第五話 原作通りにしただけです。
王宮から戻った翌朝、私は朝食を終えるより先に、オルブライト侯爵家へ使いを出した。
用件は一つ。
ルシアン・オルブライトを呼び出す。
できるだけ早く。可能なら午前中。
そう伝えさせると、昼前には本人が我が家へ現れた。王太子殿下の側近を伯爵令嬢が私用で呼びつけるというのも、冷静に考えればなかなか不遜な話だが、今さらである。それに、こちらは一応世界の滅亡を防ごうとしているのだ。その程度の無礼には目を瞑ってもらいたい。
「それで、何があったのですか。」
応接室へ入ってきたルシアンは、私の顔を見るなり警戒するように眉を寄せた。
「座ってください。」
「嫌な予感しかしないのですが。」
「いきなり取って食ったりはしませんよ。多分。」
「……帰っても?」
「却下。」
ルシアンは諦めたように、私の向かいへ腰を下ろした。
今日も部屋へ入った瞬間から、冷たい宰相の息子はどこへやら。何かと面倒ごとに巻き込まれそうな、人の良さそうな青年の顔である。もちろん、いつも通り柔らかな色の髪はきちんと整えられ、服装にも一分の隙もないのだが、表情だけは分かりやすく「困った。逃げたい」と訴えていた。
「よろしい。さて、今日は確認したいことがあってお呼びしました。」
「……はい。」
「聖女様付きの侍女の前で、『原作』という言葉を使いましたか。」
ルシアンの表情が消えた。
「……いいえ。」
「本当に?」
「そんなことをするわけがありません。頭がおかしいと思われるのが関の山でしょう。」
返答は早かった。
「聖女様に対しては?」
「以前、少し探りを入れましたが、ひより様は原作の存在を全くご存じありませんでした。この世界へ転生してから、原作についてまともに話した相手は、あなたが初めてです。」
「聖女様には、原作のことをお伝えしなくていいのですか?」
「……下手に『あなたは物語の主人公です』などと説明して混乱させる必要もないでしょう。僕自身が転生者であることすら、お伝えしていないのですから。」
「なるほど。」
クラリッサとルシアンが、同じ異世界で、同じ題名の物語を知っていたので、ひより自身も知っている可能性があるかと思ったが、どうやらそうでもないらしい。
クラリッサは以前『小説』と言っていた。
つまり、あちらの世界で万人が知る預言書のようなものではなく、たまたま読んだ者だけが知っている物語だったのだろうか。
「原作は、預言書ではなく、『小説』。聖女様は知らない、と。」
「Web小説で、書籍化もされていませんでしたからね。ひより様が知らないのも当然だと思います。」
「有名ではなかった、と。」
「そうですね。少なくとも、誰でも知っているような作品ではありません。僕も妹にどうしても読んでくれと言われたので、たまたま読んだだけでした。」
ルシアンはそこまで言うと、少し苦悶するように眉を寄せ、片手で額を押さえた。
「まさか、そのせいでこんなことになるとは……。」
転生とやらをする前の世界を思い出しているのだろうか。
ひよりは「召喚」。
ルシアンとクラリッサは「転生」。
そして本人にはまだ話していないが、私には「回帰」まで加わる。
随分と忙しい世界である。
私は内心で大きく溜息を吐いた。
「では、聖女様本人から侍女へ伝わった可能性も低い、ということですね。」
「何かあったのですか?」
私は昨日、ひよりから聞いた話をそのまま伝えた。
王太子との婚姻を嫌がった際、侍女の一人から、
『多少嫌でも、原作通りになれば最後は幸せになりますから。』
と慰められたこと。
ルシアンは最初こそ黙って聞いていたが、話し終える頃には明らかに顔つきが変わっていた。
「その侍女の名前は?」
「まだ調べていません。いつも着替えの世話をする、年齢の近い侍女と仰っておられました。」
「エステル、かもしれません。」
「ご存じなのですか。」
「聖女様付きの侍女は全員、ある程度把握しています。着替えまで手伝う年若い侍女なら、候補はそれほど多くありません。」
ルシアンは考えを巡らせるように口元へ手を当て、しばらく黙した。
「恐らく、エステル・ハースで間違いないでしょう。」
「どのような方ですか。」
「子爵家の傍流だったはずです。父親は王宮の会計局勤務。本人も数年前から王宮へ勤めていて、今のところ勤務態度に問題はありません。」
「信仰は?」
「……普通だと思います。特別熱心だったという話は聞いておりません。教会ではなく、王室付きの侍女ですし。」
「借金、交友関係、家族の問題、特定貴族との繋がりは。」
「そこまでは知りません。」
「調査を。」
ルシアンが無言で私を見た。
「何か?」
「僕を何だと思っているのですか。」
「便利な宰相嫡男。」
「言い方……。」
「あるいは探偵の助手。」
「悪化しています。」
文句を言いながらも、結局調べてくれるあたり、あの青年は本当に人が良い。
その日の夕方には、エステルについて現状分かる範囲の情報が揃った。
十九歳。
王都出身。
父親は王宮会計局の下級官吏。母親は健在。兄が一人いる。
家計に大きな問題なし。
過去に処罰歴なし。
アルヴェーン公爵家との因縁も見当たらない。
王太子派でも反王太子派でもない。
聖女へ敵意を示した記録もないどころか、召喚直後から親身になって世話をしており、ひより本人からもかなり信頼されている。
調べれば調べるほど、黒幕らしさが消えていく。
だが、この少女は『原作通りになれば最後は幸せになります』と、確かに聖女へ向けて言ったのだ。
直接尋ねるのは簡単だった。
しかし、もし彼女が何らかの計画へ関わっているのなら、こちらが「原作」という言葉を知っていると悟らせるだけで警戒される可能性がある。
「少し泳がせましょう。」
翌日、クラリッサの部屋を訪れた私は、本人を前にそう告げた。
「泳がせる?」
「比喩です。」
「いえ、分かっているのだけど、一体次は何をするつもりなの?」
「原作で、最初に起こる大きな事件は何でしたか。」
クラリッサは寝台横の長椅子へ座り、少し考えるように目を伏せた。
表向きは療養中なので、ここ数日は本当に屋敷から一歩も出ていない。最初は「三か月も閉じこもるなんて無理」と騒いでいたが、ところどころ事情を伏せながらも公爵夫妻へ説明したところ、思った以上に協力的だったこともあり、今ではそれなりに諦めたらしい。
「確か、聖女様の礼装が切り裂かれる事件ね。」
「いつです。」
「聖女様が初めて、王家主催の正式な夜会へ出席する前日だったと思うわ。」
「具体的には?」
クラリッサは机の引き出しを開き、綺麗に整えられた紙束の中から一枚の招待状を抜き出した。
さっと目を通す。
「五日後よ。」
私は持参した手帳へ日付を書き込んだ。
「事件の詳細は。」
「聖女様のために用意された白い礼装を、公爵令嬢が夜の間に切り裂くの。胸元と裾を大きく。翌朝になって侍女が気づくけれど、替えの礼装が間に合わなくて、聖女様はかなり困るのよ。」
一度目にも、クラリッサの罪として似た事件が挙げられていた。
ただし、私が後から知った内容では、公爵令嬢本人が切り裂いたのではなく、彼女に命じられたという王宮の侍女が実行したことになっていた。
細部が違う。
これまでも、何度かあった。
原作と一度目の現実は、似ている。
しかし完全には一致しない。
このずれを、果たしてどのように評価すべきなのか。
「その後は?」
「確か……王太子殿下が自分の外套を貸すの。」
「外套を?」
「ええ。それで初めて聖女様が殿下の優しさに気づいて、二人の距離が縮まり始める。恋のきっかけってやつね。」
「……それはまあ、随分効率の悪い恋愛ですね。」
クラリッサは何か言いたげにこちらを見たが、結局口を閉ざした。
恐らく、クラリッサ的には感動的な場面だったのに、とか、殿下の不器用な優しさが堪らない、とでも言いたいのだろう。
いずれにせよ、私には理解できそうにない。
「犯行方法は?」
「はさみで切るだけ。」
「あなた本人が?」
「原作では、わたくしが直接したことになっていたわ。」
クラリッサはそこまで言うと、嫌そうに眉を寄せた。
「もちろん、そんなこと私はやらないわよ。」
「分かっています。」
「長いこと部屋から一歩も出ていないもの。」
「偉い。」
クラリッサはそこでようやく少し気を取り直したように胸を張った。
私は気にせず、さらに細部を聞いた。
私は一度目に起こった事件の概要しか知らない。今のところ、原作の情報の方が先回りに使える可能性が高い。
保管場所。
夜会の時刻。
誰が最初に衣装を発見するのか。
原作でクラリッサがどうやって部屋へ入ったことになっていたのか。
クラリッサの記憶は細部になるほど曖昧だったが、それでも十分だった。
五日後。
原作通り、あるいは一度目と同じ流れなら、ここで事件が起こる。
今、黒幕に通じているかもしれない唯一の手掛かりは、エステルだけだ。
もしエステルが単に偶然「原作」という言葉を知っていただけなら、彼女自身が動くとは限らない。
しかし彼女が、何らかの理由で原作の筋書きを現実へ再現しようとしているのなら、ここで動く可能性が高い。
また、もし背後に仲間がいるのだとしても、保管場所を見張っていれば、少なくとも誰かの動きは拾えるだろう。
私はルシアンへ連絡を取り、聖女の礼装を管理する部屋について、誰がいつ出入りしたのか記録を取らせた。
鍵の管理者も限定する。
侍女の勤務予定も確認する。
ただし、完全には封鎖しない。
一つだけ、通常の手続きさえ踏めば、侍女一人でも入れる時間帯を残した。
「罠ですよね。」
王宮の廊下で打ち合わせをしていたルシアンが言った。
「違います。検証です。」
「同じです。」
青年は小さく嘆息した。
「なぜこんな回りくどいことを? 僕にしたように、エステル本人にも原作のことを尋ねてみればいいではありませんか。」
「あなたの知る原作と、彼女が知るものが同じとは限らないからです。」
「……どういう意味ですか。」
私は目を細め、静かに青年を横目で見遣った。
「原作通りにしなければ世界が滅ぶ。あなたと同じようにそう信じ、筋書きを守ろうとしている人間がいたとして――その者が知る原作が、あなたのものとは違っていたら?」
ルシアンの表情が固まった。
「……お互いに敵になる可能性があると?」
「可能性の話です。」
実際には、それだけではない。
だが、ここからさらにクラリッサの知る原作や、私自身の回帰まで一度に説明していたら、それこそ収拾がつかなくなる。
「少なくとも、あなたが知る原作が決して唯一絶対に正しいものとは限らない。それを確認する機会にはなるでしょう。もしここで、あなたの知らない事件が実際に起きれば。」
ルシアンが黙った。
しばらくして、低い声で尋ねる。
「……一体あなたは、何を知っていて、何を防ごうとしているのですか。」
「色々です。」
「僕と同じ、原作を読んだ転生者ではないのですか?」
「私は名探偵です。そして、あなたは助手です。」
「勝手に助手にしないでください。」
駄目だったか。
なかなか良い役割分担だと思ったのだが。
五日後。
聖女が初めて正式な夜会へ出席する前日。
昼間は何事も起こらなかった。
夕刻。
衣装部屋への出入りも通常通り。
聖女付きの侍女たちが順番に礼装を確認し、必要な装飾品や靴を揃えていく。
エステルもその中にいた。
一度だけ遠くから顔を見たが、確かに前回ひよりに会った際に見かけた気がした。淡い茶色の髪を低い位置でまとめ、目立たないが整った顔立ちをしている。誰かと話す時は必ず柔らかく笑い、先輩侍女から何か頼まれれば、嫌な顔一つせず動いていた。
……あれが黒幕。
あるいは、犯人。
どうにも違和感がある。
しかし、見た目や印象で人を判断してはいけないことは、一度目の人生で十分に理解していた。
夜が更ける。
私とルシアンは、衣装部屋から少し離れた空き室で待機していた。
「いつまで待つのです?」
「何も起きなければ朝まで。」
「……本気ですか?」
「私は二日間寝ずに、暗闇の中を歩き回ったこともあります。」
一度目の人生では実に色々あった。
虫も獣も出ない場所で一晩待機することなど造作もない。
「……伯爵令嬢が一体何をされていたのですか。」
「色々です。」
「いや、どう考えてもおかしいでしょう。」
「静かに。」
私は時計を見る。
午後十一時を少し過ぎた頃だった。
廊下の向こうから、小さな足音が聞こえた。
ルシアンも口を閉じる。
足音は一度止まり、また動いた。
鍵の擦れる音。
扉が開く。
私はルシアンと目を合わせた。
数秒待つ。
それから二人で部屋を出た。
衣装部屋の扉は、僅かに開いている。
中には小さな灯りが一つ。
私は音を立てないよう近づき、扉の隙間から中を覗いた。
白い礼装の前に、一人の侍女が立っていた。
エステル・ハース。
その右手には、小さな裁縫用の鋏。
左手で、聖女の礼装の裾を持ち上げている。
やはり、来てしまったか。
「そこで何をしているのです。」
声をかけると、エステルの体が大きく跳ねた。
鋏が床へ落ちる。
乾いた音が、静かな部屋へ響いた。
「ロ、ローデン伯爵令嬢……。」
顔から血の気が引いていく。
ルシアンが私の後ろから入ってくると、エステルはさらに青ざめた。
「ルシアン様まで……。」
「質問しているのはこちらです。」
私は彼女の前まで歩き、まだ一切傷つけられていない白い礼装を確認した。
「何をしようとしていたのですか。」
「……。」
「鋏を持って、聖女様の礼装を手にしていましたね。」
エステルは何も言わない。
「誰に命じられたのです。」
俯いたまま、彼女の肩が小さく震えた。
「答えてください。」
「……だ、誰にも。」
「何です?」
「誰にも、命じられておりません。」
私は目を細めた。
「では、なぜ。」
「……。」
「もしや、聖女様へ恨みがあるのですか?」
エステルが勢いよく顔を上げた。
「ありません!」
「では、クラリッサ様へ?」
「それもありません!」
「ならば、なぜあなたは聖女様の礼装を切ろうとしたのです。」
エステルは唇を震わせた。
やがて、その目に大粒の涙が浮かぶ。
「……このままでは。」
小さな声だった。
「このままでは、世界が滅びてしまうからです。」
予想していた言葉とは、まるで違った。
私は黙った。
ルシアンは目を見開いた。
「どういう意味ですか。」
「……絶対に信じてはいただけないと思います。」
「いいから。正直に話してください。」
エステルは何度か息を整えた。
それでも声は震えている。
「私、この世界で生まれる前……別の世界で生きていた記憶があるんです。」
そっちか。
私は思わず眉間へ手を当てたくなったが、堪えた。
黒幕として、裏宗教のような『原作教』なるものがある可能性も考えていた。
転生者が何人もいるという事態よりは、よほど無理がないと思っていたのだが。
二度あることは三度ある、ということだろうか。
「その世界の名前は?」
「……日本です。」
隣でルシアンが息を呑んだ。
「あなたも。」
「え?」
ルシアンが思わず口にした言葉に、エステルが顔を上げる。
「いえ、続けてください。」
私は先を促した。
もう何事にも驚くまい。
三人目の転生者。
ここまで来れば、もう一人増えようが二人増えようが同じだ。
そういう世界なのだと、こちらの認識を改めなければならないらしい。
多分。
「私は日本で、その……小説を読んでいました。」
「題名は。」
聞く前から、もちろん答えは分かっていた。
「『聖女は王冠の花となる』。」
やはり。
「内容を説明してください。」
エステルは戸惑いながらも、少しずつ話した。
異世界から召喚された少女、ひより。
聖女として王宮に迎えられ、王太子ユリウスと出会う。
王太子にはすでに婚約者がいる。
クラリッサ・アルヴェーン。
彼女は聖女を疎み、幾度も嫌がらせを行う。
その一つが、初めての王宮夜会を前に、聖女の礼装を切り裂く事件。
「それで?」
「翌朝、衣装が駄目になっていることに気づいて、聖女様は夜会への参加を諦めようとします。でも王太子殿下が助けてくださるんです。代わりの衣装を手配して、外套も貸して……そこから、二人が少しずつ近づいていって。」
「そして結婚する。」
「はい。」
「結婚しなければ。」
エステルの表情が強張った。
「世界が滅びます。」
また同じだ。
そこだけは、必ず同じ。
「クラリッサ様は最後にどうなります。」
「自ら修道院へ入ります。」
私は思わず顔を上げた。
「……何? 死なないのですか?」
「死ぬ? どういう意味ですか? 原作では、起こしたことの罪を悔いて、自ら修道院へ入ります。後日談で聖女様へ謝罪の手紙を送っていたと思います。」
また違う。
クラリッサ本人が知る原作では、彼女は獄中で悲惨な死を迎える。
ルシアンが知る原作では、そもそも悪役令嬢ですらなく、王太子との婚約解消後に別の男と結婚する。
そしてエステルが知る原作では、悪役令嬢ではあるが、生きたまま修道院へ入る。
同じ題名の物語に、三つ目の内容が出てきた。
私はその事実を頭の片隅へ置きながら、目の前の侍女へ問いを戻す。
「あなたは、今のクラリッサ様が聖女様へ何もしていないことを知っていますね。」
「……はい。」
「なら、なぜ代わりにあなたがやる必要があるのです。」
エステルの顔が歪んだ。
「だって、何も起こらないからです。」
「それの何が問題なのです。」
「原作から外れているんです!」
思った以上に強い声だった。
「聖女様が召喚されてから、ずっと待っていました。最初は少し時期がずれているだけだと思って。でも、クラリッサ様は聖女様へ近づこうともしない。それどころか、突然体調を崩されたと聞いて……。」
「それで?」
「このままだと、礼装の事件が起こらない。殿下と聖女様が近づくきっかけがなくなる。二人が恋をしなくなるかもしれない。それでなくても、王太子殿下も聖女様も婚姻に後ろ向きです。原作と違って、こちらの世界では聖典にまで二人が結ばれるべきだと書かれているのに。」
「だから、自分で礼装を切ろうとした。」
「……はい。」
「クラリッサ様の代わりに?」
「他に方法が思いつかなかったんです。」
エステルは涙を拭った。
「でも、本当に少しだけです。着られなくなるくらいにはしますけど、聖女様のお体に危害を加えるわけではありません。原作でも、この事件では誰も怪我をしません。」
「あなたは先日、聖女様へ『多少嫌でも、原作通りになれば最後は幸せになる』と言ったそうですね。」
「……はい。」
「幸せな結末のためですか。」
一体、誰が『最後は幸せになる』のだろう。
聖女か。
王太子か。
世界か。
あるいは、この少女自身なのか。
「この事件の後から、運命的な物語が動き始めるんです。」
エステルの顔には罪悪感があった。
しかし、悪意がない。
本当にないのだ。
衣装を傷つけるだけ。
それが後日、公爵令嬢を死に追いやる罪状の一つになるとは、露ほどにも思っていない。
なにしろ彼女の知る物語では、公爵令嬢は自ら罪を悔いて修道院へ入るのだ。
聖女と王太子を恋仲にする。
二人を結婚させる。
世界を救う。
そのために、自分の手を汚して、たった一着の衣装を切る。
彼女の中では、それだけの大義と成果が十分に釣り合っている。
「衣装を損なうことも、聖女様と王太子殿下を結婚させることも、誰かがあなたへ頼んだのですか?」
「いいえ。私がここで勇気を出して動かねばと……。」
「決して誉めているのではありません。なぜ、そこまで原作を信じられるのです。」
「運命ではありません。原作です。」
迷いのない答えだった。
私は一瞬、言葉を失った。
「原作では、二人は最終的に幸せになります。聖女様も殿下を愛するようになる。殿下も聖女様を愛する。そして二人が結ばれたから、この世界は救われるんです。」
「今の聖女様は、王太子殿下との婚姻を嫌がっています。」
「今だけです。」
「なぜ分かるのです。」
「原作では、そうなるから。」
そしてエステルは、まるで私が根本的なところを理解していないとでも言うように、もう一度繰り返した。
「運命なんてものではありません。原作です。」
どこが違うのだろう。
私には、段々と気持ちが悪くなってきた。
日本という場所で暮らした人間には、その二つに明確な違いがあるのだろうか。
「王太子殿下も、クラリッサ様を愛しています。」
「それも最初だけです。最後は聖女様を選びます。」
「クラリッサ様本人も、聖女様へ何もするつもりはありません。」
「そうかもしれません。でも、原作ではします。」
「今、目の前で実際に生きている人間たちよりも、原作を信じると?」
エステルが黙った。
「聖女様は先日、王太子殿下と結婚したくないと、はっきり仰いました。」
「……じゃあ、私にどうしろって言うんですか。」
「どうしろ、とは。」
「なぜ私は、原作を知っている状態でこの世界に転生したんですか!」
声が震えた。
「原作を知っている私が何もしなかったせいで、もし本当に世界が滅びたら……どうすればいいんですか。」
「それは、私にも分かりません。」
「自分の知っている世界だった。分かった時は、確かに少し嬉しかったです。でも私は、原作に名前すら出てこない。脇役ですらない、ただのエキストラです。できることもそんなに多くない。だから、自分にも何かできることがあるんじゃないかと思って、役割を探して、ここまで来ました。」
エステルの瞳に、また薄い膜が張り始める。
「そして、物語がなぜか原作から外れ始めた。私に、他に何が選べると言うんですか!」
整った顔が、苦痛に耐えるように歪んだ。
「私だって、こんなことしたくありません。」
声が震える。
「聖女様は優しいです。私にもいつもありがとうって言ってくださる。クラリッサ様だって、昔夜会で一度お会いした時、とても親切にしてくださいました。嫌いじゃありません。むしろ、お二人とも好きです。」
「なら。」
「でも、世界が滅びるんですよ。」
彼女は泣きながら、それでもこちらを真っ直ぐ見た。
「もし私が何もしなかったせいで、何万人も、何百万人も死んだら? 聖女様も、クラリッサ様も、結局みんな死ぬんですよ?」
「……。」
「たった一着のドレスです。」
エステルは床に落ちた鋏へ目を落とした。
「誰も怪我をしない。誰も死なない。それで原作の流れへ戻って、最後に世界が救われるなら……私は、やる以外を選べません。」
彼女の目は鋏を見ているようで、ここではない何かを静かに見つめているようだった。
「私にも、この世界に家族や友人、大切な人たちがいます。もし見つかって、自分が罰せられるとしても、それで世界を救えるなら……もう、それこそ私の『運命』なんだと思います。」
私は口を噤んだ。
エステルに対して、確かに腹は立った。
勝手なことをするなと言いたかった。
本人に聞け。
書いてあるから何だ。
そう言いたい。
しかし。
私は知っている。
神から直接、
クラリッサとユリウス殿下が結婚しなければ、遠い未来に勇者が生まれず、世界が滅びる。
と聞かされている。
その情報を信じ、私は今ここにいる。
ならば。
私とエステルの違いは、何だろう。
神本人から聞いたか、本で読んだか。
それだけなのか。
もしクラリッサとユリウス殿下が互いを嫌っていたら。
それでも私は、
『世界が滅びるから結婚してください。』
と言うのだろうか。
本人たちの人生を使って。
「……一つ、確認します。」
今は結論を出す時ではない。
私は別の方向から尋ねた。
「聖女様へ送られる脅迫状について、ご存じですか。」
エステルが目を瞬いた。
「脅迫状?」
「王太子殿下から離れろ、さもなければ命はない、という内容の。」
「……何です、それ。」
「毒は。」
「毒?」
「聖女様へ毒物を盛る事件。」
エステルの顔が、明らかに青ざめた。
「そんなこと、するわけがありません!」
「原作にはありませんか。」
「ありません! 少なくとも私が読んだ話では、そんな危険なことは……。」
「聖堂での襲撃は。」
「知りません。」
「殺害未遂。」
「ありません!」
今度は、恐怖すら浮かんでいた。
「私は聖女様を傷つけたいわけじゃありません。幸せになってほしいんです。だからドレスを……。」
「分かりました。」
私は彼女の顔を観察した。
嘘をついているようには見えない。
先ほどまで、自分の行動が正しいと信じ、あれほど真剣にこちらへ反論していた少女だ。
脅迫状や毒の話を出した時だけ、明らかに反応が違った。
知らない。
恐らく、本当に。
ならば。
この女は黒幕ではない。
少なくとも、一度目に起きたすべての事件を計画した者ではない。
「ルシアン様。」
「はい。」
「エステル様には、しばらく王宮の一室で待機いただきましょう。外部との接触はなしで。」
「承知しました。」
「え……。」
「処分を決めるためではありません。確認のためです。」
私はエステルを見る。
「あなたが本当に、誰からも命じられていないことを証明するためにも必要です。」
彼女は不安そうだったが、やがて小さく頷いた。
「……分かりました。」
そこから一時間ほど、エステルが知る原作について、さらに細かな聞き取りを行った。
クラリッサ版との違い。
ルシアン版との違い。
覚えている場面。
世界滅亡について、どの程度具体的に書かれていたのか。
結論として、やはり同じだった。
細部は違う。
主要人物の扱いも違う。
それなのに、最後だけは揃っている。
聖女と王太子が結婚する。
それによって世界が救われる。
もし結ばれなければ、世界は滅びる。
一体なぜ。
私は書き取った紙を眺めながら、さらに質問を続けようとした。
その時だった。
廊下から慌ただしい足音が聞こえた。
すぐに扉が叩かれる。
「ルシアン様!」
入ってきたのは、聖女付きの年嵩の侍女だった。
酷く慌てている。
「どうしました。」
「聖女様宛てに、これが。」
侍女が差し出したのは、一通の封書だった。
私は立ち上がる。
「触らないで。」
「え?」
「そのまま。」
侍女の手に持たせたまま、近づいて確認する。
白い封筒。
赤い封蝋。
そこには、一見してアルヴェーン公爵家のものと分かる紋章が押されていた。
「どこから届きました。」
「王宮の郵便物へ紛れていたそうです。先ほど聖女様のお部屋へ運ばれまして……。」
「誰が最初に触ったか、分かりますか。」
「え?」
「後で聞き取ります。今は開けないでください。」
「ですが、すでに聖女様が。」
嫌な予感がした。
「開けた?」
「はい。中を読まれて……。」
私はルシアンを見る。
「行きます。」
エステルは、そのまま別室へ残した。
ルシアン、私、そして手紙を持ってきた侍女の三人で、急いで聖女の居室へ向かう。
ひよりは応接室の長椅子へ座っていた。
顔色が悪い。
卓上には、一枚の紙が置かれている。
「ひより様。」
「ルシアンさん……。」
ルシアンが真っ先に近づく。
私は卓へ向かった。
「触っても?」
「す、すみません。私、開けてしまって……。」
「構いません。」
一度触れられているなら、今さらである。
手袋を借り、紙を広げた。
文章は短かった。
『王太子殿下から身を引きなさい。
さもなくば、次はあなたの命が失われるでしょう。』
簡潔である。
そして、一度目にクラリッサの罪の証拠として示された脅迫状と、内容は酷くよく似ていた。
「……これ。」
ひよりが不安そうに封筒を見た。
「クラリッサ様の家の印だって、侍女さんが。」
「一見すれば、そう見えますね。」
「私、本当に何も……。」
「分かっています。」
私は答えた。
「クラリッサ様も何もしていません。」
「え?」
「今は、それだけ覚えておいてください。」
脅迫状。
公爵家らしき封蝋。
原作で起きるはずの事件。
だが。
私はゆっくり振り返った。
衣装部屋で捕まえたエステルは、今も別室にいる。
礼装を切ろうとした瞬間から、一度もこちらの監視を離れていない。
この手紙が王宮へ持ち込まれた時間も、彼女には何もできない。
そしてクラリッサ本人は、公爵邸から一歩も出ていない。
公爵家で正式に使用する印章についても、現在は私の提案で使用者と時刻をすべて記録している。
なのに。
出た。
一度目とよく似た脅迫状が。
私はもう一度、赤い封蝋を見た。
黒幕の手先を一人捕らえた。
そう思った。
エステルの背後に誰かがいて、その者を辿れば、一度目にクラリッサを陥れた犯人へ近づける。
だが、もし。
エステルが、本当に誰にも命じられていないのなら。
もし、この手紙を書いた者もまた、エステルとは無関係に「原作」を知っているのだとしたら。
「……三人だけ、ではない?」
思わず声が漏れた。
「アメリア嬢?」
ルシアンがこちらを見る。
私は答えなかった。
頭の中で、これまで当然の前提としていたものが、音を立てて崩れ始めていた。
犯人がいる。
黒幕がいる。
そいつが原作を知り、クラリッサを陥れるために一連の事件を起こした。
そう考えてきた。
だが。
最初から、それが間違っていたとしたら。
私は手元の脅迫状を見下ろした。
名探偵には、まだ随分遠いらしい。
少なくとも一つだけ、分かった。
事件はまだ終わっていない。
そして私は、どうやら今まで、探すものそのものを間違えていたのかもしれない。




