第六話 黒幕は、いなかった。
翌朝、私はアルヴェーン公爵家の応接室で、昨夜聖女へ届いた脅迫状の封筒と、公爵家が正式に使用している印章を並べていた。
「……偽物ですね。」
私が言うと、向かいに座っていたクラリッサが目を丸くした。
「偽物?」
「ええ。よく似ていますけれど、違います。」
私は二つの印影を見比べた。
素人が一目見ただけなら、恐らく気づかないだろう。
どちらにも、アルヴェーン公爵家の象徴である二頭の獅子と王冠、その周囲を取り囲む植物の意匠が刻まれている。
しかし、細かく見れば随分違った。
正式な印章では、向かって左の獅子の尾の毛先は中央だけが僅かに長い。偽物はすべて同じ長さだ。王冠中央の宝玉も、一見すれば丸く見えるが、正式なものはほんの僅かに縦長の楕円になっている。
「雑過ぎる。よくまあ、これで公爵家のものだと言い切ったものです。」
「そ、そうかしら。あなたいつの間に鑑定士の仕事を習得したの?」
「必要に駆られまして。」
一度目は、本当に自分に足りないことが多すぎて、何度辛酸を舐めたことか。
知らない。
分からない。
見分けられない。
そのたびに誰かに頼り、時には騙され、後から自分でも覚えた方が早いと気づいた。
長く生きていれば、人間は嫌でも色々できるようになる。
私は封筒を裏返し、赤い封蝋をもう一度眺めた。
高度な偽造ではない。
本気で公爵家の犯行に見せかけ、詳細な調査を潜り抜けようとした人間の仕事にしては、あまりにも雑である。
しかし、最初から容疑者がある程度定まっていたなら。
鑑定士へ回すこともなく、
『確かにアルヴェーン公爵家の紋章だ。』
と、証拠として受け入れてしまう程度の偽造には成功していた。
「クラリッサ様。」
「何?」
「あなたが読んだ原作では、脅迫状に何が使われていましたか。」
クラリッサは少し考え、それから眉を寄せた。
「……公爵家の封蝋。」
「具体的には?」
「そこまでは。『アルヴェーン公爵家の紋章が押された脅迫状』だったと思う。」
「なるほど。」
私は紙へ書き込んだ。
原作には、公爵家の紋章が押された脅迫状が登場する。
現実にも、公爵家の紋章らしきものが押された脅迫状が届いた。
ただし、その印章は偽物。
これを犯罪として見れば、雑な偽造。
だが。
「……小道具としては、十分ということですか。」
「何?」
「いえ。」
私は首を振った。
一度目。
クラリッサへ突きつけられた証拠の数々を思い返す。
聖女の礼装を傷つけるよう命じたという侍女。
公爵家の紋章が押された脅迫状。
聖女へ盛られた毒。
公爵家が普段利用している薬舗へ繋がる小瓶。
聖堂での事件。
どれもクラリッサへ繋がっていた。
あまりにも綺麗に。
だからこそ、皆信じた。
私も。
しかし本当に、綺麗だったのだろうか。
あの頃の私は、証拠を一つ一つ確かめていない。
クラリッサを信じたいと思いながら、一方で次々に出てくる証拠を前に、
『ここまで揃っているのなら。』
と考えてしまった。
公爵家の印章が押されている。
なら、本物なのだろう。
侍女が命じられたと言っている。
なら、クラリッサが命じたのだろう。
毒物の入っていた小瓶が、公爵家と縁の深い薬舗のものだった。
なら、彼女が用意したのだろう。
一つ一つを調べず、積み重なった数だけを見た。
もし、それらが全部。
同じ一人の犯人が用意した証拠ではなかったとしたら。
「アメリア?」
「大丈夫です。」
私は顔を上げた。
「少し、面白くなってきました。」
「その顔で言うと、とても怖いのだけど。」
「どういう意味でしょうか。」
「何でもないわ。」
クラリッサはさっと目を逸らした。
最近、皆が私の顔について何か言いたげなのは何なのだろう。
一度目の若い頃のように、常に何かへ腹を立てているわけでもない。
期限を考えて、少し焦ってはいるが。
ともかく。
脅迫状を送りつけた者を探す。
まずはそこからだ。
王宮へ戻ると、ルシアンがすでに昨夜の郵便物について、関係する人間を集めていた。
王宮へ届く書状は、一度外郭側の受付へ集められた後、担当部署ごとに仕分けされる。王族宛てや重要人物宛てのものはさらに確認され、そこから使用人が各所へ運ぶ。
聖女宛ての手紙なら、途中で少なくとも五人の手を通る。
「多すぎませんか。もう少し業務の効率化を図ってみては。」
「安全上の措置でもありますから。」
「聖女様が細かいと言われるのも納得です。」
「僕への嫌味ですか。」
ルシアンが困ったように眉を寄せた。
「では助手君。取り調べの時間です。」
「……ですから、僕は助手ではありません。」
私たちは一人ずつ、昨日の状況を聞いていった。
「昨日の夕刻、何か変わったことはありませんでしたか。」
「特には……。」
最初の書記官は首を傾げた。
「では、届いた封書は全部で何通でしたか。」
「え?」
「覚えている範囲で構いません。」
「二十……いや、二十二通ほどだったと思います。」
「束はいくつに分けました。」
「三つです。」
「聖女様宛ては最初からありましたか。」
「そこまでは……。」
「誰が紐を解きました。」
「私です。」
「誰が再び束ねました。」
「ベルマンが。」
「その間に席を離れた人間は?」
書記官が少し考えた。
「私は一度、隣の部屋へ帳簿を取りに行きました。」
「何分ほど。」
「五分もなかったと思います。」
「その時、部屋に残っていたのは。」
「ベルマンと、郵便担当の二人です。」
書き留める。
二人目。
三人目。
同じように話を聞く。
書状を運んだ使用人。
仕分けを担当した書記。
受付担当。
封書の束を受け取った者。
少しずつ時系列を繋げていく。
途中からルシアンが、妙な顔でこちらを見るようになった。
「何です。」
「……探偵というより、監査官ですね。」
「いえ、私は名探偵アメリアです。」
「名探偵というより、怒れる必殺裁き人……。」
「黙れ助手。」
「扱い……。」
結局、聖女宛ての脅迫状が紛れ込んだ可能性が最も高いのは、最初の仕分けを終えた後、各部署へ書状を分けるまでの僅かな時間だった。
その時間、書状へ自由に触れられた人間は三人。
そのうち二人は、同僚の目から離れていない。
残る一人。
「ノア・ベルマン。」
ルシアンが名簿を見ながら呟いた。
二十一歳。
王宮の文書課へ勤めて二年。
男爵家の三男。
勤務態度に問題なし。
借金なし。
政治的な派閥との関係も薄い。
アルヴェーン公爵家との接点も、ほとんどない。
「またか。」
「何がです?」
「調べれば調べるほど、怪しくない。」
「エステルと同じだと?」
「そうです。」
私は資料を閉じた。
「呼びましょう。」
「今度は泳がせないのですか?」
「事件は起きた後ですよ。何をほざいているのですか。」
「言い方……。」
「時間もありませんし、ちゃちゃっといきますよ。ちゃちゃっと。」
ルシアンは小さく嘆息した。
私はもちろん気にしなかった。
ノア・ベルマンは、見るからに気の弱そうな青年だった。
赤みのある茶髪をきちんと撫でつけ、背は高いが、少し猫背気味。応接室へ案内されてからも落ち着かない様子で、何度も指を組み直している。
「お、お呼びと伺いましたが。」
「昨日、聖女様宛ての郵便物を扱いましたね。」
「はい。」
「この手紙をご存じですか。」
私は封筒を見せた。
一瞬だった。
青年の目が、封蝋へ吸い寄せられた。
それからすぐに逸れる。
十分だった。
「知っていますね。」
「……いいえ。」
「では、なぜ今、封筒ではなく封蝋を見たのです。」
「それは……どちらのものか確認しようかと。」
「よくご存じなのですね。」
「……殿下のご婚約者の家門ですから。」
「ほう。この距離から、一瞬で公爵家の紋章だと分かりましたか。」
ノアの顔色が変わった。
私は机の上へ、正式な印影と偽物を並べた。
「獅子の尾先の長さが違う。王冠中央の宝玉も、形が違います。」
「……。」
「本物を直接見て作ったわけではないのでしょう。家紋録か何かを参考にしましたか?」
ノアの指が震えた。
「それと、この封蝋に使われた赤い蝋。王宮内で書記官が日常的に使うものと、ほとんど同じですね。」
「……。」
「昨日、あなたが一人で書状の束に触れられた時間があることも、もう確認済みです。」
ノアは俯いた。
ルシアンが少し身を乗り出す。
「ベルマン。」
「……すみません。」
小さな声が落ちた。
「わ、私が、入れました。」
思ったより早かった。
「誰に命じられました?」
「誰にも。」
まただ。
私はゆっくり息を吐いた。
「エステル・ハースをご存じですか。」
「聖女様付きの侍女ですよね。顔くらいは。」
「親しく話したことは?」
「ありません。」
「彼女から何か頼まれたことは。」
ノアは不思議そうな顔をして、こちらを見た。
「ないです。」
私はもう一度じっとノアの顔を見た。
「では、一つ別の質問をします。」
「はい。」
「日本という国をご存じですね。」
青年の動きが完全に止まった。
隣でルシアンが小さく息を吐く。
私は何も言わず、待った。
「……どうして。」
「ご存じなのですね。」
「……はい。」
四人目。
いや。
正確には、私が確認しただけで四人目。
私は腕を組み、静かに視線を上へ向けた。
そこに空はない。
白い天井があるだけだ。
もう驚かない。
驚かないぞ。
よーし。
もう何人でも来い。
私が相手だ。
心の中で何度か繰り返し、深く頷いてから、私は紙とペンを取った。
「では、『聖女は王冠の花となる』をご存じですか。」
ノアは力なく頷いた。
「読みました。友人にどうしても読んでくれと勧められて。」
「どのような話でした。」
「聖女様が異世界から召喚されて、王太子殿下と結ばれる話です。」
「クラリッサ様は。」
「殿下の婚約者でした。」
「悪役?」
「……そうですね。ただ、そこまで酷い人ではなかったと思います。」
詳しく聞く。
ノアが読んだ物語では、クラリッサはひよりを嫌っていた。
小さな嫌がらせを何度かし、その後、王太子からひよりへ近づかないよう脅迫状を送る。
しかし、毒はない。
殺害未遂もない。
事件が発覚した後、クラリッサは王太子との婚約を一時保留とされ、公爵家で数か月の謹慎。
その後のことは、ほとんど描かれていなかったという。
「なぜ脅迫状を送ったのです。」
聞くと、ノアは項垂れた。
「……起こらなかったからです。」
「何が。」
「原作の事件が。」
もう聞き慣れ始めた。
「原作では、もう既に幾つかの嫌がらせが起きている筈でした。そこで聖女様へ脅迫状が届いて、怖がる聖女様を殿下が守るんです。『お前には指一本触れさせない』って。」
私は一瞬、王太子の顔を思い浮かべた。
言いそうだ。
非常に言いそうだ。
ただし聖女ではなく、クラリッサへ向かって。
あの肉食獣のような顔つきで、クラリッサを庇いながら、それはもう毛を逆立てて周囲を威嚇するだろう。
「それがきっかけで、聖女様も殿下を頼るようになります。だから……。」
「事件が起こらないので、自分でやった、と。」
「はい。」
「クラリッサ様へ罪を着せるために?」
「違います!」
ノアは勢いよく顔を上げた。
「そういうつもりではありません。原作でも、クラリッサ様は少し謹慎するだけです。それに、聖女様へ本当に危害を加えるつもりもなくて。脅すだけなら……。」
「脅された本人は怖がりますよ。」
「……す、すみません。」
「謝る相手が違います。」
「はい。」
ノアはまた俯いた。
エステルと同じ。
やろうとしたことは違う。
読んだ原作も違う。
しかし、思考の流れはほとんど同じだった。
原作を知っている。
自分が同じ世界に生まれたことに気づいた。
聖女と王太子が結婚しなければ、世界が滅びる。
ところが、現実が原作から外れている。
ならば。
自分が戻さなければならない。
原作を知っている者の責任、あるいは役割として。
「エステル・ハースが、聖女様の礼装を切ろうとしていたことを知っていますか。」
「……え?」
ノアは本気で驚いたようだった。
「礼装を?」
「知らない?」
「知りません。原作にそんな事件、ありましたか?」
今度はルシアンが私を見る。
私は黙って頷いた。
やはり、知らない。
「では、誰かから『原作へ戻せ』と指示を受けたことは?」
「ありません。」
「夢で神や誰かに言われたことは。」
「ないです。」
「匿名の手紙。」
「ありません。」
「転生者が集まる場所。」
「知りません。」
「他に日本の記憶を持つ人間をご存じですか。」
ノアは少し迷ってから、首を横へ振った。
「ひより様は日本から来られたとは知っています。でも、転生者については……まさか僕以外にいるとは思っていませんでした。」
エステルにも同じことを聞いた。
回答は同じだった。
誰にも命じられていない。
互いの存在も知らない。
自分一人が原作を知っていると思っていた。
それでも。
私はまだ、黒幕の存在を捨てきれなかった。
本人たちが気づいていないだけで、何かによって誘導されている可能性がある。
同じ物語を読んだ人間が、偶然同じ世界へ何人も転生している。
その時点で、普通ではない。
ならば、その「普通ではない何か」が、彼らへ直接命令していないだけで、状況そのものを整えているのかもしれない。
「アメリア嬢。」
ノアを王宮内の別室へ移した後、ルシアンが静かに声をかけてきた。
「何でしょう。」
「僕も、同じですよね。」
青年の顔には、いつもの柔らかさがなかった。
「原作を知っている。この世界だと気づいた。そして、自分だけが未来を知っていると思って、原作通りに進めようとした。」
「まあ、そうですね。」
ルシアンは少しだけ嫌そうな顔をした。
「否定して欲しかったです。」
「しかし、事実ですので。」
「……一体、この世界は何なのでしょう。」
「私にも正直分かりません。」
私はそこで一度言葉を切り、目の前の青年を見た。
「しかし、我々は生きている。確かにこの世界で。転生者も、そうでない者も、もう関係ありません。とにかく皆が死なないように、未来が少しでも良い方向へ進むように、我々も進むしかありません。」
ルシアンは、しばらく黙っていた。
それから小さく、
「……そうですね。」
とだけ答えた。
私は机の上に置かれた二人分の供述書を眺めた。
エステル。
礼装。
ノア。
脅迫状。
違う人間。
違う原作。
命令者なし。
接点もない。
それでも、二人とも同じ方向へ向かっている。
だが、まだ二人だ。
二人なら。
偶然とは言えなくとも、同じような思想を持った転生者が二人いただけ、と言えなくもない。
「次は毒ですね。」
私が呟くと、ルシアンが嫌そうに顔を上げた。
「何です?」
「私が知る別の原作では、脅迫状の次に、聖女様へ毒が盛られます。」
「……また僕の知らない話ですか。」
「ええ。」
「一体、何が起こっているんです?」
「私にもまだ正確には。」
私は手帳を開き、日程を確認した。
「しかし、辿り着かねばならない。必ず。」
原作では正確な日までは分からない。
ただ、夜会の後、それほど間を置かずに起きた事件だったらしい。
そして一度目の人生でも、礼装と脅迫状の事件から間を置かず、聖女が毒によって体調を崩した。
ならば。
今から見ておけばいい。
聖女の口へ入るものを。
その日から、ひよりの食事に関わる経路をすべて記録することになった。
「すみません。」
事情を詳しく知らされないまま、食事の手間だけが大幅に増え、ひよりは非常に困った顔をした。
「私、何かしたんでしょうか。」
「いえ、何もしていません。」
「でも、食べる前に毎回三人くらい確認に来るんですけど。」
「安全のためですから。」
「待っている間、すごくお腹が空きます……。」
「我慢してください。」
「アメリアさん、厳しい。」
そう言いながら、ひよりは横にいたルシアンを見る。
「ルシアンさん。」
「僕を見ても駄目です。」
「細かすぎます……。」
「すみません。デザートは増やしますから。」
「嬉しいけど、やっぱりお腹が……。」
私は二人を見比べた。
相変わらずである。
それでも、毒を飲んで死なれるよりはいい。
食材の搬入。
調理。
配膳。
食器。
飲み物。
すべて、誰がどの段階で触れたかを記録する。
面倒ではあった。
しかし、三日目。
早くも引っかかった。
聖女へ出される予定だった果実水を、配膳前に確認していた侍女が、僅かな匂いの違いに気づいたのだ。
薬師を呼び、調べさせる。
入っていたのは、毒と呼ぶには微妙なものだった。
飲めば腹痛と発熱を起こし、量によっては一日か二日寝込む。
だが、健康な成人が一杯飲んだ程度で命を落とすものではない。
「……またですか。」
ルシアンが、もう嫌そうに呟いた。
「まだ犯人は分かっていませんが。」
「何でしょう……もう犯人は分からずとも、犯行理由は分かるような気がいたします。」
「さすが助手。私もです。」
「助手ではありません。しれっと言わないでください。」
果実水を用意した厨房。
そこから聖女用の銀器へ移した者。
王宮の給仕へ渡した者。
一つずつ追った。
そして調べている途中、もう一つ妙なものが見つかった。
配膳室近くの物置から、小さな薬瓶が出てきたのだ。
中身は空。
だが、瓶の底にはごく少量、果実水から検出されたものと同じ薬物が残っていた。
私はその瓶を手に取り、側面に刻まれた小さな印を見た。
「……この薬舗。」
見覚えがあった。
アルヴェーン公爵家が昔から利用している、王都の老舗薬舗。
一度目にも。
聖女へ盛られた毒がクラリッサへ結びついた理由の一つだった。
「また、公爵家?」
ルシアンが眉を寄せる。
「まだ分かりません。」
念のため薬舗へ問い合わせる。
瓶自体は公爵家専用品ではない。
誰でも購入できる一般的な薬を入れて販売しているものだった。
ただし、アルヴェーン公爵家が長年その薬舗を利用していることは、王都の貴族であれば知っている者も多い。
つまり。
これもまた。
公爵家の犯行を示す決定的な証拠ではない。
しかし、すでにクラリッサが疑われている状況で見つかれば。
『やはり。』
と思わせるには十分だった。
最終的に辿り着いたのは、大神殿から聖女の身の回りを手伝うために派遣されていた、二十歳の青年だった。
名はセシル・ラード。
下級神官の家に生まれ、本人も神殿の事務や雑務を手伝っている。
物静か。
真面目。
評判良好。
またである。
私は少しだけ、頭が痛くなった。
「日本。」
対面するなり言ってみた。
セシルが固まった。
「……何のことでしょう。」
「もういいです。」
「何がですか。」
「『聖女は王冠の花となる』。」
完全に顔色が変わった。
私は目を閉じた。
当たりか。
本当に、もう少し驚かせてほしい。
セシルも、転生者だった。
彼が読んだ原作は、クラリッサの知るものにかなり近かった。
聖女へ繰り返し嫌がらせをする公爵令嬢。
脅迫。
毒。
最後には殺害未遂。
断罪。
ただし細かな場面については曖昧で、クラリッサが最後に獄中で死んだかどうかまでは覚えていなかった。
「原作では、毒を飲んでも聖女様は死にません。」
セシルは必死に説明した。
「数日寝込むだけなんです。その間、王太子殿下が何度も見舞いに来て、二人が初めて互いを強く意識するようになる。」
「だから毒を盛った。」
「毒というほどのものでは……。」
「飲んだら熱と腹痛が出る薬物を、本人へ黙って飲ませようとしたのですよね。」
「……はい。」
「では毒でいいです。」
「でも、死ぬ量では絶対にありません!」
「そこを胸を張って言わないでください。」
私は眉間を押さえた。
「それから、もう一つ。」
机の上へ、小さな薬瓶を置く。
セシルの目が泳いだ。
「これはあなたが用意したものですね。」
「……はい。」
「なぜ、わざわざアルヴェーン公爵家が利用している薬舗の瓶へ入れ替えたのです。」
「……。」
「薬物自体は、別の店でも手に入るものでした。最初からこの瓶に入っていたわけでもない。薬舗へ確認しました。あなたは数日前、そこで普通の胃薬を購入していますね。」
セシルは完全に俯いた。
「胃薬を捨て、瓶を洗い、その中へ今回の薬物を入れた。」
「……はい。」
「なぜ。」
「原作で……そうだったので。」
やはり。
「毒が見つかった後、公爵家が使っている薬舗の小瓶が証拠として出るんです。それで、クラリッサ様が疑われて……。」
「では、クラリッサ様へ罪を着せるつもりだったのではありませんか。」
「違います!」
「何が違うのです。」
「原作通りにしようとしただけです。最後には事件が解決して、聖女様と王太子殿下が結ばれます。クラリッサ様も……その、罰を受けますけど。」
「十分着せています。」
「……。」
「しかも、わざわざ証拠まで作って。」
「……すみません。」
「謝る相手が違います。」
今日二度目だった。
私は深く息を吐いた。
「エステル・ハースを知っていますか。」
「名前だけは。」
「ノア・ベルマン。」
「……誰です?」
「どちらかから指示を?」
「受けていません。」
「転生者同士で連絡を?」
「そんなことできるんですか?」
逆に聞かれた。
「神から何か言われたことは。」
「ありません。」
「夢。」
「ありません。」
「匿名の手紙。」
「ないです。」
「なぜ自分でやったのです。」
セシルはしばらく黙った。
やがて、
「怖かったからです。」
と答えた。
「何が。」
「原作から外れていくのが。」
また同じだ。
「聖女様と王太子殿下は、結婚しなければならない。そうしなければ世界が滅びる。なのに、二人は全然親しくならない。公爵令嬢も何もしない。それなのに、聖典には二人が結ばれるべきだとまで書いてある。」
セシルは膝の上で手を握った。
「僕は、自分がこの世界へ生まれたのには意味があるのだと思っていました。原作を覚えていることにも。」
エステルと同じだ。
「だから、自分にできることをした、と。」
「はい。」
私は黙った。
彼を王宮内の別室へ移した後、ルシアンと二人、しばらく誰もいなくなった応接室に残った。
机の上には三枚の紙。
エステル・ハース。
礼装破損未遂。
ノア・ベルマン。
脅迫状。
セシル・ラード。
毒物混入未遂。
私は、それぞれの名前の下へ項目を追加していった。
命令者。
なし。
共犯者。
なし。
他の転生者との接触。
なし。
神託。
なし。
匿名の指示。
なし。
動機。
原作通りにするため。
目的。
聖女と王太子を結婚させる。
最終目的。
世界を救う。
「……綺麗ですね。」
ルシアンが、私の隣から紙を覗き込んだ。
「何が。」
「揃っているところだけ、綺麗に揃っている。」
「そうですね。」
「でも、それ以外は全部違う。」
「ええ。」
礼装を切る。
脅迫状を送る。
毒を盛る。
それぞれ別の人間がやった。
互いを知らない。
同じ人間から指示も受けていない。
それぞれが読んだ原作すら微妙に違う。
それでも。
最終的な方向だけは同じ。
「……黒幕は。」
ルシアンが呟いた。
私は紙を見た。
これまでずっと探してきた。
一度目にクラリッサを陥れた者。
聖女を利用した者。
王太子と聖女を結婚させるため、裏で事件を組み立てた者。
一つ一つの事件を辿れば、いつか一本の線になると思っていた。
しかし。
調べれば調べるほど、線は分かれていった。
誰も繋がっていない。
誰も命令していない。
誰も全体を計画していない。
それなのに結果として、一人の公爵令嬢へすべての罪が集まる。
なぜなら。
全員が、同じ物語の中で、
『クラリッサが犯人になる。』
と知っていたからだ。
「いません。」
「……何です?」
「黒幕は、いません。」
ルシアンが黙った。
「少なくとも、人間の黒幕は。」
私は一枚ずつ紙を見た。
「皆、自分で決めて、自分でやったのです。」
「世界を救うために。」
「ええ。」
「聖女様を幸せにするために。」
「本人が望んでもいない方法で。」
「……。」
「原作通りにするために。」
私は椅子へ深く腰を下ろした。
ようやく、一度目の不自然さが理解できた。
なぜ、あれほど証拠が雑だったのか。
なぜ、公爵令嬢が犯人だと示すものばかりが次々現れたのか。
なぜ、事件ごとに手口が統一されていなかったのか。
一人の犯罪者が綿密な計画を立てたのではない。
複数の人間が、それぞれ別々に、
『原作ではクラリッサがこうする。』
と思い、自分が知る場面だけを再現した。
エステルは、クラリッサの代わりに礼装を切る。
ノアは、公爵家の紋章を真似て脅迫状を出す。
セシルは、原作に合わせて毒を盛り、公爵家へ繋がる小瓶まで用意する。
一人一人は、自分の事件だけを見ていた。
しかし事件を外側から見れば、
衣装破損。
脅迫。
毒。
すべてが、
『クラリッサ・アルヴェーンによる聖女への嫌がらせ。』
という一つの物語になる。
「やはり原作は預言ではない。」
私は呟いた。
「え?」
「原作通りの事件が起きたから、未来の書かれた預言か何かなのかと思っていました。」
だが、逆だった。
「原作を知っている人間が、事件を起こしただけ。」
現実の方から、原作へ近づいていった。
「……では、原作は。」
ルシアンが、少し青ざめた顔でこちらを見る。
私は机の上に並んだ三枚の供述書へ目を落とした。
「知っている内容が、皆違うのです。少なくとも、あれは未来を確定させた預言書でも、運命そのものでもない。」
一度目の人生でも、古い遺跡を調べていた時、似たような文書を見たことがある。
当初、私たちはそれを、過去に行われた儀式の様子を記録した文書だと思っていた。
しかし実際には違った。
これから行う儀式の順序、必要な物、役割を、あらかじめ書き残した文書だった。
記録だと思っていたものが。
実は。
「……手順書だ。」
ルシアンが息を呑んだ。
私は自分で言ってから、随分嫌な言葉だと思った。
人間の人生を動かす。
恋をさせる。
傷つける。
断罪する。
そのための手順書。
しかも、読んだ人間によって中身が違う。
「ですが。」
ルシアンが少し躊躇ってから言った。
「それなら、なぜこんなに何人も、この世界へいるのです。」
その通り。
私は目を閉じた。
一人なら偶然。
二人なら、まだ奇妙な偶然と言い張れたかもしれない。
クラリッサ。
ルシアン。
エステル。
ノア。
セシル。
少なくとも、もう五人。
しかも全員、同じ題名の小説を読んでいる。
内容だけが微妙に違う。
「……でも、主要人物の名前まで同じです。確かに各人の好感度や事件の有無などは違いますが……。」
ルシアンは続けた。
「それに、この世界の聖典でも定められています。」
私は目を開けた。
「聖典。」
「原作には、そんな設定は出てきませんでした。しかし、この世界で最も権威のある定めには、『聖女と王太子が結ばれるべきだ』とある。」
「エステル様も同じことを言っていましたね。」
「そこは一緒だったようですね。」
机の上の紙を見る。
原作。
複数ある。
同じ名前。
内容は違う。
なのに、最後だけは聖女と王太子が結婚し、世界が救われる。
そして現実世界には、原作には描かれていなかった聖典がある。
そこにも、
聖女と次王は結ばれる。
と書かれている。
けれども一方で、私に至っては神本人から、
王太子とクラリッサが結婚し、その子孫から未来の勇者が生まれなければ世界が滅びる。
と聞かされている。
全く違う。
「……おかしい。」
思わず口から出た。
「何がです。」
「全部です。」
ルシアンが嫌そうな顔をする。
「もう少し絞ってください。」
「原作では、王太子殿下と聖女様が結婚しなければ世界が滅びる。」
「はい。」
「こちらの世界の聖典にも、同じ二人が結ばれるべきだとある。」
「そうです。」
「なのに、あなた方が読んだ原作には、そのような聖典の定めはない。」
「そう、ですね。」
「不自然。理由としては、十分でしょう。」
次に確認すべきものは決まった。
今度は、人間ではない。
もういくら人を調べようと、最初に想定していた黒幕は出てこない。
だから、今調べるべきは。
「ルシアン様。」
「嫌な予感がします。」
「なぜです。」
「最近、あなたが僕の名前を呼ぶ時、大体仕事が増えるので。」
「おお! 学習しましたね。素晴らしい。」
「全く嬉しくありません。」
「この国で現存する、できるだけ古い聖典を集めてください。」
ルシアンが固まった。
「……全部?」
「全部とは言っていません。年代の異なるものを、できるだけ。」
「となると、王宮保管庫、大神殿、地方教会、修道院……。」
「古ければ古いほど良いです。」
「あの、僕は王太子殿下の側近なのですが。」
「知っています。」
「文書収集係ではありません。」
「あなたは助手ですから。」
「拒否します。」
「却下します。」
ルシアンは深々と溜息を吐いた。
私はもう一度、三枚の供述書を見る。
結局、最初に想定していた犯人なるものはいなかった。
誰か一人が悪意を持ってクラリッサを陥れたのではなかった。
皆が、未だ私には理解し切れない『原作』というものを信じ、それぞれに世界を救おうとした。
そして結果。
一度目の世界では、物語の主要人物たちは次々に命を落とし、誰一人として幸せにはならなかった。
「役者ではないなら、舞台装置だ。」
原作にはなかったという聖典。
しかし実際に、何百年も前から、この国の人間を動かしてきた神の言葉。
それが一体、何なのか。
何のために存在しているのか。
確かめなければならない。
タイムリミットまで、あとどれほど残されているだろう。
期限前の大仕事を前に、私は小さく息を吐き、静かに目を閉じた。




