絶筆断片 編纂者による序文
これから写すものについて、先に断っておかねばならないことが、いくつかある。
二百年前、『淵睨録』と題する一書があった。世界の底に溜まるものについて論じた書であったという。刊行ののち三年を経ずして異端の指定を受け、在るだけの版が集められて焼かれた。私はこの書を読んだことがない。探して三十年になるが、一頁も見つかっていない。機構の焼き仕事は、いつも丁寧である。
ここに写すのは、だからその『淵睨録』ではない。あの書の著者が、焼かれたのちも書くことをやめず、誰にも見せぬまま自室に積み上げていった紙の山、その残りである。
出所を書く。著者は晩年、王都を離れ、ロムの谷の古い塔にひとりで住んでいた。谷の者は名を呼ばず、塔の先生とだけ呼んでいたそうである。身の回りの世話は麓の婆やがしており、先生がいなくなったあと、部屋に残された紙の束は、婆やが櫃に納めて持ち帰った。焼くべきだと分かっていたが、どうしても焼けなかった、と婆やは孫に語ったという。櫃は開けられぬまま二代を下り、粉屋に嫁いだ孫娘の納屋で、私はこれを譲り受けた。孫娘は、櫃が家からなくなることを、あからさまに喜んだ。
著者の名は、伏せる。谷にはいまも婆やの血筋が暮らしており、異端の指定は、いまだ解かれていないからである。知りたい方は、王国歴1455年前後の禁書の台帳を繰ればよい。機構の帳簿仕事は正確である。ただし、そこに載っているのは書の名だけで、著者の査問の記録は、どの封庫にもない。査問よりも先に、彼はいなくなったからである。
その最後のことも、聞いたままを書く。塔の窓は北に開いており、崖の下には、谷の者が底なしと呼びならわす淵がある。王国歴1455年、芽吹きの月のある朝、塔の戸は開いたままで、先生の姿は、それきり谷の誰も見ていない。淵のほとりで履物が見つかった、と言う者もあるが、確かめようはない。谷では、先生は淵に呑まれたのだと言い伝えている。私はこれ以上のことを知らないし、書かない。
紙の束は、年の順に三つに分けられた。最初のものは、王国歴1448年、まだ『淵睨録』が焼かれる前の、学者の手による覚え書きである。文字は端正で、論の運びは、私の知るどの原論の書にも劣らない。二番目は1453年、焼かれたあとのものである。文字が変わってくる。三番目は、紙ですらない。塔の部屋の、壁と床に書かれていたものを、私が自分の手で写した。あれから今日まで、あの部屋の戸を開けた者は、婆やの他にいなかったらしい。書かれたものは、そのまま残っていた。写し終えるまで三日かかった。三日とも、私は日のあるうちに山を下りた。
世の学者はこの断片を、病んだ頭の生んだ無意味として、一顧だにしないだろう。異端の書を書いて焼かれ、正気を失って果てた男の、譫言の山にすぎぬ、と。私も長らく、そう思おうとしてきた。だが、本当にそうだろうか。狂った男の書いたものが、なぜ年を追って読み返すたびに、辻褄が合っていくのか。無意味であるなら、なぜ機構は、いまもこの男の名を台帳から消さずにいるのか。
写すにあたっての決めごとを記す。誤字も、繰り返しも、意味の取れぬ言葉も、直さずにそのまま写す。判読しがたい箇所、墨の乱れた箇所は、その旨を私の注として添える。私の注は、それ以上のことを語らない。語る資格が、私にはない。
最後に、ひとつだけ、読む方に言っておきたい。
私はこの断片を、もう幾十度も読み返した。書かれていることは、おそらく、正気の沙汰ではない。ただ、読み返すようになってから、私は部屋の隅を見る癖がついた。灯りを、ひとつ余分に点すようになった。それだけのことである。それだけのことだが、書いておく。
ここで頁を閉じることを、勧める。閉じられるうちにである。
王国歴1651年 白霜の月
編者しるす
(編者の名前は当初書かれていたが、削り消されており判別不明)




