第2章 暗黒の日々
# 第2章 暗黒の日々
最初に感じたのは、背中に伝わる冷たさだった。硬い地面に身体を横たえているらしい。背中からじわじわと冷気が染み込んでくる。その冷たさに促されるように、成瀬恒一は重いまぶたをゆっくりと開いた。視界に入ったのは、灰色の壁だった。見慣れない配管が壁面を這い、ところどころ錆びている。頭上には古びた建物の庇が張り出し、その隙間から薄暗い光が差し込んでいた。鼻を突くのは、湿ったゴミの臭いと、腐敗したものの甘ったるい臭い。それに、どこか油のような匂いが混じっている。
「……ここは……?」
自分の声が聞こえたことで、恒一はわずかに安心した。声は出る。喉にも異常はない。だが、その安心はすぐに別の疑問に押し流された。ここはどこだ。恒一は肘をつき、ゆっくりと身体を起こした。頭の奥が鈍く痛んだが、それ以外に大きな苦痛はない。腕を動かし、手を握り、足を伸ばしてみる。どこにも激しい痛みはなかった。
その瞬間、事故の記憶が鮮明に蘇った。道路を歩いていた。スマートフォンを見ていた。美咲から届いたメッセージを確認して、そろそろ帰らなければと思った。その直後、耳をつんざくようなブレーキ音が響いた。振り返った先にあったのは、目の前まで迫っていたトラックだった。逃げる暇などなかった。身体に凄まじい衝撃を受けたところで、記憶が途切れている。
「……そうだ。俺、轢かれたんだ」
呟きながら、恒一は自分の身体を見下ろした。着ていたシャツは泥で汚れ、ズボンの膝にも擦れた跡がある。しかし、それだけだった。出血している様子もなければ、骨が折れているような感覚もない。恐る恐る胸や腹を触ってみても、内臓に異常があるような痛みは感じられなかった。ゆっくり立ち上がってみる。多少ふらついたものの、問題なく立てた。
「……なんでだ?」
トラックにまともに轢かれたのなら、こんな程度で済むはずがない。そもそも、自分は助かったのだろうか。それなら、ここは病院なのか。だが、こんな場所に病院があるとは思えなかった。周囲には医療設備らしきものは何もなく、積み上げられたゴミや古い機械の部品が、狭い路地を埋めている。恒一は壁に手をつきながら、路地の先へ歩き始めた。足元には何かの金属部品や割れた容器が転がっていて、一歩進むたびに靴底がそれらを踏み、乾いた音を立てる。
数十メートルほど進むと、路地の向こうから車の走る音が聞こえてきた。人の話し声も混じっている。恒一は足を速めた。やがて建物の隙間から表通りが見え、路地を抜けたところで足を止めた。
そこに広がっていたのは、見慣れたようで、どこか見慣れない街だった。
道路には普通の乗用車やトラックが走っている。信号があり、横断歩道があり、歩道を人々が行き交っている。コンビニに似た店もあれば、飲食店やドラッグストアのような店もある。建物の高さも極端に違うわけではない。駅へ向かうらしい人々がスマートフォンを手に歩き、店先には料理の写真や商品の価格が表示されている。
少なくとも、文明そのものが大きく違っているようには見えなかった。
だが、細かく見ていくと、妙な違和感があった。
走っている車の形が、恒一の知っているものとは少し違う。道路沿いに並ぶ企業の看板にも見覚えがない。駅の名前らしき表示も、聞いたことのないものだった。スマートフォンを操作している人々の姿は見慣れたものなのに、その画面に表示されているサービス名には一つも馴染みがない。
まるで、自分の知っている世界を少しだけずらしたような街だった。
「……何なんだ、ここは」
思わず口からこぼれた言葉に、自分自身で戸惑った。
映画か何かの撮影ではないか。最初はそう考えようとした。しかし、頬を撫でる風の冷たさも、道路から伝わってくる微かな振動も、遠くから聞こえる人々の話し声も、あまりにも生々しい。夢ではない。少なくとも、そう思うしかなかった。
そこでようやく、恒一は自分のポケットに手を入れた。何もない。右のポケットも、左のポケットも空だった。財布がない。スマートフォンもない。家の鍵もない。事故に遭う直前まで確かに持っていたはずなのに、今は何一つ残っていなかった。
その事実が、急に心細さを現実のものにした。
「……参ったな」
苦笑しながら呟いたものの、笑っていられる状況ではない。まず警察を探すべきだろうか。それとも病院か。事故に遭ったことを伝えれば、身元を確認してもらえるかもしれない。そう考えて周囲を見回したとき、道路の向こう側にある大きな広告が目に入った。
何かの企業広告らしい。大きな文字とともに、一人の人物が映し出されている。だが、恒一が目を留めたのは人物ではなかった。画面の隅に表示されている企業名だった。
恒一は商社で働いていた。世界中の企業情報や市場動向に触れる仕事をしていたから、海外企業の名前にもかなり詳しいつもりだった。それなのに、その企業名にはまったく覚えがない。広告の隣に表示されている別の企業も知らない。駅の案内や道路標識を見ても、知っている地名が一つも見つからなかった。
ただ、表示されている文字そのものは読めた。意味も理解できる。言葉も通じるらしい。それなのに、知っている企業も地名も店もない。
そのことが、かえって不気味だった。
「……日本じゃない?」
その可能性を考えた途端、背筋が冷たくなった。
海外に来た記憶などない。そもそも事故に遭う直前まで東京にいたはずだ。それなのに、目の前にある街には、自分が知っている東京を示すものが何一つ見当たらない。
恒一はしばらく黙って街を眺めていたが、考え込んでいるうちに背後から低い声が飛んできた。
「おい。そこで何してる」
振り返ると、路地の入口に二人の男が立っていた。一人は四十代くらい、もう一人はまだ二十代に見える。二人とも粗末な服を着ており、こちらを警戒するような目で見ていた。特に年上の男は、恒一の服装を上から下まで値踏みするように眺めている。
恒一は敵意がないことを示すように、両手を軽く上げた。
「すみません。少し聞きたいんですが、ここがどこなのか分かりますか?」
男は怪訝そうに眉を寄せた。恒一の質問そのものが理解できないというより、なぜそんなことを尋ねるのか分からない、といった表情だった。
「ここ?」
「はい。この場所です」
恒一が周囲を見回しながら尋ねると、男は一瞬ぽかんとした顔をした。それから隣の若い男と視線を交わし、困ったように肩をすくめる。
「中央区だよ。そんなことも分からないのか?」
「中央区……」
その言葉を頭の中で反芻する。東京にも中央区はある。だが、目の前の景色はどう考えても自分の知っている東京ではない。
「東京の中央区、ですか?」
そう尋ねた瞬間、二人の男の表情が変わった。若い男が怪訝そうに首を傾げ、年上の男はしばらく恒一を見つめたあと、ゆっくりと口を開いた。
「……東京?」
「はい」
「お前、記憶でも飛んでるのか?」
男の声から、先ほどまでの警戒とは別の戸惑いが滲んだ。恒一は答えに詰まった。自分でも、どう説明すればいいのか分からない。
「そうかもしれません。事故に遭ったばかりで……」
「事故?」
「トラックに轢かれて……」
そこまで言ったところで、男は恒一の身体を改めて眺めた。汚れた服、傷の少ない身体。その視線には、どうにも腑に落ちないという色が浮かんでいる。
「トラックに轢かれて、その程度か?」
「俺にも分かりません」
恒一が正直に答えると、男はしばらく黙っていた。やがて、ふと何かを思い出したように尋ねる。
「身分証は?」
「ありません」
「スマートフォンは?」
「……ありません」
「金は?」
恒一は答えず、自分の空になったポケットを叩いてみせた。
男は呆れたように息を吐いた。「お前、何も持ってないのかよ」とでも言いたげな顔だったが、実際には何も言わなかった。ただ、少しだけ視線を逸らし、困ったように頭を掻いた。
恒一はその仕草を見ながら、この世界でも身分証やスマートフォン、金が生活に必要なのは自分の知っている社会と変わらないらしいことを覚えておいた。
「だったら、あっちへ行け。ここで突っ立ってても仕方ない」
「どこへ行けばいいんですか?」
「知らねえよ」
男はそう言うと、若い男を促して歩き始めた。数歩進んだところで、若い男が振り返った。
「……お前、どこから来たんだ?」
恒一はその質問に答えられなかった。自分自身が、もうその答えに確信を持てなくなっていたからだ。東京から来たと言えばいいのか。それとも、そもそも自分が知っている東京と、この世界の「東京」が同じものなのか。何一つ分からない。
若い男はしばらく待ったが、返事がないのを見ると、何も言わずに立ち去った。
二人の姿が人混みの向こうへ消えていくと、恒一はその場に一人残された。街の騒音が急に大きく感じられた。車の走行音、人々の話し声、遠くで鳴る信号音。そのすべてが、自分の知っている世界と微妙に違っている。
恒一は空を見上げた。灰色の雲が広がっている。高い建物の間を風が抜け、その向こうには自分の知らない街並みが続いていた。
言葉は通じる。文字も読める。車も走っている。店もある。人々はスマートフォンを使い、食事をし、仕事へ向かっている。
なのに、自分の知っている場所ではない。
事故の直前を思い出そうとすると、最初に浮かんだのは美咲の顔だった。スマートフォンに届いたメッセージ。帰ったら、娘と夕食を食べるはずだった。家に帰れば、美咲がいる。莉奈もいる。いつもの部屋があって、いつもの生活が待っている。
そこまで考えたところで、胸の奥が強く締め付けられた。
「……帰らないと」
小さな声だった。周囲の雑音に紛れて、自分自身にしか聞こえないほどの声。それでも恒一は、その言葉をもう一度心の中で繰り返した。
帰らなければならない。
ここがどこであろうと、何が起きたのであろうと、美咲と莉奈のところへ戻らなければならない。そのためには、この世界が何なのかを知らなければならない。
恒一は再び街を見渡した。さっきまでなら、ただ異様な光景としか思えなかった。しかし、商社で長年働いてきた彼の目は、少しずつ別のものを拾い始めていた。人々の服装には一定の傾向がある。道路を走る車両にも規則性がある。広告には企業名だけでなく、商品価格らしき数字が表示されている。店の前には人が集まり、荷物を積んだ車両が出入りしている。
つまり、ここにも経済がある。
人間が生活し、物が動き、金が動き、企業が存在している。ならば、そこには必ず仕組みがある。恒一は昔、仕事で初めて訪れた国の空港に降り立ったときのことを思い出した。言葉も習慣も違う場所であっても、人が暮らしている限り、そこには必ず社会の構造がある。誰が何を作り、誰がそれを必要とし、誰がその間をつないでいるのか。それを見れば、その国の仕組みは少しずつ見えてくる。
今度も同じだ。
ただし、今回は自分自身が何も持っていない。
金も、身分も、人脈もない。そして、この世界についての知識すらない。
恒一は一度だけ目を閉じた。不安がないわけではない。むしろ、怖かった。妻も娘もいない。自分がどこにいるのかも分からない。明日の食事さえどうなるのか分からない。それでも、いつまでも立ち尽くしているわけにはいかなかった。
目を開ける。
その視線の先には、見知らぬ街が広がっている。
「まずは、飯。それから寝る場所だな」
恒一はそう呟いて歩き出した。
元の世界では、会社の経営会議で何十億円という数字を動かしていた。世界中の企業と交渉し、商品の流れを読み、事業の将来性を判断してきた。だが今の彼に必要なのは、そんな大きな仕事ではない。今日を生きるための食事。雨をしのげる場所。そして、この世界がどこなのかを知ること。
それだけだった。
成瀬恒一の新たな生活は、そんな小さなところから始まった。




