第四話 本人に聞けば早い。
ルシアン・オルブライトとの面会から二日後、私は王宮の一角にある、聖女へ与えられた居室を訪れていた。
正確には居室そのものではなく、その手前に設けられた小さな応接間である。異世界から突然現れた聖女を保護するため、彼女の周囲には常に複数の侍女と護衛が付き、王族ほどではないにせよ、そう簡単に部外者が出入りできるようにはなっていないらしい。
その点、宰相嫡男にして王太子殿下の側近という肩書きは大変便利だった。ルシアンが話を通したところ、私程度の伯爵令嬢でも、驚くほどすんなり面会の許可が下りた。
使えるものは使う。
一度目の人生ではあまり好きではなかった言葉だが、歳を取ってからは大変好きになった。
「アメリア嬢。」
「何でしょう。」
「念のため申し上げておきますが、ひより様を怖がらせないでくださいね。」
私の横を歩きながら、ルシアンが真顔で言った。
「なぜ私が怖がらせる前提なのですか。」
「……今、怒っておられますか。」
「いいえ。大変ご機嫌です。」
ルシアンは横目で私をちらりと確認し、また前を向いた。少しの間沈黙が落ち、磨かれた大理石の廊下を歩く二人分の足音だけが響く。
「……ご自覚がないのですか。」
「どういう意味でしょうか。」
「そ、その顔で?」
「どういう意味でしょうか。」
重ねて聞くと、ルシアンは少し困ったように眉を下げた。
あれ以来、私の前では冷酷な宰相子息を演じるのをほとんど諦めたらしく、表情が随分よく動くようになった。どう考えてもこちらの方が本人の性質に合っていると思うのだが、本人は相変わらず「原作から離れすぎるのは危険です」と主張している。
「それより、今日は私が聖女様へ質問しますので、ルシアン様は基本的に口を閉じておいてください。空気か、その辺りの木にでも擬態していてください。」
「なぜです?」
「あなたが横から余計な口を挟むと、本人の本音が聞きにくくなるからです。話しづらくなるでしょう。」
「しかし、僕は事実を――」
「黙れ、木よ。」
「まだ聖女様はいませんが。」
「予防的措置です。」
ルシアンは何とも言えない顔をしたが、こちらに反論するのは諦めたらしい。
案内された応接間は、王宮の他の部屋と比べれば随分柔らかな雰囲気に整えられていた。淡い黄色の壁紙に白木の家具、窓辺には小さな鉢植えまで置かれている。異世界から来た少女が少しでも緊張せず過ごせるよう、誰かが配慮したのだろう。
しばらくして扉が開き、一人の少女が、若い侍女に伴われて入ってきた。
「お待たせしました。」
高瀬ひより。
一度目の人生で、すべての始まりになった聖女。
彼女を目にした瞬間、私は少しだけ意外に思った。
もっとこう、特別な雰囲気があるものだと勝手に想像していたのだ。
神聖な力を持ち、異世界から呼ばれ、王太子と結ばれて国を救うと聖典に記された女性なのだから、無意識に何かしら人目を引くものがあると思っていた。
しかし実際に現れた少女は、随分普通だった。
艶のある黒髪を後ろで簡単にまとめ、茶色の瞳をきょろきょろと動かしている。王宮から与えられたのだろう淡い青色のドレスはよく似合っているが、どことなく服に着られているようにも見えた。
背も低い。
顔立ちも確かに可愛らしいが、クラリッサのような、若くしてすでに完成された貴族令嬢の美しさとはまったく違う。
なるほど。
一度目に聖女を見た貴族令嬢の一人が、随分幼く見えると漏らしていた記憶があるが、言いたいことは少し分かる。
「初めまして。高瀬ひよりです。」
少女は丁寧に頭を下げた。
「アメリア・ローデンと申します。本日はお時間をいただき、ありがとうございます。」
「いえ。ルシアンさんのお知り合いだと聞いたので。」
そこでひよりはルシアンをそっと見る。
ルシアンも安心させるように小さく笑い、頷いた。
私は一瞬、二人の間に流れた何とも言えない温かく柔らかな空気に、片眉を上げた。
これは、まあ。
随分と自然なやり取りだ。
先ほどひよりを連れてきた若い侍女が三人分の茶を整え、静かに一礼して部屋を出ていく。
「どうぞ、お座りください。」
三人で卓を囲む。ひよりの前へ置かれた茶に、ルシアンが何も言わず砂糖を二匙落とし、さらに彼女の手元へ小さな焼き菓子の皿を寄せた。
ひよりも何の疑問もなく、皿の上の菓子を一つ取る。
それから、はっと気づいたようにルシアンの前へ皿を寄せようとしたが、それをまたルシアンの手が止めた。
ひよりは少し考え、皿の上の焼き菓子をもう一つ掴むと、そのままずいっと直接ルシアンの前へ差し出す。
ルシアンが苦笑しながら受け取った。
私は腕を組み、その一連の何とも言えないやり取りを黙って眺めた。
なんだろう。
これは、私が空気か木になりかけているではないか。
「何でしょう。」
ルシアンが気づいた。
「いや。」
何でしょう、ではないだろう。
大分、事前に聞いていた話と実情が違う。
私はもう木になりたい。
いや、現実を見よう。今はそれどころではない。
「今日は、聖女様ご本人のお考えを伺いたくて参りました。」
「私の?」
「ええ。聖典に定められた内容はすでにお聞きと思いますが、聖女様ご自身がどうされたいのか、一度お伺いしておきたくて。」
ひよりは目をぱちぱちと瞬かせた。
「……私は、選べるのですか?」
「分かりません。」
「そう、ですよね……。」
ひよりは眉尻を下げ、膝の上に置いた手を静かに握った。
「しかし、聖女様ご本人のご意向であれば、全く無視されることはないと、私個人は考えております。」
「アメリア嬢。」
「ルシアン様、今は黙っておいてください。」
「ですが……。」
私が鋭い視線を投げると、ようやく青年は口を閉じた。
それを見て、ひよりが少しだけ笑う。
やはり、よく笑う普通の少女だ。
「では、最初から。聖女様は、元の世界へ戻ることを望んでおられますか。」
「帰れるなら、帰りたいです。」
ひよりは、思ったよりあっさり答えた。
「ただ、絶対に帰れないと無理、ってほどではないです。」
「そうなのですか。」
「はい。最初はすごくびっくりしましたし、家族にも何も言えないまま来ちゃったので、そこは申し訳ないですけど。」
少しだけ寂しそうに笑う。
「ご家族が?」
「五人兄弟なんです。私が一番下で、上に姉が二人、兄が二人。みんなもう私よりずっとしっかりしてて、一番上の姉なんて結婚してますし。」
「随分賑やかそうですね。」
「うるさいですよ。特に集まると。」
そう言いながらも、ひよりの顔には明らかな愛情が浮かんでいた。
「皆様、心配しておられるでしょうね。」
「してると思います。でもまあ、私一人いなくなったから一家全滅、みたいなことにはならないので。」
「随分、割り切っておられるのですね。」
「割り切ってるっていうか……戻る方法が分からないのに、ずっと帰りたい帰りたいって泣いてても仕方ないじゃないですか。」
確かに。
「大学も入ったばっかりだったので、そこはちょっと残念ですけど。」
「大学?」
「学校です。経済学部の一年生でした。」
「経済。」
「はい。お金とか会社とか、国の景気とかを勉強する学部です。まだ一年だったので、大して詳しくないですけど。」
そこで少し考え、
「しかも奨学金も借りてたし。」
「しょうがくきん。」
「学校に通うために借りるお金です。卒業したら返さないといけなくて。」
「なぜ学校へ行くために借金を?」
「そこは私も何度か思いました。」
妙に遠い目をした。
「卒業してちゃんと就職できるかなとか、奨学金返しながら一人暮らしできるかなとか、考えると、それはそれで結構不安だったんですよね。だから、こっちで衣食住を保証してもらえて、人を治せる力もあって、それで世界まで救えるなら、まあ……頑張ってみようかな、くらいです。」
私は少し驚いた。
一度目の人生で、私は彼女をほとんど知らなかった。
知ろうともしなかった。
突然現れ、クラリッサの婚約者を奪い、最後には国中から崇められる女。
そんなふうにしか見ていなかった。
しかし実際は、こんなに前向きで、現実的で、良い意味で普通の少女だったのだ。
「聖女としてのお務め自体は、お嫌ではないですか?」
「人を助けるのは嫌じゃないです。病気を治したり、怪我を治したりできるって、普通にすごいですよね。」
そこで彼女は少し顔をしかめる。
「ただ、覚えることが多いです。」
「何をです。」
「作法とか、言葉とか、貴族の名前とか。昨日も食事の時、使う食器の順番を間違えました。」
「……昨日だけではありません。」
ルシアンが口を挟んだ。
「三日前から、一度も成功しておりません。」
「でも、途中までは合ってました。」
「一体いつになれば殿下と正式な食事の席を共にできるのか……。」
「いちいち細かすぎるんです。」
「あなたが大雑把なのです。」
二人は顔を見合わせる。
私は黙って茶を飲んだ。
なんだろう。
この二人の間に流れる、生温かい雰囲気。
そうだ。木になるなら、どうせなら松の木がいい。枝も松ぼっくりもよい火種になる。
原作の強制力とやらについて、私はもうその字面を叩き割って焚き火を起こしたいくらいだった。
いや、違う。
やるべきことをしなければ。
「では、本題へ移ります。」
「はい。」
「王太子殿下とのご婚姻について、どのようにお考えですか。」
「嫌です。」
早い。
私は思わずペンを止めた。
間に一呼吸すらなかった。
ルシアンが隣で僅かに顔をしかめる。
「ひより様。」
「だって、嫌なものは嫌です。」
「理由を伺っても?」
「まず、王妃になりたくないです。」
「なぜ? 国内で女性としては最も高い身分ですよ?」
「いや、絶対に嫌です。政治とか経済とか国際関係とか、難しい話も元々あんまり好きじゃないし、誰かの生殺与奪とか、大勢の前に立って偉そうに話すとか、もう考えただけで眩暈が……。」
ひよりの顔が僅かに青ざめている。
「私、大学一年ですよ? 半年くらい前まで受験勉強してたんですよ? いきなり国家運営に関わってくださいって言われても困ります。」
「そのための教育は行われると思いますが。」
「頭脳も素質も気概も覚悟も、何一つ足りないと思います。」
「……。」
「無理です。」
ルシアンが静かにこめかみを押さえている。
「それに。」
ひよりは少し声を潜めた。
「王太子殿下、怖いです。」
「どの辺りが?」
「まず目です。」
「目。」
「目つきが鋭すぎます。」
「あれは元からでしょう。」
「声も怖いです。」
「それも元からですね。」
「なんか、ずっと怒ってません?」
「あれも元からです。」
「ですよね。」
ひよりは真剣だった。
「あと、なんというか……俺についてこい、俺の言うことを聞け、みたいな圧がすごいんですよ。」
「……殿下は王太子ですので、多少そういうところはあるでしょうね。」
「私、ああいう俺様系の人、本当に駄目なんです。」
「おれさまけい。」
「偉そうで強引な男の人です。」
「なるほど。」
極めて的確だった。
「勇者役とかで物語の中に出てきたら格好いいんでしょうけど、実際に目の前にいたら、ただただ怖いだけですよ。」
ひよりは焼き菓子を一つ摘まみながら、至極真面目な顔で続ける。
「しかもあの人、クラリッサ様のこと大好きですよね。」
「そう見えますか。」
「はい。周りの皆もそう思ってますよね?」
私自身は、王太子とクラリッサが一緒にいるところを、それほど多く見たことがない。舞踏会などで踊っているところを数回見た程度だ。
「どの辺りが?」
「クラリッサ様を見る時だけ、顔が違いますよ。」
「そうなのですか。」
「普段は『何見てる、文句でもあるのか』みたいな目なのに、クラリッサ様がいると、ちょっとだけ人間の顔になります。」
私は少し想像した。
何となく、ひよりが言いたいことは伝わった。
「クラリッサ様も殿下が好きそうですし。なんで私、わざわざそこに入らないといけないんですか。馬に蹴られて死にますよ。」
「聖典では――」
「……それは聞いてます。でも普通に考えたら、めちゃくちゃ嫌じゃないですか。」
ひよりは少し眉を下げた。
「それに、クラリッサ様こそ可哀想ですよ。ずっと婚約してた人がいるのに、突然知らない女が異世界から落ちてきて、この人が聖女だから婚約解消してそっちと結婚してくださいって。」
「……そうですね。」
「しかも私、まだ何もしてないのに。」
私は一瞬、答えられなかった。
何もしていない。
その通りだ。
一度目の私は、そんな当然のことすら考えなかった。
聖女様だ。
王太子と結婚するのだ。
聖典にあるから、教会がそう言うから、そういうものなのだと、勝手に理解していた。
もし一度目も今と同じ状態だったのなら、聖女自身が王太子とクラリッサの仲を裂くため、周囲へ働きかけていたという可能性も低そうだ。
「ですから、できればクラリッサ様と結婚していただきたいです。」
「王太子殿下に?」
「はい。返品……いえ、受領拒否させてください。お願いします。」
「いや、私に頼まれても。」
「クラリッサ様のお友達なんですよね?」
「それは確かに友人ですが。」
「言っておいてください。私は本当に全然、これっぽちも、塵ほども狙ってませんって。」
なんだか散々な言われように、王太子が可哀想になってくる。
仮にも、この国で最も高い地位に就く予定の人間なのに。
王子なのに。
「……そうですね。お伝えしておきます。」
「できれば強めに。いえ、かなり強めに。その常に怒っているような強面で、力強く伝えておいてください。」
「……分かりました。」
私はそんなに怒りっぽく見えるのだろうか。
いや、しかしクラリッサが聞けば泣いて喜ぶかもしれない。
あるいは原作と違うと怯えるか。
どちらにせよ、いずれ一度本人同士で話をさせる必要はありそうだ。
そこで私は、もう一つ確認しておくことにした。
「では、ルシアン様については。」
ひよりの手が止まった。
同時にルシアンも止まった。
「なぜ、そこで僕が出るのです?」
「比較対象として。」
「……今ここで比較する必要がありますか。」
「あります。」
ルシアンだけに分かるよう、僅かに目配せする。
原作とやらでは、聖女を巡って恋敵として散る運命だと散々嘆いているのだ。ここで多少傷を負おうが、本望だろう。
もっとも、その可能性は限りなく低そうだが。
「聖女様は、ルシアン様をどう思っておられますか。」
「好きです。」
これまた早い。
ルシアンが完全に固まった。
私は少しだけ驚いたが、ひより本人は一瞬平然としていた。
しかし、言い切ってから何を言ったのか自分で理解したらしい。
「い、いえ! そ、その、好きって言っても、今すぐ付き合いたいとか結婚したいとか、そんなことではなくて。」
そこで、ちらりとルシアンの顔を窺う。
ルシアンの肩が、ぴくりと動いた。
「……ただ、一緒にいてすごく楽しいし、話も通じるし、とっても親切だし。」
「……。」
「顔も……すごく、格好いいですよね。」
今度こそ、ルシアンの耳が赤くなった。
「何というか……王太子殿下よりよっぽど、素敵だと思いませんか。」
「……ひより様。」
「は、はい!」
「そういうことは、あまり本人の前では。」
「で、でも王太子殿下と比べるなら、普通にルシアンさんの方が……好きです。」
「……ひより様、それは今の環境が特殊だからです。」
ルシアンが急に真面目な顔へ戻った。
「ひより様は異世界へ来られた直後で、一番近くにいる私へ安心感を抱いているだけです。今の感情を恋愛感情だと判断するのは早計です。」
「……。」
「最終的には、あなたは王太子殿下を――」
「ルシアン様。」
「は、はい。」
「今、あなたは空気か木です。」
「しかし。」
「木。」
ルシアンは再び口を開きかけ、ひよりをちらりと見遣って、結局黙った。
私は改めてひよりを見る。
「聖女様ご本人は、王太子殿下より、ルシアン様にご好意があると。」
「……はい。」
「恋愛感情ですか?」
「え!? あ、あの……その、私、今まであんまり恋愛に興味がなくて。」
そこで、ひよりは言葉を切り、膝の上の手を合わせて少し俯いた。
「……でも、王太子殿下か、ルシアンさんか選べと言われたら、それは、ルシアンさんと結婚する方を普通みんな選ぶと思います。」
そこまで言って、ひよりの頬が真っ赤に染まった。
ルシアンは黙った。
こちらも耳まで赤い。
なんだろう。
いたたまれない。
とてもいたたまれない。
私は少し呆れながら、紙へ書き込む。
王太子殿下との婚姻。
本人、明確に拒否。
ルシアン。
かなり好意あり。
極めて分かりやすい。
どうして一度目は、これであそこまで拗れたのだろう。
そう思ったところで、目の前の少女が一度目に迎えた最期を思い出した。
一度目の私は、その頃すでに国外にいたため、詳細を知ったのはかなり後だった。
ひよりは、クラリッサが死んだ後まもなくして、王宮から逃げた。
聖女への殺害未遂を理由に拘束され、そのまま獄中で命を絶った公爵令嬢。
その死に向き合ったひよりが何を考えたのかは分からない。
公爵家やその関係者から恨まれているのではないか。
次は自分が殺されるのではないか。
クラリッサを愛していた王太子から何か危害を加えられるのではないか。
そうした恐怖があったのかもしれないが、今となっては真実を知る術はない。
ただ結果として、十八歳の少女は、聖女として正式な儀式を受けるため大神殿へ移動していた途中、人目を盗んで一人逃げた。
異世界から来てまだ日も浅く、道も分からない。
この国の治安も、旅の常識も知らない。
日本で暮らしていた彼女に、街道を外れることがどれほど危険か、武装した盗賊がどういう存在なのかなど、本当の意味では理解できていなかったのだろう。
そして、殺された。
前回の私は詳細を聞かなかった。
ただ、死後に神から聞いた話では、彼女の魂は過去へ戻せないほど傷ついていたという。
私は静かに目を伏せた。
今の彼女は、ただ焼き菓子を口に入れて、
「これ美味しいですね。」
などと朗らかに笑っている。
一度目は、この数か月後には死んでいるのだ。
一体、何が、どうなって、あのような結末を辿るに至ったのだろう。
「アメリア嬢?」
ルシアンの声で、私ははっと我に返った。
青年が気遣わしげな表情で、こちらを見ていた。
「何でしょうか。」
「……随分、怖い顔をされていますが。」
「……どういう意味でしょうか。」
「い、いえ、ご自覚がないなら――」
「世界の終焉について考えていました。」
「怖いので止めてください。」
ひよりが小さく笑った。
やはり、こちらも守らなければならない。
私は静かに、そう決めた。
ひよりとの面会を終える頃には、すでに昼を少し回っていた。
私は一度屋敷へ戻るつもりだったのだが、ルシアンが王太子殿下にも話を通してくれていたため、そのまま別の棟へ移動することになった。
そして王太子ユリウス・レイフォードとの面会は、私が部屋へ入ってから十秒もしないうちに、大変面倒なものになることが分かった。
「クラリッサはどうしている。」
挨拶より先に、それだった。
濃い金の髪を無造作に後ろへ流し、紺碧の鋭い瞳を持つ青年が、長椅子から立ち上がるなりこちらへ詰め寄ってくる。
「……ご挨拶申し上げます、王太子殿下。」
「挨拶はいい。クラリッサは本当に体調を崩しているのか。」
「はい。表向きには。」
「表向きだと?」
目つきがさらに鋭くなった。
確かに怖い。
聖女の言いたいことが少し分かった。
「誰かに何か言われたのか。教会か。父上か。それとも聖女が何かしたのか。」
「……まず座ってください。」
「そんな場合か!」
「座っていただけないなら帰ります。」
ユリウスが黙った。
私も黙って見上げる。
数秒間睨み合った後、王太子殿下は大変不満そうに舌打ちし、元の長椅子へ座った。
王族が伯爵令嬢へ舌打ちをするな。
とは思ったが、話が進まなくなるので言わないことにした。
私は向かいへ腰を下ろす。
「クラリッサ様はお元気です。」
「なら、なぜ俺に会わない。」
「少々事情がありまして。」
「俺に言えない事情か。」
「今のところは。」
「……お前、本当にアメリアか? クラリッサから聞いていた話と、随分様子が違うが。」
「イメチェンしました。」
ユリウスは訝しげに私を見た。
高い背に、凄みを感じさせるほど端正な面立ち。切れ長の鋭い瞳と、常にどこか不機嫌そうな表情。
これは、まるで気の立った肉食獣だ。
ひよりが恐れるのも分かる。
「聖女に会ったと聞いたが、殴り込みか。」
「違います。」
なんだろう。
一度目の私は、一体周囲からどう評価されていたのだろうか。
「まず、こちらから確認させてください。」
「何だ。」
「殿下は、聖女様とのご婚姻を望んでおられますか。」
「望むわけがないだろうが!」
また即答だった。
今日はよく即答される。
しかし、聞いただけなのに、なぜ怒鳴る必要があるのだろう。
「クラリッサ様との婚約解消は望んでおられる?」
「ありえんな。」
「では、クラリッサ様を愛しておられますか。」
ユリウスが、心底理解できないという顔をした。
「今さら何を聞いている。」
「確認です。」
「当たり前だ。好きでもないのに、なぜ婚約を続ける必要がある。」
「随分あっさり。」
「幼い頃からずっと一緒にいる。俺の性格も分かっているし、俺が腹を立てた時に止められるのもあいつくらいだ。頭もいいし、話も早い。余計なところで泣かない。俺が何を言っても勝手に怖がらない。」
最後だけ妙に具体的だった。
「要するに、かなりお好きなのですね。」
「最初からそう言っている。クラリッサにもよく伝えておけ。」
念を押すように付け加えた王太子を、私はじっと見つめた。
「では、なぜ聖女様との婚姻を受け入れようとしているのです。」
ユリウスの顔から、少しだけ勢いが消えた。
「受け入れてはいない。」
「ですが、完全には拒否していませんよね?」
「……俺は、王太子だ。」
低い声だった。
「俺一人が嫌だと言って済む話なら、とっくに蹴っている。だが聖典に書かれている。教会も、王家も、聖女と次王が結ばれなければ国が危ういと言う。万が一、それが本当なら、俺の感情だけで拒むわけには……いかない。」
思ったより、ずっとまともだった。
直情的に見えるが、王太子としての責任は理解している。
「では、正式に婚姻が決まった場合は?」
王太子は口を閉ざした。
先ほどまで極限まで寄っていた眉間が少しだけ緩み、こちらを窺うように紺碧の瞳が細められる。
「お前は……本当に、何があってもクラリッサの友と言えるか?」
「はい。そこを違えることはありません。彼女は私の人生において、最も大切な友人の一人です。」
王太子はゆっくりと目を閉じ、腕を組んだまま、少しだけ上を向いた。
「……逃げる。」
「……はい?」
「式の前夜に、クラリッサを連れて国を出る。」
まともだと思った直後だった。
「本気ですか。」
「本気に決まっているだろう。」
「国を捨てるのですか。」
「最後まで他の方法を探す。それでも駄目ならだ。」
ユリウスは眉間を押さえた。
「十歳下の弟がいる。年齢の割にはしっかりしているし、国の跡はあいつに任せる。……聖女との婚姻は、すぐには難しいだろうが。」
紺碧の瞳がこちらを見遣った。
「俺はそれなりに剣が使えるし、王族として一通りの教育も受けている。護衛でも傭兵でも、食っていく方法くらいある。クラリッサは俺より頭がいいし、数字にも強い。あいつと俺の二人なら、どこへ行っても生きていける。」
「……なるほど。」
「他言するなよ。」
「分かっています。」
まさか、王太子がこんなことを考えていたとは。
「資金も少しずつ国外へ移している。国境を越える経路も三つ調べた。あとはクラリッサさえ頷けば、どうにでもなる。」
「クラリッサ様には話したのですか。」
「まだだ。」
「なぜ。」
「この段階で言えば、あいつは絶対に止める。」
「でしょうね。」
「だから、ぎりぎりになってから連れていく。」
「誘拐では?」
「婚約者だ。」
「婚約者でも、本人の同意なく国外へ連れ出せば、ほぼ誘拐です。」
「途中で説得する。」
「順番がおかしいでしょう。」
「最終的に納得すればいい。」
私は額を押さえた。
なるほど。
一度目、クラリッサは確実に、この男の計画をその片鱗すら知ることなく死んだのだろう。
この傲慢野郎が。
クラリッサが、ちょっと強引なところが格好良くて可愛いとはしゃいでいたのが、本当に理解できない。
蓼食う虫も好き好きとは、このことか。
「……聖女様については、どう思っておられますか。」
「悪い娘ではないのだろうな。」
「他には?」
「……クラリッサと同じ十八だと聞いた時は、正直驚いたな。」
「なぜですか。」
「どう見ても、もっと子どもだろう。」
仮にも王太子が、聖女に対してそのような口をきいてもいいのだろうか。
「あんなちんちくりんと俺が結婚するのかと思ったら、寒気がするな。」
「いや、普通に可愛い方だと思いますがね。」
「どこが。クラリッサと比べてみろ。お前は眼球が腐っているのか。」
比べるとは言っていない。
あと、自然に悪口を紡ぎすぎだろう。
この王太子、やはり癖が酷すぎる。
言葉が足りないところも可愛いと言っていたクラリッサが、もはや痘痕も靨にしか思えない。
「それに、あいつ、俺を見ると少し後ろへ下がるぞ。」
「怖いそうです。」
「何?」
しまった。
「いえ。」
「今、怖いと言ったか。」
「聞き違いでしょう。」
「絶対言っただろう。」
「気のせいです。」
「俺のどこが怖い。」
なぜ、さも全く理解できないというように言い返せるのか分からない。
どう甘く考えても、全部だろうが。
「……そこは本人へ聞いてください。」
「会うと逃げるが。」
「もう少し、全体的に針と刃を落としては。」
「これが普通だ。意味が分からん。」
「……まあ、生まれ持った顔は変えられませんしね。」
「何の話だ。」
聖女の意見は、かなり正確だった。
しかし。
私は僅かに、目の前の青年から視線を逸らした。
彼のクラリッサへの愛は、恐らく本物だった。
一度目。
獄中で公爵令嬢が命を絶った。
王太子は、彼女の死を知った後、明らかに変わった。
元々短気だった男がさらに荒れ、周囲へ怒鳴ることが増えた。夜もほとんど眠れなくなり、食事も取らなくなったと聞いた。
それでも男は、王太子として機能し続けようとした。
壊れた機械のように動く王太子の陰で、聖女は逃亡し、死んだ。
彼の最側近であった宰相の息子も、それを追うように姿を消した。
国内情勢は乱れ、外患も増していき、王太子には彼自身の状態などお構いなしに、さらに大きな重圧が掛かったことだろう。
それでも、彼は数年間、王太子として動き続けた。
遠い異国にいた私の耳へも、
『王太子殿下は、ようやく立ち直られたらしい。』
という噂が届いたことがある。
しかし、噂は、やはりただの噂だった。
王太子は立ち直ってなどいなかった。
数年後、彼も自ら命を絶った。
公爵令嬢が亡くなった、あの冷たい地下牢で、自ら首を掻き切ったらしい。
今も腰に帯びている、その王家の印が入った長剣で。
一度目、その知らせを受けた時、私はもう、ほとんど怒ることすらできなかった。
ああ。
最後の一人も逝ってしまった。
そう思った。
目の前の十九歳の青年は、今はまだ元気に怒っている。
「だから、クラリッサに会わせろ。」
「今は駄目です。」
「なぜだ。」
「……対策中です。」
「何の。」
「バッドエンド回避の。」
「……は?」
「何でもありません。」
私は話を切り上げ、王太子殿下へ頭を下げた。
聖女。
王太子。
二人とも、原作や聖典で定められた相手との婚姻を望んでいない。
それどころか、互いへの恋愛感情すらない。
王太子はクラリッサを愛している。
クラリッサも王太子殿下を愛している。
聖女はルシアンにかなりの好意を持っている。
ルシアンも、本人は原作の強制力と言い張っているが、どう考えても聖女を愛している。
それなのに、クラリッサは原作を信じて、自分から王太子殿下を手放そうとしている。
ルシアンも原作を信じて、自分から聖女を手放そうとしている。
王太子殿下は聖典を信じて、自分の望みを限界まで押し殺そうとしている。
聖女は、周囲の求めにどこまで逆らってよいのか分からずにいる。
主要人物四名から話を聞いたのに、犯人への手掛かりはおろか、謎が深まる結果だった。
私は王宮からの帰り道、馬車の中で思わず長く息を吐いた。
今のところ、一度目の惨事の引き金となった、公爵令嬢が犯したとされた罪へ直接繋がるものは多くない。
今日聞いた、あまりにも濃すぎる二名との会話を思い返していた時、ふと、ひよりが何気なく口にしていた言葉が頭へ戻ってきた。
面会を終える少し前のことだ。
『そういえば、私が王太子殿下との結婚を嫌がった時、いつも着替えとかのお世話をしてくれる年齢の近い侍女さんにも言われたんです。』
『何と?』
『多少嫌でも、原作通りになれば最後は幸せになりますから、って。』
あの時は、ルシアンも横にいたため、彼がぽろりと零した言葉を侍女がそのまま使ったのだろうと思い、深く考えなかった。
しかし。
果たして、あのルシアンが、そんな不用心なことをするだろうか。
原作から外れることをあれほど恐れ、自分が転生者であることすら長年隠してきた男だ。
そして、この世界で「原作」という言葉を普通の侍女が自然に使う理由があるだろうか。
私は馬車の中で、ゆっくり顔を上げた。
「……サンドラ。」
「はい?」
向かいに座る侍女が、びくりとする。
「一つ聞いていい?」
「何でしょう。」
「あなた、『原作』という言葉の意味を知っている?」
サンドラは不思議そうに首を傾げた。
「げんさく……でございますか?」
「知らないのね。」
「申し訳ございません。」
「いいの。こちらこそ変なことを聞いたわ。」
私は目を細めた。
クラリッサが知っていた。
ルシアンが知っていた。
二人とも、異世界で生きた記憶を持つ人間だった。
そして、聖女付きの侍女が、その同じ言葉を使った。
黒幕探しは、どうやらまだ諦めなくてもいいらしい。
いや。
むしろ。
今度こそは、本当に近づいているのかもしれない。




