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第八話 私の人生を生きに。

 王都を発ったのは、翌日のまだ空が白み始める前だった。


 陛下からいただいた通行証と、各関所へ向けた書状は昨夜のうちに用意されていた。馬も、王家の厩舎から長距離移動に慣れたものを一頭貸していただいた。見事な栗毛で、足も節がしっかりしていてなんとも速そうだ。私などが乗るには少々勿体ないほどである。


 ありがたい。


 非常にありがたい。


 これなら、間に合うかもしれない。


 いや。


 絶対に間に合わせる。


 私は王都の門を抜け、まだ人影の少ない街道へ馬を走らせた。


 一度目にこの道を通った時、私は馬車の中にいた。


 もっと正確に言えば、護送用の馬車である。


 貴族としての身分も剥奪され、国への立ち入りも禁じられた。確実に追放されたことを確認するためか、国境の外へ出るまで王宮の兵士も同行していた。


 荷物は少なかった。


 衣類が数着。僅かな金。家族から渡された手紙。


 それから、今後どうやって生きていけばよいのかという、どうしようもない不安。


 あの時の私は、まだ若かった。


 自分では大人のつもりだったが、今思えば随分幼かったと思う。


 周りと比べて劣っていることが嫌だった。


 誰かより美しくないことが嫌だった。


 誰かより評価されないことが嫌だった。


 流行の服を買っても満足できず、珍しい装飾品を手に入れても、もっと良いものを持つ誰かを見つけて腹を立てた。


 自分が好きではなかったのだろう。


 だから、いつも腹を立てていた。


 何か上手くいかないたびに、誰かのせいにした。


 聖女様への嫌がらせだって。


 一度目の私は、確かに様々な茶会や行事の席で、聖女様の悪口を言い回った。


 クラリッサが怖がっていることにさえ気づかず。


 今にして思えば、周囲に特別扱いされている聖女様を気に入らないという感情を、友人を守るというもっともらしい理由へ置き換えていたのだと思う。


 その結果、追放された。


 当然といえば、当然だったのだろう。


 ただ、当時はそんなふうに思えるはずもなかった。


 国境を越えた直後など、ひたすら腹が立っていた。


 自分を舞台から追い出したすべてを呪った。


 王家にも。教会にも。聖女様にも。


 そして、自分にも。


 何で私だけ。何でこんなことに。


 そんなことばかり考えていた。


 けれど、国境の向こうでは、誰も私を知らなかった。


 悪役令嬢のお取り巻き。身分を剥奪された伯爵家の娘。聖女を害した令嬢。


 断罪された女。


 そんなものは、国を一つ越えれば、驚くほどどうでもいい肩書きだった。


 宿屋の主人は、金さえ払えば部屋を貸した。


 食堂の女将は、皿を運べば賃金をくれた。


 市場の商人は、計算が早ければ帳簿を任せた。


 私が何者だったのかなど、ほとんど誰も聞かなかった。


 最初はそれが惨めだった。


 自分がそれまで必死に守っていたものが、王都の外では何の価値もないと分かったからだ。


 しかし、しばらくすると。


 随分、楽になった。


 誰かと比べなくていい。外へ出る度にわざわざ飾らなくていい。


 失敗すれば自分で直す。お金が足りなければ働く。分からないことがあれば調べる。


 嫌な相手とは距離を置く。気の合う人間とは食事をする。


 それだけだった。


 何の物語もない。


 誰からも役割を与えられない。


 今思えば、あれが、私の人生が始まった瞬間だったのかもしれない。


 街道を走りながら、景色が少しずつ変わっていく。


 王都周辺の整えられた道から、田畑の間を抜ける道へ。


 やがて森が増え、丘陵を越え、三日目には国境へ着いた。


 王家の書状は恐ろしいほど効果を発揮した。


 本来なら身分確認と荷物の検査で相当な時間を取られる国境も、書状を見せると驚くほどあっさり通された。


「……権力とは便利ですね。」


 思わず呟く。


 一度目には、逆の意味で散々味わったものだ。


 だからこそ、使える時にはありがたく使わせてもらおう。


 国境を越えた。


 懐かしい国だった。


 もっとも、今の私はこの国へ初めて入ったことになっている。


 あの宿屋も。あの橋も。あの市場も。


 この時間の私には、まだ何の思い出もない。


 それでも、景色を見れば思い出す。


 この町で、私は最初の仕事を見つけた。


 帳簿の数字が合わず、雇い主と二晩徹夜した。


 この先の宿場では、初めて偽物の古銭を掴まされた。


 あれは腹が立った。


 あまりに腹が立ったので、その後、本物と偽物を見分けられるようになるまで調べた。


 その知識が、数十年後には古代貨幣の年代判定にまで役立つのだから、人生とは分からないものである。


 さらに南へ。


 川沿いの街道。


 あの橋は、記憶にあるものより古く見えた。


 そうか。今はまだ、架け替えられる前なのだ。


 一度目には、昔こんな姿だったことさえ知らなかった。


 当たり前だ。


 あの頃の私は、架け替えられた後の橋しか知らずに通っていたのだから。


 未来を知っているというのも、不思議なものだ。


 知っている景色と、知らない景色が混ざる。


 私は何度か宿を取り、馬を休ませながら進んだ。


 急いではいる。


 だが、馬を潰しては意味がない。


 食事も取る。水も飲む。眠る。


 一度目の若い私なら、焦るほど何かを削ろうとしたかもしれない。


 だが長く生きれば分かる。


 人間も馬も、壊れれば予定はもっと遅れる。


 急ぐ時ほど、休むべきところでは休む。


 その程度のことも、随分後になって覚えた。


 いや、正確には、覚えさせられた、という方が近いかもしれない。


 あの人は、私以上にその辺りが酷かったからだ。


 食事を忘れる。


 寝る場所を決めない。


 面白そうな遺跡を見つけると決めていた予定を全部捨てる。


 財布に金があると、何も考えず本と発掘道具へ使う。


 宿を予約すると言うから任せてみれば、日付を間違えている。


 地図は読めるようになったのに、それでも興味のあるものを見つけると平気で道を外れる。


 最初の頃は本気で思った。


 よく今まで生きてこられたものだ、と。


 そして、この男を放っておいたら、多分そのうち絶対に死ぬ、と。


 結局。


 死ななかった。


 少なくとも、私より先には。


 私は馬上で少しだけ笑った。


 一度目。


 彼と会ったのは、国外へ追放されてから二か月にも満たない頃だった。


 国境を越えた私は、最初に辿り着いた町で小さな商家の仕事を見つけた。帳簿の整理や在庫の確認なら、貴族令嬢として受けた教育でも十分役に立ったし、幸い住み込みで雇ってもらえたため、食べる場所と眠る場所にも困らなかった。


 そこで一か月ほど働き、当面の旅費ができた頃。


 私は、その町を出た。


 別に大した理由があったわけではない。ずっとその町にいるつもりもなかったし、どうせ国へ帰れないのなら、見たことのない土地を見てみようと思った。


 そんな程度の理由で旅に出た。


 だから、あの日。


 あの場所にいたこと自体、ほとんど偶然だった。


 小さな宿場町。


 街道が二つに分かれる場所。


 一方は大きな町へ。


 もう一方は山沿いの古い道へ続いている。


 そこからさらに外れた場所に、当時ほとんど調査されていなかった遺跡があった。


 私はそんなことなど知らなかった。


 ただ宿を探していただけだ。


 そこへ、一人の男が声をかけてきた。


 年齢は、私より幾つか上。


 背は高く、旅慣れているように見えた。


 腰には剣。肩には大きな荷物。


 服はそれなりに上等だったが、あちこち土埃で汚れていた。


 そして手には地図。


『すまない。少し聞きたいんだが。』


 そう言って、彼は地図をこちらへ見せた。


『この遺跡へ行きたいんだ。道は分かるか?』


 私は地図を見た。


 それから、彼が歩いてきた方向を見た。


 もう一度地図を見た。


『反対方向です。』


『……本当か?』


『はい。』


『おかしいな。』


『どこから来たんです?』


『あっち。』


『では、数時間ほど反対方向へ歩いていますね。』


『なるほど。』


 なるほど、ではない。


 あのまま歩いていれば、別の町に着いて、恐らく二度と遺跡へ辿り着けなかったかもしれない。


 しかし、彼のことだ。まあいいか、とまた次の遺跡を目指して旅を始めてしまうに決まっている。


 それくらいはもう予測できてしまう。


 しかし、それが最初だったのだ。


 その日は道だけ教えて別れた。


 翌日、なぜかまた会った。


 なんとか、あの後反対方向へ歩いて遺跡へは無事辿り着けたらしい。だが、遺跡へ入る許可が取れず、役所の前で困っていた。


 放っておけばよかった。他人だったのだから。


 なのに私は、彼の申請書を見た。


 酷かった。必要事項が半分抜けている。


 目的欄には、


『古いから。』


 と書かれていた。


 私は気付けばついつい声を掛けてしまっていた。


『何ですかこれは。』


『あ、昨日の。……これは、目的だな。』


『そういう意味ではありません。』


『だが、古いから見たい。』


『役所はあなたの情熱を聞いているのではありません。調査目的と期間と責任者を書けと言っているのです。』


『なるほど。』


 また、なるほど。


 私はその場で書き直させた。そうしたら許可が出た。


 彼は感動していた。


『君、すごいな。』


『……普通です。』


『一緒に来ないか?』


『絶対行きません。』


 行った。三日後には。


 自分でも何をしていたのだろうと思う。


 だが、面白かった。


 初めて入る遺跡。知らない文字。地中から出てくる、何百年も誰にも触れられていない器物。


 彼は、それらを見る時だけ本当に楽しそうだった。


 埃まみれ、服も土汚れでどろどろ。それなのに、瞳だけきらきらと宝物を見つけた少年のように輝いていた。


 彼は、地位も、名誉も、金も、ほとんど興味がなかった。


 ただ、自分の知らないものがそこにあることが嬉しい。


 全身でそう言っていた。


 私には理解できなかった。


 だから、興味を持った。


 それから、気づけば旅へ同行していた。


 彼が予定を立てないので、私が立てた。


 彼が金を使い過ぎるので、私が管理した。


 彼が発掘へ夢中になるので、宿と食事を確保した。


 彼が古い文字を読むので、私も覚えた。


 彼が書いた報告書が酷いので、私が整えた。


 彼が本を出すと言い出したので、出版社と交渉した。


 彼が次の遺跡へ行きたいと言う。私は日程を作る。


 その繰り返し。


 いつから好きだったのか、正直、分からない。


 最初はただ、放っておけなかった。


 その次は、一緒にいると退屈しなかった。


 その次には、彼がいない時間が落ち着かなくなった。


 そしてある日。


『結婚しないか。』


 と言われた。


 場所は、発掘現場だった。


 泥だらけだった。私も彼も。


『何で今です?』


『今思ったから。』


『せめて宿へ戻ってから言ってください。』


『駄目か?』


『そういう話はしていません。』


『では、いいのか?』


『一度帰って風呂に入ってから聞き直してください。』


 翌日。珍しく少しまともな服を着て、彼はもう一度言った。


 だから結婚した。


 大した話ではない。


 王子もいない。聖女もいない。神託もない。


 世界の命運も懸かっていない。


 ただ、二人の人間が一緒に暮らすことを決めただけだ。


 それから何十年も一緒にいた。


 子供が生まれた。


 さすがに乳幼児を連れての旅は難しく、しばらく一か所に住んだ。


 子供が少し大きくなると、また近場の遺跡へ出た。


 仕事をした。喧嘩もした。


 彼が勝手に大金を使って、私が三日口を利かなかったこともある。


 私が仕事を詰め込み過ぎて倒れ、今度は彼に叱られたこともある。


 子供が大きくなった。


 独立した。結婚した。孫が生まれた。


 その孫まで結婚して、曾孫を連れてきた。


 気づけば、私たちは老人になっていた。


 彼の髪は白くなった。私も同じだった。


 手には皺が増え、若い頃には簡単に登れた坂で息を切らすようになった。


 それでも、時々二人で旅をした。


 最後の数年は、さすがに遠くへは行けなかったが。


 十分だった。


 本当に。


 十分だった。


 私は満足して死んだ。


 あの日、寝台の周りには、子供たちがいた。


 孫も。曾孫も。


 そして彼も。


 随分老いた手で、私の手を握っていた。


『楽しかったな。』


 彼が言った。


『ええ。』


『またどこか行くか?』


『もう、無理でしょう。』


『……そうか。』


『でも。』


 私は、多分笑った。


『もし次があるなら、その時に。』


 そんな話をした。


 本気ではなかった。次があるなど、そんなこと、考えていなかった。


 ただ、あればいいな。


 その程度だった。


 そして目を閉じた。


 次に目を開けると。


 神がいた。


 あの時の話を思い出す。


『お願いしたいことがあります。』


 そう言われて、私は最初、断ろうと思った。


 一度生きたのだ。十分に、八十年以上。


 もう一度十代からやり直すなど、正直、面倒にも程がある。


 クラリッサ様たちを救ってほしいと言われた時には、心が動かなかったわけではない。


 一度目の私は、何もできなかった。


 クラリッサ様を救えなかった。


 マリエル様も。聖女様も。殿下も。ルシアン様も。


 もしやり直せるなら、助けたいとは思った。


 でも、それだけなら、私は迷っていたかもしれない。


 だから聞いた。


『いつへ戻るのです?』


 神が日付を答えた。


 その瞬間、私は計算した。


 あの夜会まで。聖女様が来るまで。クラリッサ様が動き出すまで。


 そして、あの日まで。


 ……間に合うかもしれない。


『引き受けます。』


 神は少し驚いていた。


『早いですね。』


『条件があります。』


『何でしょう。』


『世界を救った後、私は自由にして構いませんね。』


『もちろんです。』


 それだけ確認した。


 だから戻った。


 世界を救うため。皆を助けるため。


 そして、私自身が、もう一度、自分の人生を選ぶために。


 誰かに聞かれれば、随分、自分勝手な理由だと言われるかもしれない。


 構わない。人間など、その程度でいい。


 世界だけのために生きなくていい。


 誰かだけのために生きなくていい。


 自分のために生きることも。


 誰かを愛することも。


 同じ人生の中にあっていい。


 その日の夕方。


 ようやく、目的の宿場町が見えた。


 胸の奥が、妙に騒がしくなる。


 馬から降り、手綱を引いて町へ入る。


 覚えている。


 ほとんど変わっていない。


 いや、変わっていないのではない。


 一度目と今と、同じ日なのだから、変わっている筈がないのだ。


 宿屋、井戸、小さな食堂、街道脇の古い道標。


 その先、二本に分かれる道。一方は南の町へ、もう一方は山沿いへ。


 そして、あの場所。


 私は立ち止まった。


 いない。


 いや、大丈夫。まだ時間には少し早い。


 私は馬を宿へ預けた。荷物も置いた。


 それから、また分岐まで戻った。


 待つ。


 旅人が何人か通る。


 商人の荷馬車。農夫。若い夫婦。


 違う。


 日が少し傾く。


 まだ。


 私は手帳を開いた。


 日付は合っている。時間も。


 一度目の記憶が間違っていなければ、このくらいだった。


 いや、もう少し遅かったか。


 私は道標の周りを歩いた。


 落ち着かない。


 こんなことは、随分久しぶりだった。


 世界が滅びると言われても、神と話しても、クラリッサ様の死を思い出しても。


 ここまで心臓がうるさく鳴ることはなかった。


 もう一度、街道を見る。


 誰もいない。


 もし、今回は来なかったら。


 その可能性は、最初から分かっていた。


 私が過去へ戻った。それだけで世界の何かが少し変わったかもしれない。


 彼が一日早くこの町へ来ていたら。逆に一日遅れていたら。別の道を選んでいたら。


 そもそも、この時間でも同じように旅をしている保証などない。


 私は、一度目に出会ってからの彼しか知らない。


 それ以前にどこにいたのか。何をしていたのか。


 大まかな話は聞いた。


 だが、あの人の大まかな話ほど当てにならないものはない。


『北の方。』


 と言って、国三つ分離れていたこともある。


『しばらく。』


 と言って、二年だったこともある。


 一度目に出会った後なら、私が予定を管理した。


 宿の記録も、出版社との手紙も、調査許可も。


 だから探せる。


 でも、出会う前の彼は、この世界のどこにいるのか分からない。


 もし、今日を逃せば、半年、一年、三年、もっと。見つけられないかもしれない。


 もしかしたら。


 一生。


「……。」


 私は拳を握った。


 何を考えている。自分で言ったばかりではないか。


 未来など分からない。


 運命があるかも分からない。


 愛がそれを超えるかも分からない。


 それでも、信じて進めばいい。


 私はここへ来た。あとは、待つ。


 それだけだ。


 日が、もう少し傾いた。


 空が赤くなる。


 私は道標の脇に立ったまま、じっと街道の向こうを見ていた。


 そして、遠くに。


 一人。


 人影が見えた。


 旅装の男。大きな荷物。腰に剣。片手には、丸めた地図。


 私は、息を止めた。


 若い。


 当たり前だ。分かっていた。分かっていたはずなのに。


 あまりにも若い。


 最後に見た彼とは違う。


 髪はまだ濃い色をしている。背も真っ直ぐ。歩幅も大きい。杖もついていない。顔に皺もない。


 それでも、分かる。


 地図を見る時、少しだけ首を傾ける癖。


 道より先に、遠くの山を見るところ。


 荷物の紐が片方だけ緩んでいることに気づいていないところ。


 全部。全部。知っている。


 男がこちらへ近づいてくる。


 私を見た。


 当然、知らない顔を見る目だった。


 それでも私は、どうしようもなく嬉しかった。


 また、会えた。あなたに。


 笑おうとした。


 なのに、視界が滲んだ。


「……?」


 男が足を止める。


「大丈夫か?」


 その声は、若い。


 でも、同じ声。


 私は慌てて目元を拭った。


 駄目だ。何をしている。


 こんなところで突然泣いている女など、怪しいにも程がある。


「すみません。」


「いや。」


 男は困ったように私を見る。


「本当に大丈夫か?」


「はい。」


 大丈夫。本当に。


 こんなに大丈夫だったことは、多分一度目でも、今回でも、ない。


 男の手には地図がある。


 私は一瞬、それを見る。


 そして、思わず笑った。


 上下が逆だった。


 変わっていない。本当に。何も。


「……何か?」


「いいえ。」


 私は首を振る。


 一度目と同じ人生になるかは分からない。


 この人がまた私を好きになるかも分からない。


 結婚するか。


 子供が生まれるか。


 同じ場所へ旅をするか。


 同じように老いるか。


 何も、決まっていない。


 それでいい。


 むしろ、それがいい。


 一度目に夫だったからといって、今の彼に何かを求める権利など、私にはない。


 彼は彼だ。これから自分で選ぶ。


 私も、もう一度選ぶ。


 何度でも。


 未来が書かれていないなら、自分で書けばいい。


 いや、書く必要すらない。


 ーー生きればいい。


 私は涙を拭い、今度こそ、彼を見た。


 心から笑った。


「初めまして。」


 男が、少しだけ目を丸くする。


 私はもう一度、今度はゆっくりと言った。


「初めまして。あの、お名前は――」

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