第七話 神意は、証拠にならない。
それから二か月後。
王宮の一室は、本で埋まっていた。
「……よく集めましたね。」
「誰のせいだと思っているんですか。」
机の向こうで、ルシアンが死人のような顔をしている。
王宮保管庫から百五十三冊。大神殿から百三十一冊。王都内の修道院から五十八冊。さらに近郊の古い教会から、年代の異なる写本が三十五冊。
それだけではない。
神託を受けた者について記録した教会文書。
神託が下った当時の王家の記録。
歴代大司教の日誌。
地方教会や修道院に残されていた古い写し。
机だけでは到底足りず、床にも布を敷き、その上へ年代別に資料を並べている。
まさか本当にここまで集めてくるとは思わなかった。
「大変優秀な助手ですね。名探偵は感動しております。」
「ですから助手ではありません。」
「まだそんな戯言を言っているのですか。」
「どちらが戯言ですか。」
これだから細かすぎる男は。
「しかし、これだけの資料を二か月足らずで揃えるとは。さすが宰相の息子。」
「あんな顔で凄まれては、それは命がけにもなります。」
「どういう意味でしょうか。」
「やはり自覚がない。逆に恐ろしい。」
失礼な。
だが、私に時間がないのは事実だった。
手元の古い冊子を開いた。
薄茶色に変色した羊皮紙。ところどころ虫食いがあり、補修も繰り返されている。現在使われている文字とは形が違い、単語の綴りも古い。
古語だ。
ルシアンが横から覗き込んだ。
「読めるんですか。」
「ある程度は。」
「……何で?」
「必要に駆られまして。」
「……あなたは、伯爵令嬢ですよね?」
「人生、色々です。あって困る知識はそれほどありません。」
当然、最初から読めたわけではない。
一度目の人生で、古い墓所だの地下遺跡だの、地図にも残っていない廃都だのへ散々付き合わされた結果だ。
現地で碑文が読めない。
買った古地図が偽物か分からない。
発掘した文書の年代が判断できない。
最初はいちいち人へ頼んでいたが、頼んだ相手が正しいとも限らない。
結局、自分でも覚えた方が早かった。
人間、長く生きていれば、大抵のことはどうにかなる。
「これは、今から三百七十年ほど前です。」
「そんなに分かるものですか。」
「羊皮紙だけで正確な年代は分かりません。ただ、文字の形と製本法、それにこちら。」
私は巻末を指した。
小さな修道院印が押され、その横に書写した司祭の名前が残っている。
「この司祭について、別の記録がありました。三百六十二年前に亡くなっています。」
「……本当に何者なんですか、あなた。読む速さも異常ですし、整理や処理の仕方も、なんというか……業者みたいです。」
「さあ。実のところ、私にもよく分かりません。」
「……答えるつもりはないと。」
「いえ、つもりはありますが。今ではないだけです。」
ルシアンを追い払い、私は再び文章へ目を戻した。
もちろん、集まった三百冊以上の資料を、すべて一字一句読むつもりは初めからなかった。
まず年代を大きく分ける。
由来と所蔵先を確認する。
神告に該当する箇所を抜き出し、同年代の写本をいくつか照合する。
そのうえで、神告が下った当時の王家や教会側の記録を確認する。
必要なところだけを辿っていけば、全体の傾向は見えてくる。
そして、地道な作業を続けること二か月。一つ分かったことがあった。
私たちが普段、一括りに『聖典』と呼んでいるものは、最初から現在の形で存在していたわけではない。
最も古い部分には、この世界の成り立ちや神、人として守るべき戒め、死者への祈りなどが記されている。
それとは別に、後世になって何度も、
『神より新たな言葉が下った。』
として、記録が加えられていた。
それらは『神告』と呼ばれている。
神の声を直接聞くことのできる者が、ごく稀に生まれる。
教会ではその者を『聖告者』と呼び、その言葉を複数の聖職者が記録し、王家へも伝える。
後世の聖典は、それら歴代の神告をいくつも編纂したものだった。
「……古い定めの上に、その時々で新しい筋書きを足しているように見える。」
私は呟いた。
「そうみたいですね。」
ルシアンが答える。
最初は、誰かが後から都合よく文章を書き足したのではないかと疑った。
だが、違った。
三百年前の神告なら、王都の大神殿にも、遠く離れた地方修道院にも、ほぼ同じ内容の写本が残っている。
当時の国王の日誌にも、
『本日、神より新たなる御言葉を賜る。』
と記録されていた。
聖告者の名前も。
立ち会った者の名前も。
その後、王家と教会が何をしたかも。
人間による後世の捏造で説明する方が難しい。
少なくとも、その時代の人間たちは、本当に神から言葉が下ったものとして動いている。
問題は。
その内容だった。
「これを見てください。」
私は一冊をルシアンへ渡した。
四百年以上前のもの。
そこには、当時北方を荒らしていた魔王について記されている。
『聖なる乙女は勇者の傍らに立ち、共に黒き災厄を退けるべし。』
別の時代。
『勇者と聖女が契りを結びし時、聖剣は真の力を現し、魔の王を滅ぼすであろう。』
さらに百年ほど後。
『王統より生まれし勇者は、聖なる乙女と共に大いなる禍を封じる。』
また別の時代には。
『異界より賢き者が来たりし時、王家はこれを迎え、その知を民へ広めるべし。』
そして現在。
『異界より聖なる乙女が現れし時、次なる王はその手を取り、婚姻によって聖なる力を王統へ結ぶべし。』
私は五つの文書を横へ並べた。
「……大分節操がありませんね。」
「しかし、すべて神からのお告げ……なんですよね。」
「はい。お告げの内容を聖告者へ繰り返し確認する手続きも、その都度行われています。」
「それにしては、随分内容が支離滅裂ですね。」
「というより、なんというか。」
私は思わず口を噤んだ。
背中に嫌な寒気が走ったからだ。
「まるで、その時に思いついたことを、人間に実行させようとしているみたいだ。実験か、遊びか。」
古いものから順番に追えば追うほど、不思議だった。
神学として、一つの思想が少しずつ発展しているようには見えない。
ある時代には勇者と聖女。
ある時代には王家と勇者。
ある時代には異界から来た賢者。
その時代に必要となる人物と、その人物が何をするべきか。
妙に具体的なのである。
そして、その言葉が下った後。
人間は、言われた通りに動いていた。
勇者と聖女を行動させる。
結婚させる。
王家へ迎える。
異界人へ役職を与える。
その結果、後世の人間から見れば、
『神が予言した通りの出来事が起きた。』
ように見える。
私は、少し前に机へ並べた三枚の供述書を思い出した。
エステル。
ノア。
セシル。
「……同じだ。」
「何がです。」
「神託が未来を当てたのではなく、神託を聞いた人間が、その通りになるよう動いたのではありませんか。」
ルシアンが黙った。
「勇者と聖女が結婚すると神が言った。だから結婚させた。王家へ異界人を迎えろと言った。だから迎えた。その結果を何百年後の人間が見て、『神は未来をご存じだった』と考える。」
「……予言ではなく。」
「手順書。」
また、同じ言葉へ戻ってきた。
ただし、原作より遥かに強い。
原作を知っている人間は、ごく一部。
聖典は違う。
教会が信じる。
王家が信じる。
民が信じる。
何百年もの時間をかけて築かれた権威が、その言葉を現実へ変える。
「でも。」
ルシアンが古い文書を見下ろした。
「神は、本当にいるんですよね。」
「いるのでしょうね。少なくとも、人智を超えた『何か』は。」
私は答えた。
少なくとも私は、死んだ後に会っている。
あれが何であったのか。
本当に神と呼んでよいものなのか。
私には確かめようがない。
だが、私をこの時間へ戻した何者かは、必ず存在している。
「では、この神託も本当に神が?」
「恐らく。」
「なら……やはり正しいのでは。」
「何がです。」
「神の言うことが。」
私はルシアンを見た。
彼自身、言いながら迷っているのだろう。
当然だ。
原作は信じられなくなった。
だが、この世界には本物らしい神がいる。
その神が言う。
聖女と王太子は結婚せよ。
ならば結局、自分はひよりから離れなければならないのではないか。
そう考えている顔だった。
「ルシアン様。」
「はい。」
「あなたは、まだ同じところを彷徨っているのですか。もうそろそろ達観しなさい。」
「しかし、神が――」
「原作が駄目なら、今度は神ですか。なんとご都合が宜しい。そんなに自分から不幸へ飛び込みたいのですか。」
青年の眉が僅かに動く。
「けれど――」
「人間の弱さは美徳であり、不幸の温床か。仕方ない。」
私は開いていた本を閉じ、机の上へ置いて立ち上がった。
粗方、確認したいことは確認できた。
「そろそろ情報開示に移りましょうか。」
「はい?」
「推理・解決パートのお時間ですよ、助手君。」
「全く意味が分かりません……。」
◇
翌日。
王宮の会議室へ、主要な関係者が集められた。
国王アルベルト陛下。
王妃ヘレナ様。
王太子ユリウス殿下。
クラリッサ。
聖女ひより。
ルシアン。
大神殿を代表して、グレゴリウス大司教。
そして私。
本来なら私のような伯爵令嬢が、この顔ぶれの中央で話をすること自体、随分おかしなことである。
しかし、これまでの出来事があまりにもおかし過ぎたため、今さら誰も気にしていなかった。
なお、会議の前に一つだけ片付けなければならないことがあった。
「……ルシアンさんも、日本人だったんですか。」
ひよりが目を丸くしている。
「以前は。」
「何で言ってくれなかったんですか。」
「言えませんでした。」
「何で。」
「僕は原作を知っていたからです。」
「……原作?」
そこでルシアンは、自分が知っていた『聖女は王冠の花となる』について、ひよりへ説明した。
ひよりは途中から、ものすごく嫌そうな顔になった。
「つまり。」
「はい。」
「私はこの世界に来て、王太子殿下と恋に落ちて結婚する予定だった。」
「原作では。」
「そのためにルシアンさんは、私と殿下をくっつけようとしていた。」
「……はい。」
「自分は当て馬だから身を引こうとしていた。」
「その言い方は少し……。」
「でも、大体合ってます?」
「……はい。」
「うわあ。」
ひよりが両手で顔を覆った。
「最悪。」
「……すみません。」
「同じ日本人なのに黙ってた。」
「……すみません。」
「あとで怒りますから。」
「はい。」
「今は話が長くなりそうだから、あとで。絶対。」
「はい。」
意外としっかりしている。
ルシアンは目に見えて肩を落としていた。
私は満足して頷いた。
「では始めましょう。」
「何でアメリアさんが満足そうなんですか。」
「懸案事項が一つ片付きましたので。」
「僕の懸案事項は増えましたけど。」
「自業自得です。」
さて。
まず私は、これまでに起きた事件を説明した。
エステル・ハース。
聖女の礼装を傷つけようとした。
ノア・ベルマン。
アルヴェーン公爵家の紋章を模した脅迫状を送りつけた。
セシル・ラード。
聖女の飲み物へ薬物を混ぜ、公爵家が利用する薬舗の瓶まで証拠として用意した。
「しかし。」
陛下が低い声で言った。
「三人に繋がりはないのだな。」
「確認した限りではありません。」
「命令した者も?」
「いません。」
大司教が険しい表情でセシルの供述書を見る。
「セシルは、大神殿で幼い頃から知っております。真面目な青年です。まさか、このようなことを。」
「真面目だからこそ、やったのでしょう。」
「どういう意味でしょう。」
「世界を救わなければならないと、本気で信じていました。」
私は机の上へ紙を置いた。
五人分。
クラリッサ。
ルシアン。
エステル。
ノア。
セシル。
「この五人は、皆、日本という異世界で同じ題名の物語を読んでいます。」
クラリッサが息を呑んだ。
ルシアンとは少し前に、私が同席したうえで話をしている。
彼と自分が読んだ内容が異なっていたことも知っている。
だが、ここから話す内容については、まだ説明していなかった。
ルシアンのように衝撃を受け、またあらぬ方向へ一人で突き進まれては困るからだ。
「ちなみに、その物語の内容は、全員違います。」
私は一つずつ説明した。
ある原作では、クラリッサは小さな嫌がらせをした後、自ら修道院へ入る。
ある原作では、数か月の謹慎処分。
ある原作では、断罪はされるが、生死は不明。
ある原作では、そもそも悪役としてほとんど登場せず、後に別の男性と結婚する。
そして。
クラリッサ自身が知る原作では。
最後に獄中で死ぬ。
「……何よ、それ。」
小さな声だった。
私はクラリッサを見る。
俯いていた。
「何なのよ、それ。」
今度は少し大きかった。
「わたくしは……。」
膝の上で、両手が強く握られている。
「ずっと、それに怯えていたのよ。」
ユリウス殿下が隣から彼女を見る。
「何をしても、最後には死ぬと思っていた。殿下を好きになっても駄目。聖女様が来たら全部終わる。わたくしがどれだけ気をつけても、いつか嫉妬して、酷いことをして、最後は牢で死ぬ。」
声が震えた。
「だから、先に離れようと思った。そうすれば、せめて誰も傷つけないで済むと思ったのに。」
「クラリッサ。」
殿下が手を伸ばそうとする。
クラリッサは、その手を見た。
しばらく。
本当にしばらく見てから。
自分から握った。
「……馬鹿みたい。」
「お前は馬鹿じゃない。」
「今は殿下に言われたくありません。」
「何でだ?」
「痴話喧嘩は後でお願いします。」
私が止めた。
「喧嘩ではない!」
「痴話の部分は否定しないのですか?」
クラリッサが少しだけ笑いそうになって、すぐに俯いた。
それでいい。
怒ればいい。
今まで怖がっていた分まで。
私は話を続けた。
「そして、こちらが年代の異なる聖典と神告録です。」
大司教が顔を上げた。
「年代を分け、神告に関する記述を一通り確認し、複数の写本と当時の王家の記録も照合しました。ちなみに、人間が後から改竄した形跡は、現時点では見つけられていません。」
「当然です。」
大司教は即座に答えた。
「神告は、神より賜った御言葉。複数の聖職者が記録し、王家へも同じ写しをお渡ししております。」
「ええ。ですから問題なのです。」
私は年代別にまとめた内容を読み上げた。
勇者と聖女。
聖女と魔王討伐。
王家から生まれる勇者。
異界の賢者。
そして現在の、
聖女と次王の婚姻。
「その時代ごとに、神は随分違うことを仰っています。」
「神意は、人の理解を超えるものです。」
大司教は静かに答えた。
非難するような口調ではない。
本気で、そう信じているのだ。
「時代ごとに、人へ必要な道をお示しになったのでしょう。」
「その可能性はあります。」
私は頷いた。
大司教が僅かに意外そうな顔をした。
「私は神がいないと言っているわけではありません。」
人智を超える存在は、恐らく本当にいる。
実際に、私は会った。
「神意が存在しないとも言っておりません。」
人間より遥かに広く、遠くを見る何かが。
未来を知っている可能性だってある。
「ただ。」
私は一度、言葉を切った。
「それに、人が従わなければならないかどうかは、別の話です。」
部屋が静かになった。
最初に反応したのは、王妃だった。
「アメリア嬢。」
「はい。」
「神のお言葉に、従わないと?」
「そうです。」
王妃の顔が強張る。
当然だろう。
この国で、まして王家の前で、およそ口にしてよい言葉ではない。
「では、もし神託に背いたために、本当に国が滅びれば?」
「分かりません。」
私は答えた。
「そんな。」
「分からないものは、分かりません。」
未来など、誰にも見えない。
「ですから、調べるべきでしょう。神託の意味を。災厄が何なのかを。他の方法がないのかを。必要なら神へ問い続けるべきです。世界が滅びる可能性があるなら、それに備えるのも国の仕事でしょう。」
「ならば、やはり神託には従うべきでは。」
「いいえ。」
私は首を振った。
「それと、聖女様へ『世界のために王太子殿下と結婚しなさい』と命じることは別です。」
「しかし……。」
「犠牲になる本人が、自ら選んだのであれば献身です。」
私はひよりを見る。
「他人が代わりに選べば、ただの生贄です。」
誰も口を挟まなかった。
「しかも今回、我々は神意が何なのかすら、正確には分かっていません。」
「どういう意味だ。」
陛下が私を見る。
私は小さく頷いた。
もう、頃合いだろう。別に神からも言ってはならないと止められているわけではない。
新しい概念に、また混乱は必須だろうが。
「私も、皆様へまだお伝えしていないことがあります。」
ルシアンが小さく、
「やはり。」
と呟いた。
「何です。」
「いえ、やっとかと。ここまで散々引っ張られましたから。」
「では、ご清聴の程。」
私は息を吸った。
「私は、転生者ではありません。」
ルシアンが目を瞬かせた。
「え?」
「もちろん、日本という国で暮らしたこともありません。」
ひよりまで驚く。
「では、どうして原作のことを。」
「クラリッサ様から教えていただきました。」
「では、なぜこんなに詳しく……。」
「それは、私が一度、この世界で生涯を終えて、再び過去へ戻って来た人間だからです。」
誰も動かなかった。
「皆様が今いるこの時間より、ずっと先まで生きました。そして年老い、死にました。」
「……回帰。」
クラリッサが呟いた。
「以前あなたが言っていた?」
「ええ。そうです。」
私は頷いた。
「一度目に私が歩んだ人生では、今よりもう少し先で、まずクラリッサ様が亡くなりました。」
隣でユリウス殿下の手に力が入る。
「その後まもなく聖女様も亡くなりました。」
「……私も。」
ひよりの顔から色が消える。
「ルシアン様は聖女様の死後、消息を絶ちました。」
ルシアンは何も言わなかった。
「そして半年ほど後には、マリエル様も亡くなりました。」
クラリッサが唇を噛んだ。
「王太子殿下は――数年間は職務を続けましたが、やがて亡くなりました。」
「俺が?」
「はい。」
私は、それ以上詳しくは言わなかった。
今、伝える必要はない。
「国も大きく傾きました。私が知る限り、ここにいる方々は、誰一人幸せにはなりませんでした。」
ひよりが小さく息を吐いた。
「では、アメリアさんだけ……?」
「私はその前に国外追放されていましたから。クラリッサ様と共謀したという嫌疑で。」
「それで助かったと?」
「まあ、そういうことになります。」
正確には。
それだけではなかった。
だが、それはここで話すことではない。
「そして死後、私は神と名乗る存在に会いました。」
今度こそ、大司教が目を見開いた。
「神に?」
「はい。」
「どのようなお姿で。」
「そこは今、重要ではありません。」
「私には非常に重要ですが。」
「俗物の思考を捨てれば、その内ご降臨されるのでは?」
大司教が初めて、少しだけ不満そうな顔をした。
私は構わず続けた。
「その神から私は、王太子殿下とクラリッサ様が結ばれなければならないと聞きました。」
空気が止まった。
ユリウス殿下だけが、
「ほう。」
と妙に満足そうな声を出した。
「殿下、喜ぶところではありません。」
「神も分かっているではないか。」
「話を最後まで聞いてください。」
「何だ。」
「二人の子孫から、約百年後に世界を救う勇者が生まれる。ゆえに二人が結ばれなければ、未来で世界が滅びる、と。」
今度は、誰も何も言えなかった。
大司教の顔が明らかに強張る。
「しかし。」
彼が絞り出すように言った。
「現在の神告では、聖女様と次なる王が結ばれるべきだと。」
「そうです。」
「では、どちらが神意なのです。」
「分かりません。」
私は答えた。
「……分からない?」
「はい。」
「神から直接お聞きになったのでしょう。」
「ええ、そうです。」
「ならば、そちらが新たな神意なのでは。」
「可能性はあります。」
「ではやはり――」
「しかし。」
私は大司教を見る。
「もし明日、別の聖告者へ『やはり聖女と王太子を結婚させよ』と神が告げたら、どうします?」
大司教が黙る。
「一年後に、『やはり聖女は勇者と結ばれよ』と言われたら?」
「それは……。」
「十年後に、全く別のことを言われたら。」
答えはなかった。
「私は、神のお言葉を疑えと言っているのではありません。」
それは、人それぞれだ。
信じたければ、信じればいい。
「ただ、神意が何であるかを、人間の側が正確に理解できないのなら、それを理由に他人の人生を決めるべきではないと言っているのです。」
私はクラリッサを見る。
「原作に書いてあるから、あなたは悪人になる。」
ひよりを見る。
「聖典に書いてあるから、あなたはこの男性と結婚する。」
ルシアンを見る。
「物語に書いてあるから、あなたは好きな人を諦める。」
そしてユリウス殿下。
「神が言ったから、あなたはこの女性と結婚する。」
「俺はクラリッサと結婚したい。」
「……それは後でお二人でどうぞ。」
「もう答えは出ている。」
「黙ってください。話が進みません。」
「……なぜ俺だけ扱いが雑なんだ。」
クラリッサが隣でとうとう吹き出した。
よし。
「ともかく。」
私は改めて皆を見る。
「神がいることと、神へ従わなければならないことは同じではありません。」
運命があることと。
そこへ従って生きなければならないことも、同じではない。
「未来が決まっているとしても、それを盾に他人を傷つけてよい理由にはならない。自分の人生を諦めてよい理由にも、もちろんならない。」
クラリッサの指が僅かに動いた。
ルシアンも、黙っている。
「運命とやらが本当にあるのか。人の意思がそれより強いのか。私には分かりません。」
多分、誰にも分からない。
「もしかすると、何をしても変えられない未来も、あるのかもしれない。」
死ぬ。
失う。
変わらずにいる。
人間には、どうにもならないことがいくらでもある。
それは、一度目の長い人生で、嫌というほど知った。
「けれど。」
それでも。
「変えられると信じて、自分で選ぶことはできます。」
誰かを好きになることも。
その人の手を取ることも。
失敗したら、もう一度考えることも。
「自分の気持ちや、誰かを大切に思う気持ちが、運命より強いと信じてみてもよいのではありませんか。」
それが真実かどうかなど、知らない。
「事実がどうであれ、そう信じて生きることは、きっと人間にしかできません。それだけは、神にもできないことです。」
神は未来を知っているかもしれない。
世界を作れるのかもしれない。
人間には到底できないことを、いくらでもできるのかもしれない。
それでも。
何も分からない未来へ、自分の意思だけを持って進むことは。
多分。
私たちにしかできない。
「ですから。」
私は机の上の供述書へ手を置いた。
「神意は、罪の免罪符にはなりません。」
大司教がこちらを見る。
「そして、神意は証拠にもならない。」
私はクラリッサを見る。
「クラリッサ様が聖女様を害するという予言が、仮にあったとしても、それはこの方が実際に何かをした証拠にはならない。」
聖典の記述を抜き出した資料を指さす。
「聖典に婚姻が記されていることも、聖女様が王太子殿下との婚姻を望んでいる証拠にはならない。」
ユリウス殿下を見る。
「当然、王太子殿下と聖女様が愛し合う保証にもならない。」
「愛していない。」
「知っています。」
「なら言う必要はないだろ。」
「ただの例示です。」
「俺を使うな。」
「いちいち煩い。」
「お前――」
「殿下。」
クラリッサに名前を呼ばれた瞬間、ユリウス殿下が黙った。
上手く尻に敷いているようだ。
やはり、この二人でいいのではないだろうか。
「そして、何より。」
私は続けた。
「神意は、本人の同意の代わりにはなりません。」
しばらく、誰も話さなかった。
最初に口を開いたのは、陛下だった。
「では。」
「はい。」
「どうする。」
「本人の自由意思で選んでいただくのが良いかと。」
ひよりが、
「あ。」
と声を出した。
ルシアンも額を押さえる。
「結局そこへ戻るんですか。」
「最初からそう言っていますが。」
最初から。
聖典や原作など気にせず、本人たちが自由に選べば良かったのだ。
今回も。
そして、一度目も。
随分、随分長い遠回りをしたものだ。
「王太子殿下。」
「俺からか。」
「誰と生きたいですか。」
「クラリッサ。」
即答だった。
「原作も聖典も神託も関係なく?」
「関係あるか。」
「世界が滅ぶと言われても?」
「それまでに別の方法を探す。」
「見つからなければ。」
「その時考える。」
「最後まで見つからなければ。」
ユリウス殿下は少しだけ考えた。
「それでも、クラリッサが嫌だと言わない限り、俺はこいつといる。」
クラリッサが顔を上げた。
「国も王位も?」
「必要なら捨てる。」
「だから、そういうことを勝手に決めるなと。」
「今は俺の意思を聞いたんだろう。」
「……そうでした。」
そこだけは正しい。
「では、クラリッサ様。」
彼女の肩が僅かに揺れた。
「原作ではなく。」
「……。」
「運命でもなく。」
私は彼女を見る。
「あなたは、どうしたいのですか。」
長い沈黙だった。
ユリウス殿下も、今度は何も言わない。
彼女が自分で答えるのを待っている。
「……わたくしは。」
クラリッサが、隣に座る殿下を見る。
この先どうなるかは分からない。
原作の通りに死ぬ可能性だって、彼女の中から完全に消えたわけではないだろう。
それでも。
「殿下と、いたい。」
ユリウス殿下の目が見開かれた。
「ずっと、そうしたかった。」
「クラリッサ。」
「でも、怖かったの。殿下を好きでいればいるほど、原作に近づく気がして。最後には全部失うと思って。」
「……。」
「けれど。」
クラリッサが、握っていた彼の手へ力を込めた。
「もう、原作なんて知らない。」
良い。
「わたくしは殿下といたい。」
「そうか。」
殿下の声が急に静かになった。
肉食獣のような男でも、こういう声を出せるらしい。
「俺もだ。」
「知っています。」
「そうか。」
「何年一緒にいると思っているのです。」
「ならちゃんと話せ。」
「殿下に言われたくありません。」
「あの、もう痴話喧嘩は後でお願いします。」
今日何度目だろう。
次。
「聖女様。」
「はい。」
「王太子殿下と結婚したいですか。」
「嫌です。」
こちらも即答。
「おい。」
「殿下は今聞かれてません。」
「何で俺だけ一方的に振られるんだ。」
「日頃の行いと目つきが悪いのでしょう。」
「おい。」
ひよりは少し考えた。
「私は……帰れるなら、日本へ帰る方法はもちろん探したいです。」
「はい。」
「でも、今すぐ帰れる方法がないなら、この世界でできることはやります。聖女の力で人を治せるなら、それもやります。」
彼女らしい。
「ただ。」
ひよりは少しだけ眉を下げた。
「王妃だけは無理です。」
「そこはもう分かりました。」
「国のこととか政治とか、本当に無理です。」
「存じております。」
「あと。」
ちらり。
隣のルシアンを見る。
ルシアンが固まる。
「できれば……ルシアンさんには、一緒にいてほしいです。」
「ひより様。」
「だって一番話しやすいし。日本のことも分かるし。優しいし。」
「……。」
「顔も好きだし。」
ルシアンの顔が赤くなった。
相変わらず、この聖女は時々直球だ。
「ですが、原作では――」
「木。」
「……。」
「ルシアンさん?」
ひよりが首を傾げる。
「いえ、今は木です。」
「何で?」
「余計なことを言うからです。」
「理不尽では?」
「では改めて、木ではなく人間として聞きましょう。自由意思と、選択する勇気を持った人間としてのご意向を、是非伺いたいものですがね。」
私はルシアンを見る。
「して、あなたは?」
「……。」
「原作ではありません。ましてや聖典でも。」
「分かっています。」
「当て馬でもありません。」
「……はい。」
「では?」
ルシアンはしばらく黙り。
ようやく、ひよりを見た。
「僕も。」
声が少し震えていた。
「ひより様のそばにいたいです。」
ひよりが嬉しそうに笑った。
「はい。」
「今まで、本当にすみませんでした。」
「はい。あとでちゃんと怒ります。」
「……ですよね。」
よろしい。
「助手もやっと卒業ですか。」
「それは最初から違います。」
これでいい。
誰が誰と結ばれるべきかなど、私は知らない。
神でもない。
ただ。
今この場にいる人間が何を望んでいるのかは分かった。
それで十分だ。
「陛下。」
私が呼ぶと、国王は腕を組んだまま、しばらく考えていた。
「……聖女とユリウスの婚姻については、白紙とする。」
王妃が僅かに目を伏せた。
だが、反対はしなかった。
「神告そのものを否定するわけではない。ただし、現在の解釈のみをもって婚姻を強制することはしない。」
「ありがとうございます。」
ひよりが深く頭を下げた。
「また、アルヴェーン公爵令嬢についても、現時点で聖女への危害を命じた証拠はない。つまり、婚約者として、特に何の瑕疵もない。」
「はい。」
「ユリウスとの婚約は、本人たちが望む限り継続とする。」
「望む。」
殿下。
早い。
クラリッサが呆れた顔で隣を見る。
「わたくしも、望みます。」
「では、そのように。」
大司教も長く黙っていたが、やがて口を開いた。
「教会でも、歴代の神告について改めて調査いたします。」
私は彼を見る。
「神のお言葉が間違っていたとは、私は今も思いません。」
「それでよいと思います。」
「……否定されないのですね。」
「信じることは自由ですから。」
大司教は少しだけ目を細めた。
「しかし、我々がそれをどう理解し、どう人へ適用してきたかについては、見直す必要があるのでしょう。」
「ええ。」
「神告のみをもって、未来の全てを断じない。」
「是非。」
「本人たちの同意なく、婚姻や進路を強制しない。」
「お願いします。」
「……随分、当然のことのように仰る。」
「当然のことですので。」
大司教が、少しだけ笑った。
「手厳しい方だ。」
「よく言われます。」
エステル、ノア、セシルについては、改めて正式な調査と裁定が行われることになった。
世界を救おうとした。
善意だった。
恐怖もあった。
それらは事情として考慮されるだろう。
だが、無罪にはならない。
礼装を傷つけようとした。
人を脅した。
本人へ黙って薬物を飲ませようとした。
やったことは、やったことだ。
「善意なら何をしても許される、では結局同じです。」
私はそう伝えた。
善意は。
罪の免罪符にはなり得ない。
確かに、世界を救いたいという気持ちも。
神を信じる気持ちも。
愛する人を守りたいという思いも。
それ自体は、決して悪いものではない。
しかし、それを理由に、他の人間の選択や未来を勝手に歪めたり、操ろうとすることは許されない。
人間にとっては。
それが一番難しいことなのかもしれないが。
会議が終わる頃には、窓の外が少し赤くなっていた。
長かった。
私は椅子へ腰掛けたまま、手帳を開く。
日付を確認する。
その瞬間。
「……これは拙い。」
「何だ。」
ユリウス殿下がこちらを見る。
「このところ、夢中になって、ついつい忘れていました。」
「何を。」
「いや、忘れてはいません。決して忘れてはいませんが、思った以上に時間が掛かったな。」
「何の話?」
クラリッサまで不思議そうに見る。
私は立ち上がった。
「陛下。」
「今度は何だ。」
「今回の件について、褒賞をいただけるのでしたら、お願いしたいことがあります。」
「申してみよ。」
「国外への通行証を。」
全員が黙った。
「それと、各関所を優先して通れる書状。可能であれば、長距離を走れる馬も一頭お借りしたいです。」
「……国外?」
クラリッサが聞き返した。
「ええ。」
「どこへ行くの。」
「一度目に追放されて、辿り着いた場所へ。」
私は手帳を閉じた。
「何をしに?」
「私の人生を生きに。」
皆の顔に疑問符が浮かぶ。
私は、それ以上答えなかった。
答えたところで。
まだ誰にも分からないだろう。
「それが、私が神からの依頼を受けた理由です。」
陛下が眉を寄せた。
「急ぐのか。」
「非常に。」
クラリッサが、じっとこちらを見る。
「戻ってくるの?」
「恐らく。いつかは。」
ルシアンが息を呑んだ。
「……あなたが妙に変な特技や知識を持っている原因ですか。」
「はい。」
「やはり何かあったんですね。」
「世界にとっては恐らく、ただの塵に過ぎません。けれど、私にとっては大切な塵であり、人生ですので。」
「言い方……。」
「とにかく、少しでも時間がずれていれば、長く見失う可能性の高い人ですので。」
何も決まってはいない。一度目と同じ日、同じ場所に、彼がいる保証すらない。私がこの世界へ戻ったことで、何かが変わっている可能性だってある。
もし、いなければ――。
「アメリア?」
「大丈夫です。」
私はいつものように答えた。
「少し急ぐだけです。」
「何日あるんです。」
ルシアンが聞く。
私は手帳を見る。
もう。
一週間もない。
「助手君。」
「はい?」
「最後に一つ。」
「嫌です。」
「まだ何も言っていません。」
「絶対仕事でしょう。」
「素晴らしい。探偵事務所の看板は任せましたよ。」
「開いてないでしょうが。」
「では、私が出発するまでに、この資料を年代別に整理して――」
「拒否します。」
「却下します。」
「最後までこれですか。」
「ええ。」
ひよりが笑った。クラリッサも笑い、ユリウス殿下は相変わらず呆れたような顔をしている。
それでいい。
少なくとも今は、誰も死んでいない。皆、生きている。
この先どうなるのかは、私にも分からない。
王太子とクラリッサの子孫が本当に百年後の世界を救うのか。
ひよりとルシアンが、このままずっと一緒にいるのか。
神がまた何かを言い出すのか。
そもそも運命と呼ばれるものが、本当に存在するのか。
何一つ分からない。
けれど、分からないまま生きていけばいいのだと思う。
未来を知らず、時には間違いながら、それでも自分で選んでいけばいい。
神が何を望もうと、物語に何が書かれていようと、人の気持ちはその人のものだ。
愛が運命を超えるのかなど、私は知らない。
けれど、超えられると信じてみるくらいは許されるだろう。
少なくとも、私はそうする。
私は手帳を閉じた。
今度こそ、本当に時間がない。
世界のために走る時間は、ここまでだ。
次は、私自身の人生のために走る。




