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水槽の世界  作者: ほげお
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第1章 輝く日々

# 第1章 輝く日々


 仕事を終えた成瀬恒一は、都心の高層ビル群を抜け、自宅へ向かっていた。


 四十二歳。総合商社に勤める恒一は、社内でもそれなりの立場にあり、責任のある仕事を任されている。海外との取引も多く、出張で家を空けることもあるが、その分、収入には恵まれていた。


 住まいは都心のタワーマンションの三十八階。家族三人で暮らすには十分な広さがあり、リビングには気に入って選んだ家具が並んでいる。家電も必要になれば無理なく買い替えられる程度には余裕があり、休みが合えば家族で旅行に出かけることもあった。


 決して派手な暮らしをしているつもりはない。ただ、欲しいものを買うかどうかで毎回迷うような生活でもなかった。


 エントランスを抜け、エレベーターに乗る。静かな箱の中で上昇していく階数表示を眺めながら、恒一はスマートフォンを取り出した。


 妻の美咲からメッセージが届いていた。


『今日は少し早いね。夕飯、もうすぐできるよ』


『了解。あと少しで帰る』


 そう返信して、スマートフォンをポケットにしまう。


 仕事では一日中、取引先や部下とのやり取りに追われている。海外との電話会議や資料の確認が続く日も珍しくない。そんな一日の終わりに、家族から届く何気ないメッセージを見ると、不思議と肩の力が抜けた。


 エレベーターが三十八階に到着する。


 玄関のドアを開けると、すぐにリビングから声が飛んできた。


「お父さん、おかえり!」


 中学一年生になった娘の莉奈だった。ソファに座っていた莉奈が顔を上げ、スマートフォンを置いてこちらを見る。


「ただいま。まだ起きてたのか?」


「今日は早いじゃん。いつもなら、もうちょっと遅いでしょ」


「今日は仕事が早く終わったんだよ」


「へえ。珍しい」


 莉奈がにやりと笑う。


「その言い方、なんか引っかかるな」


「だって本当のことだもん」


 そこへ、キッチンから美咲が顔を出した。三十九歳になった今も、家の中ではいつも穏やかな笑顔を見せている。


「おかえりなさい。今日は本当に早かったのね」


「たまには定時で帰らないとな」


「その台詞、前にも聞いた気がするけど」


 美咲がそう言うと、莉奈がすぐに頷いた。


「私も聞いた」


「お前まで乗るなよ」


 恒一が苦笑すると、二人が顔を見合わせて笑った。


「まあ、今日はちゃんと早く帰ってきたんだからいいじゃない」


 美咲がそう言って、キッチンへ戻っていく。


「そういうことにしておくよ」


 恒一はネクタイを緩めながら、洗面所へ向かった。


 ほどなくして、三人で食卓を囲んだ。


 食卓には、恒一の好物がいくつか並んでいた。仕事が忙しいときには、帰宅してから食事をする時間さえ惜しく感じることがある。それでも、家に帰って美咲の作った料理を食べると、ようやく一日が終わったような気がした。


「これ、うまいな」


 恒一が箸を進めながら言うと、美咲が嬉しそうに笑った。


「ほんと? 今日はちょっと頑張ったの」


「何かあったのか?」


「何もないわよ。あなたが最近忙しそうだったから」


「そうか。ありがとう」


 恒一が素直に礼を言うと、美咲は少し照れたように視線を料理へ戻した。


 向かいでは、莉奈が黙々と食事をしている。


「莉奈、今日は学校どうだった?」


 恒一が尋ねると、莉奈は箸を止めて顔を上げた。


「普通」


「普通か」


「うん。あ、でも今日、数学の先生が面白かった」


「また何かやったの?」


 美咲が聞くと、莉奈は楽しそうに笑った。


「授業中に黒板に問題を書いて、そのあと自分で答え間違えてた」


「先生が?」


 恒一が驚くと、莉奈は大きく頷いた。


「そう。しかも、しばらく気づかなかったの」


「それは大丈夫なのか?」


「大丈夫じゃないから面白いんじゃん」


 莉奈が笑う。


「先生、あとで気づいたの?」


「うん。『あれ?』って言って、もう一回計算してた」


 美咲も吹き出した。


「それはちょっと恥ずかしいわね」


「先生も人間だからな」


 恒一が笑うと、莉奈は少し考えるような顔をした。


「お父さんも仕事で間違えることある?」


「あるよ」


「え、あるんだ」


「そりゃあるだろ。間違えたら、そのあと直す」


「ふーん」


「なんだ、その反応は」


「お父さんって、何でもできると思ってた」


 莉奈の言葉に、恒一は一瞬きょとんとした。


「何でもできるわけないだろ」


「でも、家では何でも知ってるじゃん」


「それは……お父さんだからだ」


「ずるい答え」


 莉奈が笑い、美咲も肩を揺らして笑った。


「でも、莉奈。お父さんだって知らないことはいっぱいあるのよ」


 美咲がそう言うと、恒一は苦笑した。


「余計なこと言うなよ」


「本当のことでしょ」


「まあ、そうだけど」


 三人の笑い声が、静かなリビングに広がった。


 仕事の話をすれば、責任もあれば、気を遣う相手も多い。決して楽な毎日ではない。それでも、こうして家に帰れば、仕事とは関係のない話をして笑える。


 恒一にとっては、それが何より心地よかった。


 食事を終えると、莉奈がリビングの水槽の前にしゃがみ込んだ。照明に照らされた水の中を、色鮮やかな観賞魚たちがゆっくりと泳いでいる。


 恒一も水槽の前へ歩いていった。


 大きめの水槽には、魚だけでなく水草や流木も配置されている。休日に店へ足を運び、気に入った魚を選んだり、水槽の手入れに必要なものを買い足したりしているうちに、いつの間にか恒一の小さな趣味になっていた。


「この魚、前より大きくなってない?」


 莉奈が水槽の奥を泳ぐ魚を指差した。


「そうか?」


 恒一も目を凝らす。


「うん。前はもっと小さかった気がする」


「確かに、少し大きくなったかもしれないな」


「やっぱり?」


「ああ。ちゃんと餌を食べてるからじゃないか」


「じゃあ、もっとあげたら、もっと大きくなる?」


「それはやりすぎると駄目だ」


「なんで?」


「人間と同じだ。食べれば食べるほど大きくなるわけじゃない」


「お父さんも?」


「俺はもう成長期じゃない」


 恒一が答えると、莉奈が声を上げて笑った。


「じゃあ、お父さんに餌をいっぱいあげても意味ないね」


「誰が魚だ」


 後ろから美咲が笑いながら口を挟んだ。


「二人とも、何やってるの?」


「お父さんを魚にしてた」


「莉奈、それはかわいそうよ」


「そうかな」


 莉奈は楽しそうに笑いながら、もう一度水槽を覗き込んだ。


 しばらくして、青い体をした大きな魚が水槽の奥からゆっくりと姿を現した。


「ねえ、お父さん。この魚って、あの中をずっと回っていて、退屈じゃないのかな?」


 莉奈の問いに、恒一は魚の動きを目で追いながら考えた。


「どうだろうな。魚じゃないから分からない」


「じゃあ、魚に聞いてみたら?」


「聞いて分かるなら苦労しないだろ」


 恒一が笑うと、美咲が後ろから水槽を覗き込んだ。


「魚に聞いてみないとわからないわよ」


「ほら、お母さんも言ってる」


 莉奈が嬉しそうに言う。


「いや、それは答えになってないだろ」


「でも、本当にそうじゃない?」


 美咲が笑った。


「魚がどう思ってるかなんて、魚にしか分からないもの」


「まあ、それはそうだな」


 恒一も笑いながら、水槽の中を泳ぐ魚を見つめた。


 それは、どこにでもあるような何気ない会話だった。


 夜が更けると、莉奈は自分の部屋へ戻っていった。恒一も寝室へ入り、明日の予定を確認してからスマートフォンを置いた。


「明日も早いんでしょ?」


 ベッドの中で美咲が尋ねた。


「ああ。午前中に会議が一つある」


「じゃあ、早く寝ないとね」


「そうだな」


 恒一が照明を落とすと、部屋が静かになった。


「そういえば」


 暗闇の中で、美咲がふと思い出したように言った。


「今度の休み、どこか行く?」


「急だな」


「最近、どこにも行ってないでしょう」


 恒一は少し考えた。


「莉奈に聞いてみるか。行きたいところがあるかもしれないし」


「そうね」


「俺はどこでもいいよ」


「それ、毎回言うけど、本当にどこでもいいの?」


「家族が行きたいところなら」


 美咲が小さく笑った。


「じゃあ、考えておく」


「ああ」


 恒一は目を閉じた。


 明日も仕事がある。会議があり、いくつか判断しなければならない案件もある。忙しい一日になるだろう。


 それでも、帰れば家族がいる。


 それだけで十分だった。


 翌朝、恒一はいつものように身支度を整えた。仕立てのいいスーツに袖を通し、鏡の前でネクタイを締める。玄関には仕事用の革靴が何足か並んでいたが、その中からいつもの一足を選んだ。


「いってらっしゃい」


 玄関まで見送りに来た美咲が言った。


「いってきます」


 その後ろから、莉奈も顔を出す。


「お父さん、今日も遅い?」


「できれば早く帰るよ」


「昨日もそう言ってた」


「昨日は早かっただろ」


「たまたまでしょ」


「厳しいな、お前」


 恒一が笑うと、莉奈も笑った。


「じゃあ、いってらっしゃい」


「行ってくる」


 美咲と莉奈に手を振り、恒一は家を出た。


 いつもの一日が始まった。


 仕事は忙しかったが、特に変わったことはなかった。取引先との打ち合わせを終え、社内で部下から報告を受け、いくつかの案件に判断を下す。恒一にとっては、これまで何度も繰り返してきた仕事の一日だった。


 遅い時間になり、ようやく会社を出る。


 スマートフォンを見ると、美咲からメッセージが届いていた。


『今日は莉奈が先に寝るみたい。気をつけて帰ってきてね』


 恒一は歩きながら、そのメッセージに目を通した。


『了解。もうすぐ帰る』


 そう返信した直後だった。


 交差点に差しかかった恒一の前方から、突然、激しいクラクションが響いた。


 顔を上げる。


 次の瞬間、車が目の前に迫っていた。


 避けようとしたが、間に合わなかった。


 強い衝撃。


 身体が宙に浮き、地面へ叩きつけられる。


 何が起きたのか理解できないまま、視界が大きく揺れた。


「……美咲……」


 手を動かそうとした。


 まだスマートフォンを握っている。


 帰らなければならない。


 美咲と莉奈が待っている。


 そう思った瞬間、視界が暗くなった。


 そのまま、恒一の意識は深い闇の中へと沈んでいった。


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