第7章 帰る場所
# 第7章 帰る場所
最初に感じたのは、懐かしさだった。
目を開けると、見慣れた天井があった。白い壁、柔らかな照明、窓から差し込む朝の光。どれも事故に遭う前まで暮らしていた家と何も変わらない。恒一はしばらく天井を見つめたまま、自分がどこにいるのかを確かめるように静かに息をした。身体を起こすと、ベッドの脇に置かれた時計が目に入った。表示されている時刻も、いつもと変わらなかった。
夢だったのだろうか。
地下施設も、ORIONも、見知らぬ街で過ごした日々も、すべて長い悪夢だったのではないか。そんな考えが一瞬だけ浮かんだ。だが、すぐに否定した。あまりにも鮮明だった。空腹に耐えた日々も、段ボールの上で眠った夜も、地下へ続く長い階段も、機械音の響く空間も、すべて身体の奥に残っている。
そして何より、ORIONの最後の言葉が残っていた。
「本質的には何も変わらないんだけどね」
恒一はベッドから降り、寝室の外へ出た。すると、キッチンから食器が触れ合う音が聞こえてきた。その向こうから、美咲の声がする。
「恒一、起きた?」
「ああ」
その声を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
美咲がキッチンから顔を出した。いつもの部屋着姿で、髪を軽くまとめている。
「今日はずいぶん早いじゃない。昨日、疲れてたんじゃなかった?」
「ちょっと目が覚めたんだ」
「コーヒー飲む?」
「頼む」
「じゃあ、ちょうどよかった」
そう言って、美咲はキッチンへ戻っていった。それだけのやり取りだった。それなのに、恒一にはたまらなく懐かしかった。
ほどなくして、莉奈が眠そうな顔でリビングへ入ってきた。
「お父さん、もう起きてるの?」
「今日はな」
「珍しい」
「お前まで言うのか」
莉奈が笑い、美咲が三人分の朝食を並べる。
「莉奈、今日部活は?」
「ある。終わるの、ちょっと遅くなるかも」
「じゃあ、帰りに連絡してね」
「分かってるって」
いつもの朝だった。莉奈が学校の話をして、美咲がそれを聞きながら時々口を挟む。恒一も相槌を打ちながら、三人で朝食を食べる。事故に遭う前なら、何も気に留めなかった光景だった。
けれど今は違う。恒一は、向かいに座る美咲と莉奈の顔を何度も見た。ようやく帰ってきたのだという実感が、胸の中に静かに広がっていった。
二人を送り出したあと、恒一は一人でリビングに残った。窓の外には、見慣れた東京の街が広がっている。
だが、この世界がシミュレーションであることを、恒一はもう知っていた。
ORIONの説明だけなら、まだ疑う余地はあった。だが、あの喫茶店の記憶を目の前で書き換えられたことで、信じざるを得なくなった。自分が生きてきたこの世界は、向こうの世界に存在するORIONによって作られたものだった。
では、向こうの世界は本当に「現実」なのだろうか。
恒一はソファに腰を下ろし、静かに考えた。向こうの世界にはORIONがいた。こちらの世界を作った存在が、向こうの世界にいたのだ。ならば、向こうの世界を作った存在がいても不思議ではない。
そう考えた瞬間、ORIONの最後の言葉が蘇った。
「本質的には何も変わらないんだけどね」
あの言葉は、もしかするとそういう意味だったのではないか。
この世界がシミュレーションなら、向こうの世界もまた、さらに上位の世界から見ればシミュレーションなのかもしれない。そのさらに上位の世界が存在するのかどうかは分からないし、確かめる方法もない。
ただ、恒一には一つだけ分かったことがあった。この世界がシミュレーションだと知っても、自分はここへ帰りたいと思ったのだ。それなら、世界が本物かどうかということに、いったいどれほどの意味があるのだろう。
恒一は立ち上がり、リビングの奥へ目を向けた。そこには水槽があり、中では大きな観賞魚がゆっくりと泳いでいる。その姿を見た瞬間、以前、家族で交わした会話が蘇った。
「この魚って、あの中をずっと回っていて、退屈じゃないのかな?」
そう尋ねた莉奈に、美咲は笑いながら言った。
「魚に聞いてみないとわからないわよ」
あのときは、何気ない会話だった。
けれど今は、その言葉が妙に心に引っかかった。
水槽の中で生きている観賞魚にとって、水槽の外側にある世界がどんなものなのかは分からない。自分がいる場所が誰かによって作られたものなのか、それとも自然に存在するものなのか、それを知ることもできない。それでも、魚にとって水の中で過ごす時間は現実なのだろう。
恒一は水槽の前に立った。
「……俺たちも、同じなのかもしれないな」
魚は何も答えない。ただ、いつものように水の中を泳いでいる。
恒一は小さく笑った。この世界がどこまで続いているのかは分からない。向こうの世界のさらに上に、別の世界があるのかもしれない。だが、もうそれを確かめたいとは思わなかった。自分にとって大切なのは、どの世界が本物なのかではない。美咲と莉奈がいて、自分もここにいる。それだけだった。
その日の夕方、美咲が帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり」
「今日はずっと家にいたの?」
「ああ」
「珍しいわね」
美咲が笑いながら荷物を置く。
「何かあった?」
「何もないよ」
「本当に?」
「本当に。ただ……家にいたかったんだ」
美咲は少しだけ不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
「じゃあ、夕飯できるまでゆっくりしてて」
「ああ」
しばらくして、莉奈も帰ってきた。
「ただいまー」
「おかえり」
「お父さん、今日なんか変じゃない?」
「そうか?」
「うん。なんか嬉しそう」
恒一は思わず笑った。
「そう見えるか?」
「見える」
「まあ、そうかもしれないな」
「何かいいことあったの?」
「秘密だ」
「何それ」
莉奈が笑い、美咲も横で笑った。
夕食の席では、莉奈が学校であったことを話していた。友達の話や授業の話を聞きながら、恒一は何度も頷いた。以前なら、仕事のことを考えながら聞き流していたかもしれない話だった。
今は、その一つ一つを覚えておきたいと思った。
夜になり、家族がそれぞれの部屋へ戻ったあと、恒一は一人でリビングに残った。水槽の中では、魚が静かに泳いでいる。恒一はしばらくその姿を眺めたあと、水槽の横に置かれた餌に手を伸ばした。蓋を開け、少量を水面へ落とすと、魚たちが餌に気づき、ゆっくりと集まってくる。その様子を眺めながら、恒一は小さく笑った。
「……今日は、少し多めにやるか」
もう一度、餌を落とす。水面に小さな波紋が広がった。
魚たちは何も知らない。自分たちがどこにいるのかも、その外側に何があるのかも知らない。それでも、今日も水の中を泳いでいる。恒一は静かにその姿を見つめながら、家の奥から聞こえてくる家族の気配に耳を澄ませた。
ここがどんな世界なのかは、もうどうでもよかった。帰る場所は、ここにある。
恒一はしばらく水槽の前に立っていた。やがて、静かに明かりを消す。水槽の中で、魚だけが小さな光を受けながら泳ぎ続けていた。
<物語完結>




