだ」と言う。中には、「そもそも存在していない。昔からある噂だ」と笑う者もいた。情報はばらばらだったが、妙な共通点もあった。ORIONという名前だけは、かなり多くの人間が知っている。そして、帝王公園の地下に何か巨大な施設があるという話も、別々の場所で何度か耳にした。


ある日、仕事を終えた恒一は、帝王公園まで足を延ばした。公園は街の中心にあるだけあって広く、平日の夕方でも多くの人が行き交っていた。子供を連れた親子、ジョギングをする人、ベンチで休む会社員。どこにでもありそうな、ごく普通の都市公園に見える。


ただ、恒一は歩きながら、以前聞いた話を思い出していた。地下に施設がある。それも、かなり大規模なものらしい。しかし、公園を一周したところで、それらしい入口は見つからなかった。立入禁止の区域があるわけでもなく、警備員が巡回している様子もない。少なくとも表から見る限り、秘密施設が存在するようには見えなかった。


その日は何もせずに帰った。


だが、それから恒一は、仕事の合間に帝王公園へ立ち寄るようになった。最初はただ公園を歩くだけだったが、次第に、公園の施設にも目を向けるようになった。管理事務所、倉庫、電気設備らしき建物、清掃用の物置。公園の隅にある公衆トイレにも入ってみた。


特に何かを期待していたわけではない。ただ、地下施設があるのなら、どこかにその痕跡があるはずだと思った。しかし、何日通っても、それらしいものは見つからなかった。


それでも恒一は、暇を見つけては公園へ足を運んだ。食事を安く済ませるために街を歩き回り、仕事が終われば公園へ向かう。ベンチに座って人の流れを眺めながら、周囲の施設を観察する。時には何もせず、一時間以上そこで過ごすこともあった。


そんな日々を過ごしているうちに、恒一は少しずつ元の世界について考えるようになった。


こちらの生活が苦しいからこそ、以前の暮らしが鮮明に思い出される。一流企業に勤め、十分な収入があり、それなりの資産も築いていた。仕事は忙しかったが、自分の努力が結果につながっているという実感があった。住んでいた家も快適だったし、食べたいものを食べ、欲しいものがあれば無理なく買えた。休日には家族と出かけ、旅行を楽しみ、趣味に時間を使うこともできた。


そして何より、美咲がいた。


結婚してから長い年月が経っても、家に帰れば妻がいるということが当たり前だった。莉奈が生まれてからは、家の中に子供の声があることも当たり前になった。


今になって思えば、恒一はかなり恵まれていた。一つひとつを考えれば、決して簡単なことではない。仕事で成功することも、十分な収入を得ることも、資産を築くことも、健康を維持することも、気の合う相手と出会って結婚することも、子供に恵まれることも、それらのどれか一つだけでも、誰にでもできることではない。


それなのに、自分はそれをいくつも手にしていた。こちらの世界で、何も持たない生活を経験した今だからこそ、それがどれほど珍しいことだったのかが分かる。


「……出来すぎてたのかもな」


ある晩、段ボールの上で仰向けになりながら、恒一は呟いた。だが、すぐに小さく笑った。


「まあ、運が良かったんだろ」


それで片付けることにした。


確かに運は良かったのだろう。しかし、何もせずに手に入れたわけではない。仕事では人一倍努力してきたし、若い頃から勉強もしてきた。家族を守るためにも、仕事を疎かにしたことはなかった。だから、あの人生が恵まれていたとしても、それをすべて「作られた幸せ」などと考える必要はない。そう思っていた。


それでも、ときどき昔の記憶をたどっていると、妙なことに気づくことがあった。


美咲と初めて会った日のことを思い出していたときもそうだった。店の名前は覚えている。店の中の雰囲気も、そこで何を話したのかも覚えている。美咲がどんな服を着ていたのか、どんな表情で笑っていたのかまで、かなり細かく思い出せる。


ただ、その店が外からどんな建物に見えていたのかだけが、どうしても思い出せなかった。


「……あれ?」


一瞬だけ引っかかったが、恒一はすぐに考えるのをやめた。


何年も前のことなのだから、覚えていないことくらいあるだろう。店の中で過ごした時間のほうが印象に残っていた、それだけのことかもしれない。そう思えば、特に気にするようなことでもなかった。


それよりも、今は目の前の生活のほうが重要だった。明日、仕事があるか。食べるものをどうするか。そして、ORIONについて何か新しい情報が得られないか。


恒一は、再び帝王公園へ通い始めた。何度目になるのか分からない。公園の中を歩き、トイレに入り、管理用の施設を眺める。怪しまれないように、あくまで普通の利用者として振る舞いながら、少しずつ公園の構造を覚えていった。


ある日、恒一は公衆トイレの中で、清掃用具や備品が置かれている小さな扉に目を留めた。


「用具入れか……」


何の変哲もない扉だった。公園の管理に使う道具をしまっているだけなのだろう。鍵がかかっていることも珍しくない。


だが、その日から恒一は、そこを意識して見るようになった。


何度か訪れているうちに、気づいたことがあった。清掃員がその扉を開けることがあるのだ。もっとも、ほんの短い時間だった。道具を出し入れすると、すぐに閉めてしまう。恒一が近くにいるときには、必要以上に扉へ近づかないようにしているようにも見えた。


ある日の夕方、恒一は公衆トイレの外にあるベンチに座り、何気ない顔で人の流れを眺めていた。しばらくすると、清掃員がやってきた。男は周囲を確認し、用具入れの扉を開けた。中から何かを取り出し、すぐに扉を閉める。


その一瞬、恒一は見た。


扉の内側に、普通の用具入れには似つかわしくない機械が取り付けられていた。カードリーダーだった。


ほんの一瞬しか見えなかったが、見間違いではない。恒一は立ち上がりかけた身体を、ゆっくりとベンチへ戻した。


やはり、何かある。


それから数日間、恒一はさらに注意深く様子をうかがった。清掃員が来る時間、公園を利用する人の数、扉が開く頻度、そして誰がその場所に近づくのか。特別な変化はなかった。それでも、諦めることはできなかった。自分が帰るための手掛かりが、そこにあるかもしれない。


そんなある日の夕方だった。


公衆トイレの前を通りかかった恒一は、ふと足を止めた。用具入れの扉が、わずかに開いていた。ほんの数センチ、誰かが閉め忘れたように半開きになっている。


恒一は周囲を見回した。トイレを利用する人間はいる。しかし、こちらを気にしている者はいない。


胸の鼓動が少しだけ速くなった。


今まで何度も通った。何度も遠くから眺めた。そして今、その扉が開いている。


恒一はしばらく動けなかった。ここを開ければ、後戻りできなくなるかもしれない。それでも、これまで何も持たなかった自分にとって、ようやく見つけた手掛かりだった。


恒一はゆっくりと扉に近づいた。そして、誰も見ていないことを確認すると、その隙間へ手を伸ばした。


扉の向こうには、清掃用具はなかった。


そこにあったのは、下へ向かって続く階段だった。


恒一は息を呑んだ。薄暗い階段が、地下へ向かって伸びている。その先には何があるのか。ORIONが本当に存在するのか。そして、自分は元の世界へ帰ることができるのか。いくつもの考えが頭をよぎった。


恒一は一度だけ後ろを振り返った。


いつもと変わらない公衆トイレ。いつもと変わらない帝王公園。何も知らなかった頃と同じ景色だった。


だが、もう戻れない。


そう思いながら、恒一は小さく息を吐いた。これまで何日も、何も分からないままこの世界で生きてきた。その先にようやく見つけた入口なのだ。怖くないと言えば嘘になる。それでも、ここまで来た以上、確かめるしかなかった。


恒一は階段の一段目に足をかけた。


そして、薄暗い地下へ向かって、ゆっくりと降りていった。


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