第4章 ORION
# 第4章 ORION
朝になっても、恒一の身体は軒下の段ボールから起き上がろうとしなかった。背中が痛い。首も重い。昨夜は何度も目を覚ましたせいで、頭の奥には鈍い疲労が残っている。それでも、いつまでも横になっているわけにはいかなかった。ここで眠っていれば、食べるものを手に入れる機会を失う。恒一はゆっくりと身体を起こし、固まった肩を回した。
朝の街は、昨日までと変わらない顔をしていた。通勤する人々が駅へ向かい、店が開き、道路には車が流れている。コンビニの前では配送業者が荷物を降ろし、通学する学生たちが笑いながら歩いていた。誰もが自分の一日を始めている。その光景を見ていると、恒一もその中の一人だった頃のことが、妙に遠い昔の出来事のように思えた。
スーツを着て会社へ向かう人間を見るたびに、自分も少し前まではあちら側にいたのだと思う。総合商社の社員証を首から下げ、部下から報告を受け、取引先との打ち合わせに向かっていた。会議室では、自分の判断を待っている人間がいた。昼になれば何を食べるかを選ぶことができ、仕事が終われば家に帰ることができた。
今の恒一には、そのどれもない。
まずは食べるものを探した。昨日と同じようにゴミを漁ることだけは避けたかったが、金がない以上、選択肢は限られている。幸い、早朝の市場に近い場所で、荷物を運んでいる作業員たちを見かけた。恒一はしばらくその様子を眺めていた。トラックから荷物を降ろし、店ごとに仕分けている。作業員の動きは忙しいが、特別な資格を必要とする仕事には見えなかった。
恒一は意を決して、一人の男に声をかけた。
「すみません。何か手伝える仕事はありませんか」
男は怪訝そうに恒一を見た。服は汚れているものの、もともと作業員として働いていたような雰囲気ではない。恒一自身も、そのことは分かっていた。
「仕事?」
「はい。今日一日でも構いません。荷物運びでも何でもします」
男は恒一を上から下まで眺め、それから少し考えるように眉を寄せた。
「雇うなら事務所を通してもらわないと困るんだがな」
「そうですか」
断られると思ったが、男は完全には追い払わなかった。
「聞いてみたらどうだ。朝の仕分けなら、人手が足りないこともある」
顎で事務所の方を示しながら答えてくれた。恒一は礼を言い、教えられた建物へ向かった。
結局、その日は荷物の仕分けを手伝わせてもらうことができた。正式な雇用というわけではなく、あくまで一日だけの仕事だった。作業を終えると、わずかな金を手渡された。恒一はその金額を見て、一瞬だけ複雑な気持ちになった。
総合商社で働いていた頃なら、昼食代にもならないような金額だった。
しかし今は違う。
その金で、温かい食事が一度できる。
恒一は近くの食堂に入り、昨日とは違う気持ちでメニューを眺めた。値段を確認し、いちばん安い定食を注文する。料理が運ばれてくるまでの時間さえ、妙に長く感じた。
「いただきます」
小さく呟いてから箸を取る。
温かい飯を口に入れた瞬間、身体の奥から力が戻ってくるような気がした。味は決して特別なものではない。それでも、昨日ゴミ袋の中から拾った食べ物とは違う。人目を気にすることなく、店の中で堂々と食事をしている。そのことだけで、ほんの少しだけ人間らしい生活に戻れた気がした。
食べ終わると、恒一は残った金を確認した。
これでは今日の宿を取ることもできない。
だが、少なくとも一日分の食事は確保できた。
その後も、恒一は似たような仕事を探した。荷物の運搬、清掃、倉庫の整理、店の片付け。どれも短時間の仕事ばかりで、安定した収入にはならなかった。それでも、何もしないよりはましだった。
数日が過ぎた。
恒一は街の片隅で眠り、朝になると仕事を探した。仕事が見つかれば働き、得た金で食事をする。仕事がなければ、食堂の裏や店の廃棄物を探した。以前の生活を知る者が見れば、同じ人間だとは思わないだろう。
それでも、恒一は少しずつこの街のことを覚えていった。
どの通りなら仕事が見つかりやすいのか。どの店が閉店間際に食品を廃棄するのか。どこなら雨を避けて眠れるのか。誰に声をかければ嫌な顔をされにくいのか。
生きるために必要な情報は、少しずつ蓄積されていった。
そして、恒一はあることにも気づき始めていた。
この世界の社会構造は、自分の知っている世界と大きく変わらない。
金があれば選択肢が増える。身分があれば信用される。住所があれば仕事を探しやすい。人とのつながりがあれば、さらに多くの情報や機会が手に入る。
逆に、そのどれも持たない人間は、どれほど能力があっても社会の入口に立つことすら難しい。
恒一はそれを、かつて自分が仕事で何度も見てきた。
会社と会社の取引でも同じだった。どれだけ優れた商品を持っていても、信用のない企業とは簡単に契約できない。相手の財務状況、過去の実績、取引履歴、保証。そうした目に見えないものの積み重ねが、取引の土台になっている。
人間も同じなのだろう。
自分には、その土台がない。
恒一はその事実を認めざるを得なかった。
ある日の夕方、恒一は小さな食堂で遅い昼食を取っていた。数日間の仕事で得た金が少し残っていたので、今日は簡単な定食を注文した。店内には仕事帰りらしい客が数人いて、テレビからニュースが流れている。
恒一は箸を動かしながら、何気なくテレビを見た。
画面には、都市の中心部にある大きな公園が映っていた。
「帝王公園では、今週末から市民向けのイベントが予定されています。天候にもよりますが――」
恒一の箸が止まった。
映像の中には、広い芝生と並木道が映っている。公園の周囲には高層ビルが立ち並び、中央に位置するその場所だけが、大きく開けていた。
恒一はニュースを見ながら、以前街を歩いたときの記憶を思い出した。
確かに、街の中心に大きな公園があった。
ただ、その名前までは覚えていなかった。
「帝王公園、か……」
小さく呟く。
その名前が妙に引っかかった。
食事を終えて店を出ると、恒一はしばらく歩いた。日が沈みかけ、街には仕事帰りの人々が増えている。恒一は特に目的もなく歩いていたが、ふと、前方を歩く二人の男の会話が耳に入った。
「なあ、ORIONって本当にあると思うか?」
「またその話かよ」
「いや、だってさ。昨日の件、知ってたらしいぞ」
「誰が?」
「ORIONだよ」
恒一の足が止まりかけた。
しかし、二人の男はそのまま歩いていく。恒一は少し迷ったあと、距離を保ちながら後を追った。
「だから、あんなもの都市伝説だって。政府の情報システムか何かを、昔の人間が勝手にORIONって呼んでるだけだろ」
「でも、何でも知ってるって話だぞ」
「何でも知ってるなら、俺の財布がどこにあるか教えてほしいよ」
二人は笑った。
恒一はその場で立ち止まった。
ORION。
聞いたことのない名前だった。
それなのに、なぜかその言葉が頭から離れなかった。
その夜、恒一はいつもの軒下で眠る前に、スマートフォンの代わりになるような情報端末を持っていないことを改めて悔やんだ。街の情報を調べようとしても、自由に使える端末がない。図書館のような場所を探すことも考えたが、今の恒一には夜に入れる場所すら限られている。
翌日から、恒一はORIONについて人に聞くようになった。
ただし、いきなり「ORIONについて教えてくれ」と聞くのではない。そんなことをすれば、かえって怪しまれる。
食堂の店員にそれとなく聞く。
仕事仲間に聞く。
休憩中の作業員に聞く。
すると、不思議なことが分かってきた。
ORIONという名前を知っている人間は、思ったより多かった。
ただし、誰も実物を見たことがない。
「昔からある噂だよ」
「都市の中央にある巨大なコンピューターだってさ」
「いや、政府が裏で使ってるAIだって聞いたぞ」
「そもそもAIじゃなくて、ただの都市伝説だろ」
話す人によって内容が違う。
共通しているのは、ORIONがこの都市のあらゆる情報を知っているということだけだった。
人の行動。
企業の動き。
交通。
金融。
行政。
街で起きる出来事。
さらには、誰も知らないはずの個人情報まで把握しているという。
もちろん、どれも噂にすぎない。
恒一自身も、最初はそう思っていた。
しかし、ある話を聞いたときだけ、妙に心が引っかかった。
「帝王公園の下に、ORIONの本体があるって話もあるぞ」
それを教えてくれたのは、仕事先で知り合った年配の男だった。
男は仕事の合間に缶飲料を飲みながら、半ば冗談のように言った。
「公園の地下?」
「ああ。昔からそう言われてる。都市のど真ん中にあるだろ、帝王公園。あの下には、普通の人間は入れない巨大な施設があるってさ」
「誰か見たんですか?」
「さあな。見たっていう奴はいる。でも、そいつが本当のことを言ってるかなんて分からん」
男は笑った。
「ORIONなんて、所詮は噂だよ」
恒一は笑わなかった。
帝王公園。
都市の中央に位置する巨大な公園。
そして、その地下に存在すると噂される、何でも知っているAI。
普通なら、ただの都市伝説として聞き流すところだろう。
しかし、恒一には一つだけ、他の人間とは違う事情があった。
自分自身が、この世界のどこにも存在しない人間だった。
そして、元の世界へ帰る方法を探している。
もし、この世界のすべてを知っている存在が本当にいるのなら。
もし、その存在が自分のような「身元のない人間」についても知っているのなら。
もしかすると、そこには自分がここへ来た理由も記録されているかもしれない。
恒一はその夜、軒下に座りながら、遠くに見える街の明かりを眺めていた。
数日前までは、ただ生きることで精一杯だった。
食べるものを探し、眠る場所を探し、明日の仕事を探す。
それだけで一日が終わった。
だが、今は違う。
ほんのわずかだが、道が見えた気がした。
「ORION……」
恒一はその名前を口にした。
もし本当に存在するなら、聞いてみたいことがある。
ここはどこなのか。
なぜ自分はここにいるのか。
そして――自分は、どうすれば帰れるのか。
恒一は立ち上がった。
帝王公園は、この街の中央にある。
明日、そこへ行ってみよう。
それだけを決めると、恒一は再び段ボールの上へ横になった。
まだ帰る方法が見つかったわけではない。
ORIONが本当に存在するのかさえ分からない。
それでも、久しぶりに「明日」というものを少しだけ意識しながら、恒一は目を閉じた。




