第九話 とある女の備忘録(反省文)
とある女の一生。
女は日本に生まれ、ごく普通の家庭で育ち、ごく普通に学校へ通い、そのままごく普通に就職した。特別頭が良かったわけでも、飛び抜けて美しかったわけでもない。人付き合いが極端に苦手だったわけではないが、誰とでもすぐに打ち解けられるほどの社交家でもなかった。
毎朝起きて仕事へ行き、働いて、家へ帰る。夕食を食べ、風呂に入り、少し好きなことをして眠る。休日には買い物へ出かけたり、動画を見たり、本や漫画を読んだりした。
どこにでもいる、ありふれた女だった。
ただ一つ、趣味で小説を書いていた。
投稿先は『小説家になろう』。異世界に魔法、王子様に聖女、勇者に魔王。現実には存在しない、そういうものが昔から好きだった。
仕事から帰った後に少しずつ文章を書き、休日になれば続きを書いて投稿する。翌朝、目を覚ますとまずアクセス数を確認した。ほとんど増えていない。仕事の休憩中にもう一度見ても変わらない。帰宅してから確認すると、ようやく少しだけ数字が増えている。嬉しくなってブックマークを見るが、そちらは増えていない。感想もない。
それでも、また書いた。
自分では面白いと思っていたし、書くこと自体も好きだった。けれど、なかなか読んではもらえない。別の作品を書いても駄目で、それを完結させて次を書いても、やはり大して変わらない。
そんなことを何度も繰り返していたからこそ、『聖女は王冠の花となる』という作品が、それまでのものより少し多く読まれた時、女は本当に嬉しかった。
異世界から召喚された少女が王太子と出会い、何も分からない彼女を王太子が助ける。二人で困難を乗り越えるうちに惹かれ合い、最後には世界を救って結婚する。
最初は、それだけの話だった。
聖女の名前はひより。王太子の名前はユリウス。クラリッサという婚約者など存在せず、後に重要人物となるルシアンも、その頃は物語の中心に立つような役ではなかった。
よくある話だという自覚は女にもあった。それでも、それまでの作品よりは明らかに読まれた。ランキングにも一瞬だけ名前が出て、ブックマークが増え、ついには感想まで届いた。
もっと読んでほしい。
女が思ったのは、ただそれだけだった。
書いたものを誰かに読んでもらえれば嬉しい。面白かったと言ってもらえれば、もっと面白いものを書きたくなる。それは、創作をする人間ならそれほど珍しい感情ではないだろう。
そこで女は、当時よく読まれていた作品を眺めた。
どうやら王子には最初から婚約者がいた方が、恋愛に障害ができて盛り上がるらしい。
悪役令嬢。
なるほど。
面白そうだ。
そうして、クラリッサ・アルヴェーンが生まれた。
二稿目では、クラリッサはユリウスの婚約者だった。突然現れ、ユリウスと親しくなっていくひよりを嫌い、礼装を傷つけたり、小さな意地悪をしたりする。ただし根っからの悪人ではなく、最後には自分の過ちを認め、自ら修道院へ入る。
――その版を読んだ者の一人に、後のエステル・ハースがいた。
しばらくして、女はまた考えた。
もう少し事件があった方が、物語として盛り上がるのではないか。
そこで三稿目では脅迫状を追加し、嫌がらせの数も増やした。事件が露見した後、クラリッサとユリウスの婚約は一時保留。クラリッサは公爵家へ戻され、数か月の謹慎処分を受ける。
それでも、死にはしない。
――その版を読んだ者の中に、後のノア・ベルマンがいた。
さらに少し経った頃、今度は悪役令嬢への強い『ざまあ』がよく読まれているように見えた。
ならば、クラリッサをもっと悪くした方がよいのかもしれない。
四稿目では、さらに内容を過激にした。
毒を盛る。
教会でも事件を起こす。
最後には殺害未遂にまで至り、断罪され、投獄される。
そして、獄中で死ぬ。
女はクラリッサを、以前とは比べものにならないほど酷い悪役へ書き換えた。その方が、主人公であるひよりが最後に幸せを掴む場面も映えると思ったからだ。
この版を読んだ者の一人が、後のクラリッサ本人だった。
――後にセシル・ラードになる青年も、この稿にかなり近い内容を読んでいた。
ところが、さらに時間が経つと、また女の気分が変わった。
最近は、悪役令嬢を一方的に酷い目へ遭わせる話も多すぎる気がする。それよりも、格好いい男性を増やした方が読者は喜ぶのではないだろうか。
逆ハーレム。
それは、なかなか良さそうだった。
五稿目では、宰相の息子であるルシアンを大きく取り上げ、さらに騎士団長の息子、神官、隣国の王族など、ひよりを取り巻く男性を何人も増やした。最終的にひよりがユリウスを選ぶという筋だけは変えなかったが、ルシアンには相当な見せ場を与えた。
柔らかな物腰で、美しく、頭が良く、どこか影がある。そして主人公を思いながらも報われない。
そういう男。
女自身、当て馬としてはなかなか上手く作れたと思っていた。
一方のクラリッサは早々にユリウスとの婚約を解消し、悪役としての役目もほとんどなくなって、物語の表舞台から退場した。後日談に、国境近くの貴族家の男性と結婚し、普通に暮らしていることが少し書かれただけだった。
――この版を読んだ者の中に、後のルシアン・オルブライトがいた。
どの版も、女にとっては同じ『聖女は王冠の花となる』だった。
削除して、直して、書き足して、また直す。
紙の本ではない。一冊の完成品として世に出て、その形のまま残った作品でもない。ただのWeb小説だったから、女自身、それほど深く考えていなかった。
誰が、いつ、どの版を読んだのかなど。
◇
作品がそれなりに読まれるようになった頃、女は死んだ。
事故だった。
あっけないものだった。
死ぬつもりなど、もちろんない。書きかけの作品もあったし、読みかけの漫画もあった。近いうちに行こうと予約していた店もあれば、明日出社したら片付けなければならない仕事だってあった。
それでも、死んだ。
そして次に目を開けた時、目の前にいた何かから、妙なことを言われた。
『現在、管理者を必要としている世界があります。』
『……管理者?』
『はい。』
『神様みたいな?』
『現地の人間からは、そのように認識される場合があります。ただし、あなた自身が世界の創造主になるわけではありません。権限には制限があります。』
女は詳しい説明を聞いた。
世界そのものはすでに存在しており、そこには生命も、国も、積み重ねられた歴史もある。管理者の仕事は、その世界で大規模な破綻が起きないよう、必要に応じて調整を行うことだった。
一定の条件下であれば、魂を別の世界へ転生させることもできる。異世界から人を召喚することも、現地では奇跡と呼ばれるような現象を起こすことも、自分の声を聞き取れる人間を指定することも可能だという。
ただし、人間の人格そのものを好き勝手に書き換えることはできない。
誰を好きになるのか、何を嫌うのか、何を選ぶのか。そういった自由意思へ直接介入する権限には、厳しい制限が設けられていた。
『……面白そう。』
女が思ったのは、本当にそれだけだった。
元の人生へ戻れるわけではない。生き返ることもできないという。ならば、やってみよう。
そうして女は、神になった。
正確には、人間たちから神と呼ばれる『管理者』に。
◇
最初の頃は、ただ楽しかった。
自分が昔、小説の中に書いていたような世界が本当に目の前にある。魔法があり、王国があり、魔物がいて、人々が剣を持って戦っている。
ならば、少しくらい自分の好きだった設定を混ぜてみても構わないだろう。
王子、公爵令嬢、聖女、勇者、魔王。
名前についても、昔自分が書いたものから少し借りた。どうせ元は自分の作品なのだから、著作権の問題もない。
女は楽しかった。
ただ、人間というものは、驚くほど思い通りには動かなかった。
王子と聖女を出会わせれば、王子は全く別の女を好きになった。
勇者を選び、魔王を倒す物語にしようとすれば、
『魔王討伐なんて嫌です。』
と、そもそも旅へ出ることすら拒否された。
聖女を召喚してみれば、王子ではなく神官と恋に落ちた。
『え。そっち?』
女は本気で驚いた。
公爵令嬢を王子の婚約者として配置したのに、その令嬢が王子へ全く興味を示さなかったこともある。
『いや、そこはもう少し……。』
もちろん、だからといって直接好きにさせることはできない。恋愛感情を植え付ける権限など持っていないし、性格を都合よく変更することもできない。
まあ、最初のうちは、それも面白かった。
小説を書いていた頃なら、登場人物は自分が考えた通りに動く。しかし本物の人間は、勝手に考え、勝手に選び、予想もしなかった方向へ進んでいく。
それはそれで新鮮だった。
しかし、何度も何度も同じようなことを繰り返しているうちに、女は一つのことに気づいた。
人間一人を直接動かすのは難しい。
けれど、人間を動かす仕組みを作ることならできるのではないか。
そこで女は、ある人間に自分の声が聞こえるようにしてみた。
『勇者を助けてください。』
そう伝えると、その人間は周囲へ、
『神のお告げだ。』
と言った。
すると、他の人々が従った。
『……おお。』
女は純粋に感心した。
次には、
『聖女と勇者が協力してください。』
と伝えてみた。
人間たちはまた従い、その結果、魔王討伐は上手くいった。
『これならいける。』
神の声を聞く人間がいて、その言葉を書き残す者がいて、それを大切なものとして守ろうとする者が増えていく。
やがて組織が生まれた。
――教会。
神の言葉は記録された。
――神告。
そして、それらが大切な教えとして勝手にまとめられていった。
――聖典。
随分便利だった。
勇者と聖女を組ませたいなら、そう告げればいい。異界から来た賢者の知識を広めたいなら、王家へ迎えよと伝えればいい。王家から生まれた人間を中心として災厄へ対処させたければ、そのように言葉を下せばいい。
人間は、本当によく動いた。
一人一人へ直接働きかけるよりも、遥かに簡単だった。
女は思った。
便利だ、と。
そして、これなら物語を作れる、と。
少しずつ、人間は女の中で登場人物になった。国は舞台になり、神告は筋書きを前へ進めるための指示になった。
だが女自身は、その変化にほとんど気づかなかった。
悪いことをしているつもりなどない。世界を滅ぼしたいわけでも、人間を苦しめたいわけでもなかった。
むしろ逆だ。
世界は大切だったし、人間のことも好きだった。
皆に幸せになってほしい。
それは嘘ではない。
ただ。
女にとっての『皆の幸せ』には、いつの間にかほんの少しだけ、
『自分が思うとおりに。』
という条件が混ざるようになっていた。
◇
そしてある日、女は昔のことを思い出した。
『聖女は王冠の花となる』
唯一、それまでより少し多くの人に読んでもらえた作品だった。
自分が死んだ後、あの話を読んでくれた人たちはどうしたのだろう。
ふと懐かしくなり、そして思いついた。
『そうだ。あの作品を読んでくれた人たちを、この世界へ呼んだら喜ぶんじゃない?』
自分が読者の立場だったなら、好きだった物語の世界へ行けるのはきっと楽しい。推しに会えて、現世とは全く違う暮らしができる。魔法だって存在している。
かなり嬉しいに違いない。
もちろん、生きている人間を無理矢理連れてくるわけにはいかない。だが、すでに元の世界で生涯を終えた魂のうち、条件に合うものならば、管理者としての権限で転生させることができた。
それなら、どうせなら記憶も残してあげよう。
その方が絶対に楽しい。
女にとって、それはちょっとした特典だった。
かつて自分の作品を読んでくれた人たちへの特別な招待。
読者サービス。
そこに何か問題があるとは、欠片も思わなかった。
だから、確認もしなかった。
誰が、いつ、どの版を読んだのかを。
◇
今回用意した舞台を、女はかなり気に入っていた。
王太子ユリウス。
公爵令嬢クラリッサ。
宰相の息子ルシアン。
そして異世界から直接召喚する、本物の日本人、高瀬ひより。
かなり原作に近い。
しかもクラリッサもルシアンも、その周囲へ配置した何人かの人間も、かつて『聖女は王冠の花となる』を読んでくれた読者だった。
『これは楽しいだろうな。』
女は本気でそう思った。
自分が読んだ作品の登場人物として生まれ、その世界の中で暮らし、未来の出来事まで知っている。
きっと普通の人間よりも上手くやれる。
ところが、始まってみれば、全くそうはならなかった。
ユリウスはクラリッサが好きだった。
『……あれ?』
ひよりは、そのユリウスを怖がった。
『え?』
ルシアンは、ひよりを好きになった。転生者なのだから結末を知っているはずなのに、それでも好きになった。
『そこは原作でも、まあ、そうだけど。』
ところが、ひよりまでルシアンを気に入った。
『待って。』
さらにクラリッサは、ユリウスが好きなくせにひよりへの嫌がらせなど一つも始めず、それどころか婚約を解消して彼から離れようとした。
こちらもせっかく読者としての記憶を残して転生させてあげたのに、なぜもっと積極的に動かないのだろう。
『何で?』
女には分からなかった。
皆、読者なのに。
物語を知っているのに。
どうして揃いも揃って、そんなに難しい方向へ進むのだろう。
しかも、ひよりとユリウスの婚姻については、聖典へもきちんと神告を残しておいた。設定上も物語上も、二人が結ばれるための道は用意してある。
なのに、全く進まない。
『今回も駄目かな。』
女が少し残念に思い始めた、その時だった。
聖女の礼装を、誰かが切ろうとした。
『……あ。』
女は見た。
エステル・ハース。
昔の読者だった。
『そうそう。』
少し嬉しくなった。
その次には、ノア・ベルマンが脅迫状を送った。
『おお。』
さらに、セシル・ラードが毒を用意した。
『そこまで覚えてるんだ。』
女は感心した。
読者たちが、自分たちの手で原作から外れ始めた世界を修正している。
『やっぱり読者ってすごい。』
女は、本気で感動していた。
自分が一々神告を下さなくてもいい。原作を知っている人間たちが自主的に動き、正しい方向へ物語を戻してくれる。
だから少しくらい予定と違っていても、最後にはきっとひよりとユリウスが結ばれ、世界は救われる。
そう思った。
ところが。
クラリッサが死んだ。
『……え?』
マリエルも死んだ。
『待って。』
ひよりが逃げた。
『そっちは駄目。』
そして、そのまま死んだ。
『……嘘。』
ルシアンは姿を消した。
ユリウスは壊れた。
眠らなくなり、ほとんど食べなくなり、それでも何年かは王太子としての役目を続けた末に、最後にはクラリッサが死んだのと同じ地下牢へ入り、自ら喉を切った。
『待って。』
国まで傾いた。
『待って待って待って。』
そんなつもりではなかった。
女は本気で焦った。
皆に幸せになってほしかったのだ。
昔、自分の作品を読んでくれた人たちにも、推しに会い、物語の世界で楽しく暮らし、未来まで知っているからこそ普通の人間より上手く立ち回って、幸せになってほしかった。
そんなつもりしかなかった。
なのに、全員が不幸になった。
『どうして。』
女は調べた。
何が起きたのかを一つずつ確認して、そこでようやく気づいた。
エステルの知っている原作と、ノアの知っている原作が違う。
クラリッサの知っている原作とも、ルシアンの知っている原作とも違う。
『……え。』
女はしばらく考えた。
それから。
『あ。』
思い出した。
『私、改稿した。』
それも、一度や二度ではない。
かなり大幅に。
『……。』
これは。
ひょっとすると。
まずかったかもしれない。
主要人物たちの死後数十年経って、本格的に国が崩壊を始めたのを見て、女は焦った。
このままでは、数名の主要人物だけでなく、多くの人々を巻き込んで国自体が滅んでしまう。
転生させた他の読者にもこれでは顔向けできない。
◇
管理者として仕事を始めた時、女は上位の存在から一つだけ、特殊な権限を渡されていた。
世界運営に致命的な失敗が発生した場合に限り、一度だけ時間を大きく巻き戻すことができる、緊急措置。
使えるのは一回。
本当に、一回だけ。
使うなら今だった。
女は迷わず権限を使った。
ただし、一つ問題があった。
単純に時間だけを戻しても、また同じ結果になる可能性がある。ならば誰か一人、一度目に何が起きたかを知る人間へ記憶を持たせたまま過去へ戻す必要がある。
しかし、時間を越えて大量の記憶を保持するには、その魂自体が十分に安定していなければならなかった。
女は候補者を探した。
クラリッサは駄目だった。死そのものを選んだからではない。死に至るまで、長い時間を恐怖と絶望の中で過ごし、最後まで自分の人生を運命に押し潰されたと思い込んでいた。その傷があまりにも深かった。
マリエルも難しい。
ひよりも。
ルシアンも。
ユリウスなど、なおさらだった。
皆、死ぬまでにあまりにも深く傷ついていた。
『困ったな。』
さらに探す。
そして、一つだけ妙に安定した魂を見つけた。
『……誰?』
確認する。
アメリア・ローデン。
『ああ。クラリッサの取り巻き。』
物語の序盤で国外追放になり、それ以降はほとんど本筋へ関わっていなかった女だった。
管理者は、その後の人生を確認した。
国外追放され、他国で働く。旅へ出て、妙な男と出会う。結婚し、仕事をし、遺跡を発掘し、各地を旅する。子供が生まれ、孫が生まれ、曾孫まで生まれた。
そして最後には、夫と大勢の家族に囲まれて、老衰で死んだ。
『……すごい。』
女は少し驚いた。
別に世界を救ったわけではない。
王妃になったわけでも、聖女でも勇者でもない。歴史の教科書に大きく名を残したわけですらない。
それなのに。
『この人、めちゃくちゃ人生楽しんでる。』
魂も驚くほど安定していた。
皮肉なことに、物語から最も早く追い出されたからなのかもしれない。その後の彼女の人生には、神からの指示も、原作上の役割も、ほとんど存在しなかった。
『これならいける。』
女は決めた。
次に考えなければならないのは、アメリアにもう一度人生をやり直してもらう理由だった。
彼女はすでに八十年以上生き、満足して死んでいる。そんな人間へいきなり、
『では十代から、もう一回お願いします。』
と言ったところで、普通は嫌がるだろう。
そして、一度目の結果を見る限り、ひよりとユリウスはどう考えても無理だった。
『……相性悪すぎるな。』
ならば、ユリウスとクラリッサでいい。
どう見ても、そちらの方が自然だった。元々、互いに好きなのだから。
とはいえアメリアへ、
『ユリウスとクラリッサを結婚させてください。何となく、その方が上手くいきそうなので。』
と頼むだけでは、さすがに弱い。
女は考えた。
『えーと……世界のため、とか?』
それなら動くだろうか。
『百年後くらいにして……二人の子孫から勇者が生まれる。うん。その勇者が世界を救う。だから二人が結婚しないと世界が滅びる。』
それっぽい。
『よし。それでいこう。』
◇
『お願いしたいことがあります。』
女がそう言うと、アメリアは最初、随分嫌そうな顔をした。
当然だった。
八十年以上を生きた直後に、もう一度十代から人生を始めてほしいと言われて、即座に喜ぶ人間の方が珍しい。
そこで女は説明した。
一度目の世界が失敗したこと。クラリッサを始め、多くの人間が死んだこと。そして百年後、ユリウスとクラリッサの子孫から世界を救う勇者が生まれること。
『二人が結ばれなければ、未来で世界が滅びます。』
アメリアは考えた。
しかし意外にも、すぐに聞き返してきたのは世界のことではなかった。
『いつへ戻るのです?』
女が日付を答える。
すると、それまで露骨に面倒そうだったアメリアが、急に言った。
『引き受けます。』
『早いですね。』
女は少し驚いた。
『条件があります。世界を救った後、私は自由にして構いませんね。』
『もちろんです。』
女はすぐに答えた。
世界さえ修正できれば、その後のアメリアがどこへ行き、何をして生きようと問題はない。
『では、お願いします。』
そうしてアメリア・ローデンは、もう一度過去へ戻った。
◇
そこからは、女自身も少し驚かされた。
アメリアは思っていた以上に仕事が早かった。
まずクラリッサと話し、証拠を残すよう指示を出した。
『なるほど。』
ルシアンへ辿り着いた。
『早いな。』
エステルを捕まえた。
『え?』
ノアまで見つけた。
『もう?』
続いてセシル。
『そこまで行く?』
そして。
聖典。
『……。』
女は少し嫌な予感がした。
アメリアが過去の神告を掘り始めたからだ。
一冊、二冊と調べ始め、十冊を越え、ついには百冊単位の資料を集め始めた。
『いや、そこまで調べなくても。』
もちろん、止める方法がないわけではない。
新たな神告を下して、
『それ以上調べるな。』
と言わせることくらい、理屈の上では可能だった。
だが、それをするのも何となく格好悪い気がした。
だから女は黙って見ていた。
そして、聞いてしまった。
『まるで、その時に思いついたことを、人間に実行させようとしているみたいだ。実験か、遊びか。』
『……。』
女は黙った。
別に誰かから責められたわけではない。
自分がここで見ていることを、アメリアは知らない。
それでも少しだけ気まずかった。
さらにアメリアは、国王や王妃、大司教まで集めた。
『神がいることと、神へ従わなければならないことは同じではありません。』
『……なるほど。』
女は感心した。
確かに深い。
『未来が決まっているとしても、それを盾に他人を傷つけてよい理由にはならない。自分の人生を諦めてよい理由にもならない。』
『うん。』
それは確かに大事なことだ。
『事実がどうであれ、そう信じて生きることは、きっと人間にしかできません。それだけは、神にもできないことです。』
女は少し考えた。
『人間ってすごいな。』
素直に感心した。
そして、
『神意は、本人の同意の代わりにはなりません。』
という言葉を聞けば、
『そうか。』
と頷いた。
勉強になる。
女はちゃんと反省した。
少なくとも。
本人は、そのつもりだった。
◇
やがて、一度目に崩壊した世界の問題はひとまず片付いた。
するとアメリアは、それまで以上の勢いで国外へ向かい始めた。
『え? どこ行くの?』
女は気になって、その行き先を追った。
辿り着いたのは、小さな宿場町だった。街道が二つに分かれる場所で、アメリアは夕方まで一人、誰かを待ち続けていた。
やがて、一人の青年が歩いてくる。
『あ。』
女は思い出した。
アメリアの魂を調べた時、その人生のほとんどを隣で過ごしていた男。
エドガー。
当然まだ若く、何十年も連れ添ったアメリアのことなど知りもしない。
その男を見た瞬間、アメリアが泣いた。
女は少し驚いた。
『この人、こんな顔もするんだ。』
いつも何かに腹を立てているような顔をして、誰かを問い詰め、証拠を集め、休む暇もなく動いていた女が、ただ一人の青年を見つけただけで泣いている。
しかも、その後には笑った。
女がこれまで一度も見たことがないほど、嬉しそうに。
『初めまして。あの、お名前は――』
そう言ったアメリアを、女はしばらく眺めていた。
『……面白いな。』
本当に、人間というものはよく分からない。
八十年以上一緒に生きた相手だという。自分だけは何もかも覚えているのだから、
『前の人生では夫婦でした。また結婚しましょう。』
と最初から言えば早いはずだ。
でも、アメリアはそうしなかった。
相手にも改めて選ばせるらしい。
自分も、もう一度選ぶらしい。
面倒だ。
非効率だ。
未来は何も分からない。同じように愛し合える保証も、同じ家族が生まれる保証も、一度目と同じ人生を送れる保証もない。
それなのに。
アメリアは、あんなにも嬉しそうだった。
女には、まだ完全には理解できなかった。
ただ。
少しだけ。
良いものを見たような気はした。
◇
さて。
今回の件については、いくつか反省点がある。
まず一つ目。同一作品を複数回、それも大幅に改稿している場合には、読者を転生させる前に、その人物がどの版を読了しているのか確認すること。
これは重要だ。
かなり重要。
二つ目。複数の記憶保持者を、同一の物語圏内へ集中して配置しすぎないこと。それぞれが『自分だけが未来を知っている』と思い込み、独自に行動する可能性がある。
三つ目。転生者へ前世の記憶を残す場合、その情報をどのように扱うべきかについて、あらかじめ説明しておくこと。未来を知っているからといって、自分で事件を起こしてよいわけではない。
これは今回、よく分かった。
四つ目。過去に出した神告と、現在進行中の筋書きに矛盾がないか事前確認すること。以前に『聖女と次王が婚姻する』という神告を残しておきながら、後になって『ユリウスとクラリッサの子孫から勇者が生まれる』などと言えば、現地の人間が混乱する。
これは完全に管理上のミスだった。
五つ目。特に恋愛を中心とした物語を作る場合、主要人物同士の相性は早い段階で確認すること。
今回のように、主人公と王子が互いに全く好みではない場合、無理に進めようとすると非常に面倒なことになる。
そして六つ目。
人間の自由意思については、もう少し考慮すること。
これも、大事。
恐らく。
以上。
女は、自分で作った反省文を最初からもう一度見直した。
悪くない。
ちゃんと反省できていると思う。
今回は、本当に大変だった。自分が招待した読者たちまで死なせてしまったのは、さすがに良くなかった。
せっかく自分の作品を読んでくれた人たちなのだから、次はもっと楽しく、もっと上手く、最後まで幸せになれる物語にしてあげたい。
人間って、やっぱり複雑だ。
全然、思った通りに動かない。
でも、だからこそ面白いのかもしれない。
現実は小説より奇なり、っと。
まあ、今回はなんとか上手くいった。
反省点も分かったし、教訓も得た。次は作家としても、神としても、もう少し高みを目指さないと。
それにしても。
あの伯爵令嬢。
なかなか面白かったな。
魂も強そうだし。
次の主役は、彼女がいいかな。
女は、心底楽しそうに笑った。
『悪役令嬢のお取り巻き様は、原作通りの断罪を阻止したい。』 完




