第3章 空腹
## 第3章 空腹
腹が減っていた。
街を歩き始めてから、どれくらい時間が経ったのか、恒一には分からなかった。時計は持っていない。空を見上げても、この世界の一日が自分の知っている一日と同じ長さなのかさえ分からない。ただ、空腹だけは確かなものだった。胃のあたりが重く、歩くたびに身体の内側から力が抜けていくような感覚がある。
通りには飲食店がいくつも並んでいた。小さな食堂もあれば、ガラス張りの店もある。店先には料理の写真や値段が表示され、道路を歩く人々は当たり前のように店へ入り、食事を済ませて出てくる。街そのものは、ごく普通に機能しているように見えた。だからこそ、恒一は自分だけがそこから取り残されていることを強く感じていた。
財布がない。現金もない。カードもない。身分を証明できるものもない。事故に遭う直前まで、それらは確かに自分の手元にあったはずなのに、今は何一つ残っていなかった。
それでも、最初のうちは何とかなると思っていた。警察へ行けばいい。病院に行けば事故の記録が残っているかもしれない。自分の身元を確認してもらえれば、家族にも連絡できるはずだ。そう考えていたのだが、街を歩き回っているうちに、その考えにも自信がなくなってきた。
そもそも、ここがどこなのか分からない。自分がどこから来たのかさえ、他人に説明できない。東京から来たと言えばいいのかもしれないが、先ほどの男たちの反応を思い出すと、それが正しい答えなのかも分からなかった。
恒一は一軒の食堂の前で足を止めた。店内には十人ほどの客がいて、壁際のテレビからニュースらしき番組が流れている。聞こえてくる言葉は理解できた。客たちは料理を食べながら話をし、店員は忙しそうにテーブルを回っていた。特別に繁盛しているわけでもなければ、寂れているわけでもない。どこにでもありそうな、ごく普通の食堂だった。
その普通さに惹かれるように、恒一は扉を開けた。
「いらっしゃい」
店の奥から声がした。恒一は空いている席を探しながら店内へ入ったが、数歩進んだところで足を止めた。
「ご注文は?」
店員が声をかけてくる。恒一は答えようとして、口を閉じた。注文するものは決まっている。腹が減っているのだから、何か食べればいい。しかし、そのために必要なものを自分は持っていなかった。
「あの……」
恒一はポケットに手を入れた。何もないことは分かっている。それでも、もしかしたら何か出てくるのではないかという馬鹿げた期待をしてしまう。もちろん、指先に触れるものは何もなかった。
「どうされました?」
「……すみません。財布をなくしてしまって」
店員は少し困ったような顔をした。恒一の姿を見て、嘘をついていると疑っている様子ではない。ただ、本当に困っている客を前にして、どうすればいいのか分からないという表情だった。
「お金がないようでしたら、ちょっと……」
「分かっています。すみません」
恒一は頭を下げ、店を出た。
扉が閉まると、店内の話し声が遠くなった。その途端、腹が大きく鳴った。恒一は反射的に腹へ手を当て、思わず苦笑した。こんな状況でも身体だけは正直らしい。
「……参ったな」
仕事が忙しくて昼食を抜いたことは何度もある。帰宅が遅くなって、夜中に簡単なものを食べたこともあった。しかし、それとはまったく違う。今は「食べない」という選択をしているのではない。食べるものそのものがないのだ。
恒一は通りを眺めた。買い物袋を持った人、仕事帰りらしい会社員、子供の手を引いて歩く親子。誰もが自分の生活を続けている。その中にいるはずなのに、自分だけが生活するための手段を失っていた。
しばらく歩いていると、さっきとは別の小さな食堂が目に入った。表通りに面した店ではなく、建物の奥まったところにある古い店だった。客の出入りも少なく、店の脇には細い路地が伸びている。
その路地の先に、ゴミ置き場があった。
恒一は何気なくそちらへ目を向けた。大きな容器がいくつか置かれ、その横にゴミ袋が積まれている。そのうちの一つが完全には閉じられておらず、隙間から白い容器が覗いていた。
食べ物らしかった。
恒一は視線を逸らした。
そのまま通り過ぎる。
数歩歩いたところで、腹が鳴った。
足が止まった。
恒一はゆっくりと振り返った。路地の奥には、先ほどのゴミ袋がある。食べ残しなのだろう。いつ捨てられたものなのかも分からない。衛生的にどうなのかなど、考えるまでもない。
「……まさか」
自分でも呆れるような声が出た。
そんなものを食べるのか。
恒一はその場を離れようとした。しかし、何度歩き出そうとしても、足が前へ進まなかった。空腹は理屈を聞いてくれない。頭では駄目だと分かっているのに、身体は目の前にある食べ物から離れようとしなかった。
結局、恒一は路地へ戻った。
ゴミ置き場の前でしゃがみ込み、袋を見下ろす。周囲を見回した。人の姿はない。店の裏口から誰かが出てくる気配もない。自分が何をしようとしているのかを誰にも見られていないことを確認すると、恒一はためらいながら袋に手を伸ばした。
口を開く。
中にはいくつかの容器が入っていた。食べ残しの料理が入ったものもあれば、ほとんど手をつけられていないものもある。パンのようなものもあった。
恒一はしばらく動かなかった。
昨夜まで、自分は何をしていただろう。
会社から帰れば家があり、食卓には食事が用意されていた。腹が減れば、好きなものを買って食べることもできた。休日には家族と外食することもあった。それが当たり前だった。
その当たり前が、今はない。
恒一は一度目を閉じた。それから、まだ食べられそうなものを一つ取り出した。手に持ったまま、もう一度だけ周囲を確認する。
誰もいない。
「……いただきます」
声は小さかった。
それでも、そう言わずにはいられなかった。
一口食べる。
味がした。
次の瞬間、身体が勝手に動いた。二口、三口と口へ運ぶ。空腹のせいで味などほとんど分からない。それでも、食べられるものがあるというだけで、身体がそれを求めていた。
恒一は夢中になって食べた。食べ終わると、袋の中をもう一度探した。まだ食べられそうなものが見つかると、それにも手を伸ばした。羞恥心も、嫌悪感も、そのときだけは頭から消えていた。
ようやく手を止めたとき、恒一はゴミ置き場の脇にしゃがみ込んだまま、荒い息を吐いていた。
腹は十分に満たされたわけではない。それでも、先ほどまでの痛みは少し和らいでいた。
恒一は自分の手を見た。
汚れている。
その手を見つめているうちに、胸の奥に何かが込み上げてきた。
昨日まで、自分は何をしていただろう。
仕事を終えて家に帰った。美咲と食事をして、莉奈の話を聞いた。疲れていればソファに座り、明日の予定を考えた。それだけだった。
特別なことではないと思っていた。
だが、今になってみると、その「それだけ」がどれほど恵まれたものだったのかが分かる。
恒一は顔を伏せた。
「……帰りたい」
誰に聞かせるでもなく、言葉が漏れた。
妻のところへ帰りたい。娘のところへ帰りたい。自分の家へ帰りたい。
たったそれだけのことが、今の恒一には途方もなく遠い。
しばらく動けなかった。やがて、恒一はゆっくりと立ち上がった。膝についた汚れを手で払う。払ったところで、服の汚れが消えるわけではない。それでも、無意識に何度も手を動かしていた。
路地の向こうから、食堂の明かりが漏れている。窓越しに見える客たちは、何事もなかったように食事をしていた。笑い声も聞こえる。食事を終えれば、それぞれ自分の家へ帰るのだろう。
恒一はその光景をしばらく見つめていた。
自分には帰る場所がない。
その事実を、今になって初めて実感した。
街へ戻ると、夜の通りにはまだ人が行き交っていた。恒一は歩きながら、今夜どうするかを考えた。ホテルに泊まる金はない。知り合いもいない。誰かに頼ることもできない。
歩いているうちに、表通りから外れた細い道を見つけた。建物と建物の間を抜けるような裏通りで、人通りはほとんどない。少し進むと、古いビルの軒先に庇が張り出している場所があった。雨が降っても、ある程度は避けられそうだった。
恒一はそこで足を止めた。
「……ここなら」
周囲を見回す。人目につく場所ではあるが、今夜だけなら何とかなるだろう。警備員が巡回している様子もない。
近くに捨てられていた段ボールを何枚か拾い集めた。表面は汚れていたが、地面に直接横になるよりはましだった。恒一はそれを軒下の壁際に並べ、できるだけ平らになるように手で押さえた。
段ボールの上に腰を下ろす。
硬い。
自宅のベッドとは比べるまでもない。それでも、歩き疲れた身体には、その硬ささえありがたかった。
恒一は壁に背を預けた。
街の明かりが遠くで滲んでいる。車が通るたびに、道路から低い音が響いてくる。誰かの笑い声が聞こえ、しばらくすると、それも夜の向こうへ消えていった。
恒一は膝を抱えるようにして身体を丸めた。
今日一日で、あまりにも多くのことが起きた。
事故に遭った。
知らない場所で目を覚ました。
自分の身元も分からない。
金もない。
そして、食べるものさえなかった。
それでも、考えているうちに眠気が押し寄せてきた。疲労が限界まで溜まっていたのだろう。まぶたが重くなる。
恒一は最後に一度だけ、夜空を見上げた。
ここがどこなのかは分からない。
どうすれば帰れるのかも分からない。
それでも、帰りたかった。
その思いだけを胸の奥に残したまま、恒一は段ボールの上で目を閉じた。
冷たい夜の空気が、軒先をゆっくりと流れていった。




