第二話 悪役令嬢は、何もしていない。
アルヴェーン公爵家の応接室へ通された時、私は一瞬、場所を間違えたかと思った。
窓から差し込む午後の日差しは明るく、白い壁紙には淡い花模様が浮かび、磨き上げられた卓の上には、色とりどりの焼き菓子と小さな果実のタルトが並んでいる。銀の茶器から注がれた紅茶はまだ湯気を立て、花のような香りが部屋いっぱいに広がっていた。
いつもの三人だけの、何の変哲もない茶会である。
ただし、席についている二人の様子だけが、どう考えても茶会には似つかわしくなかった。
「……もう、終わりなの。」
クラリッサ・アルヴェーン公爵令嬢は、今にも棺へ入れられそうな顔でそう言った。
艶やかな銀金色の髪はいつもどおり美しく結い上げられ、淡い藤色のドレスにも皺一つない。それなのに、薄紫の瞳は落ち窪み、白い指は膝の上のハンカチを千切れそうなほど握り締めている。
その隣では、マリエル・ノルト伯爵令嬢が、クラリッサ以上に泣いていた。
「そんな……そんなの、あんまりですわ……クラリッサ様が……うぅ……。」
蜂蜜色の巻き髪を震わせ、何度目か分からないほどハンカチへ顔を埋める。
すでに目元は赤い。
鼻の頭まで赤い。
恐らく私が来る前から、かなりの時間泣き続けている。
私は二人の正面に座り、ひとまず黙って腕を組んだ。
「殿下は、きっと聖女様をお選びになるわ。」
クラリッサが掠れた声で続ける。
「いずれ、わたくしとの婚約は解消される。いいえ、それだけではないの。わたくしは聖女様を憎んで、酷いことをして……最後には、すべての罪を暴かれて……。」
言葉の途中で、クラリッサの喉が震えた。
「死ぬのよ。」
「クラリッサ様ぁ……!」
マリエルが再び泣き崩れた。
「わたくし、そんなの耐えられません……。クラリッサ様が亡くなるなんて……わたくしも、もう……。」
「マリエル。」
「はい……。」
「あなたまで死ぬ話にしないでちょうだい。」
「だって……。」
私は思わず眉間を押さえた。
この二人は、昔からこうだっただろうか。
いや、こうだった。
クラリッサが落ち込めばマリエルも落ち込み、クラリッサが泣けばマリエルも泣き、そこへ私が怒り出す。
三人そろって感情だけは大層忙しいのに、その結果、何一つ解決しない。
若い頃の私は、それを友情だと思っていた。
少なくとも、自分たちは互いを強く思い合っているのだと。
実際、間違いではなかったのだろう。
けれど、思い合っていることと、相手の役に立てることは別である。
「……アメリア?」
クラリッサが、不思議そうに私を見た。
「何でしょう。」
「あなた、どうしたの?」
「何がですか。」
「だって……。」
クラリッサは泣き腫らした目で私を眺め、マリエルへ視線を向ける。
マリエルも、鼻をすすりながら頷いた。
「いつものアメリアでしたら、もう少し……。」
「もう少し?」
「怒っておられますわ。」
「怒っています。」
「そうではなくて。」
マリエルは言いづらそうに口ごもった。
「もっと、こう……勢いよく。」
「聖女様なんて許さない!とか。」
クラリッサが続ける。
「王家へ文句を言いに行く!とか。」
「殿下は何を考えているのです!とか。」
「教会なんて知ったことですか!とか。」
二人は、次々と過去の私なら言いそうなことを挙げていく。
私は無言で二人を見た。
「……今も、とても苛々しているお顔ではありますけれど。」
マリエルが小さく付け加えた。
「でも、いつものように怒り狂ってはいませんわ。」
私は少しだけ目を細めた。
二人が揃って肩を跳ねさせる。
「ひっ。」
「何ですか、その反応は。」
「その目よ!」
「やっぱり怒っていますわ!」
「確かに、怒っていると言えば、怒っておりますね。」
怒っている。
大いに。
今目の前で、まだ何も起きていないうちから死ぬつもりになっているクラリッサにも。
友人が死ぬと言えば、自分まで生きていけないと言い出すマリエルにも。
そして、前の人生でこの二人と一緒になって、何一つ確かめようともしなかった自分にも。
けれど。
今回は、怒鳴る前に思い出してしまった。
二人が、前回の人生で、本当に死んだことを。
クラリッサは、聖女への殺害未遂を含む複数の罪を問われ、王太子殿下との婚約を破棄された。
公爵家の令嬢として持っていた立場も名誉も未来も、一夜にして失った。
私はその場にいた。
大勢の貴族たちの視線が集まる中で、彼女が青ざめた顔で何度も、
『違います。わたくしではありません。』
と震えながら訴えていたことも覚えている。
けれど、証拠があると言われた。
聖女の神聖な衣装を傷つけた。
脅迫状を送った。
毒を使った。
侍女へ命令した。
最後には命まで奪おうとした。
すべてが公爵令嬢へ結びつけられ、教会もそれを認めた。
クラリッサが何を言っても、聞く者はいなかった。
やがて彼女は拘束され、私たちも別々に処分された。
私は身分を奪われた上で、国外追放。
マリエルは実家へ戻され、謹慎。
それから少し経って、私は遠い異国の地でクラリッサの死を知った。
処刑ではなかった。
少なくとも、私が聞いた話では。
彼女は拘束されていた最中、自ら命を絶った。
どうやって、などという細かなことまでは知らない。
ただ、最期まで自分の無実を訴えていたこと。
それでも最後には、
『結局、どう足掻いてもこうなる運命だった。』
と口にしていたらしいことだけは、後になって人伝に聞いた。
その時の私は、腹を立てた。
王家へ。
教会へ。
王太子殿下へ。
聖女へ。
そして最後には、死んでしまったクラリッサ本人へさえ。
なぜ死んだのだ。
生きていれば、いつか何かを証明できたかもしれない。
遠い土地へ逃げてもよかった。
名を変えてもよかった。
生きてさえいれば。
悔しさに泣きながら、そんなふうに思った。
けれど今、まだ十八ほどの彼女を目の前にすると、その怒りは少し違って見える。
彼女は、まだ何も起きていない今の時点ですでに、
『私は最後には死ぬ。』
と信じている。
やはり、どう考えてもおかしい。
現時点では聖女が現れただけだ。
聖典には確かに聖女が王妃となることは定められているが、王太子の婚約者を罪に問わねばならない、処断しなければならないなどとは書かれていない筈だ。
そして、前回もこの頃から、そうだったのだ。
彼女はなぜか自分が聖女を虐げ、最後は死んでしまうと、思い込んでいた。
私はそれを、愛する人間と約束された将来を失う恐怖が生み出した妄信と考えていたが、それにしては、先ほどの発言がやけに浮いて見えた。
確かにクラリッサは少々思い込んだら猪突猛進というか、多少勢いが止められない点はあるが、基本的には素直で親切で明るく、頭も良い。
何の勝算も、計画もなく、またわざわざ疑われるような証拠を残して聖女に害を加えるような人間では、決してない。
でも結果として彼女は自分の発言していた通り、断罪され、そしてその結末をなぞるように死んだ。
「クラリッサ様は何も悪くありません……。」
嗚咽を交えながら震える声に、私は、クラリッサの横で、彼女よりも青ざめた顔をして、目をはらし涙を零す少女に目を遣る。
マリエル・ノルト伯爵令嬢。
彼女も、死んだ。
マリエルには直接、聖女への傷害に関わったという証拠は見つからなかった。
そのため投獄や国外追放までにはならなかったが、生涯に渡っての謹慎処分が言い渡された。
自宅軟禁、という言い方が相応しいかもしれない。
社交界へ出ることは許されず、家名を守るために、家族から外出も手紙も厳しく制限されたという。
クラリッサは獄中で死んだ。
私は国外追放となり、生死さえ国に伝えられない状況だった。
これまで手を取り合い生きてきた三人の令嬢の中で、マリエルだけが、一人残された。
もともと彼女は、自分から前へ出る性格ではなかった。
クラリッサが笑えば共に笑い、私が怒れば慌てて宥める、心優しく、しかし気弱な少女だった。
三人でいる時だけ、緊張が解けて、やっと心から安心ができるのだと、時々恥ずかしそうに告げていた。
しかし、その恐らく心の支えのように思っていた二人が、同時にいなくなった。
彼女があの後、どのように自分の身の上を思い、どのように未来を考えたのか、それを知る術は私にはない。
私が知っているのは、彼女が自ら命を絶った、ということだけだ。
クラリッサが亡くなって半年後だったという。
最も、私がそのことを知ったのは、彼女が亡くなってから三年も経った後だった。
私は悔しかった。悔しくて悔しくて、やはり涙を流しながら怒った。
けれど。
目の前で、
「クラリッサ様が死ぬなら、わたくしも……。」
と泣いている少女を見ると、今度は別の意味で腹が立ってきた。
なぜ、マリエルまで死ぬ必要があったのか。
前回、なぜその言葉の通り選ぶ必要があったのか。
私は息を吐いた。
「まず、順番に整理しましょう。」
「順番?」
「現在までに何が起きたのかです。」
私は持参した鞄を開け、紙とペン、それから小さなインク壺を取り出した。
二人の顔が揃って引きつる。
「尋問?」
「脅迫?」
「共に違います。」
「……お茶会へ、筆記具を持参する方を初めて見ましたわ。」
「私も、前回は持ってきませんでした。」
「前回?」
「……何でもありません。」
余計なことを口にした。
私は紙を卓の上へ置き、ペン先へインクを含ませる。
「まず、聖女様が現れた。それ以外に、今のところ何か起きていますか。」
「何か、とは?」
「王太子殿下から正式に婚約解消を申し渡されましたか。」
「……いいえ。」
「教会から、殿下と聖女様を婚姻させると正式に通達がありましたか。」
「まだ、そこまでは。」
「聖女様とお会いになりましたか。」
「いいえ。」
「聖女様から何か言われましたか。」
「会っていないのだから、言われるはずがないでしょう。」
「では、王太子殿下が聖女様を愛しているという事実は?」
「それは、まだ……。」
「あなたが聖女様を害した事実は?」
「ありませんわ!」
クラリッサが勢いよく顔を上げる。
「では、現時点で確定しているのは、異世界から聖女様が現れたという一点だけですね。」
「でも、それで十分なのよ。」
「何が十分なのですか。」
「すべてが始まったということよ。」
「何が、始まったのですか?」
クラリッサは唇を噛んだ。
私はペンを止めた。押し黙る美しい少女をじっと見つめる。
――何か知っている。
彼女は、ただ怯えているだけではない。
なぜか、未来の出来事を、すでに決まった事実のように語っている。
「なぜ、聖女様が現れただけで、ご自分が死ぬと、仰るのですか?」
「それは……。」
「誰かに言われたのですか。」
「違うわ。」
「教会の聖典に、あなたが死ぬと書いてあるとでも?」
「いえ、聖典ではないわ……。」
「では、何なのです。」
「……そう、夢を。夢を見たのよ。」
クラリッサは目を逸らした。とても不自然に。
「夢?」
「ええ。昔から、何度も……。とても長くて、現実としか思えないような夢よ。」
「その夢の中で、ご自分が聖女様を虐げて死んだとでも?」
「そうよ。」
「そして、夢で見たことが現実に起きると信じていらっしゃる。」
クラリッサの表情が僅かに強張った。
「……ええ。」
「たかが夢を?」
「たかがではないわ!本当に、必ずそうなる正夢なのよ!」
私は眉を寄せた。
クラリッサは別に夢見がちな少女ではない。むしろ非常に現実的で、堅実な少女である。
話をしていても、心神耗弱状態にあるようにも見えない。
夢、という説明にはかなり無理があるように思えた。
「……まあいいでしょう。その夢では他にどのようなことが起こったのです?」
「殿下が聖女様を愛する。そして、わたくしとの婚約を破棄する。その後、聖女が国を救うの。」
「……国を救う。」
「聖女様と殿下が結ばれなければ、最後には世界そのものが滅びるのよ。」
「なんとも……随分と壮大な夢ですね。まるで、童話の物語のような。」
「だから信じてくださらないと思ったのよ!」
クラリッサが声を荒らげた。
その横で、マリエルが再び泣き出した。
「クラリッサ様、心まで壊れてしまわれて……うぅ……。」
「マリエル。」
「はい……。」
「今は泣くのを止めて。」
「止まりませんの……。」
確かに止まらないらしい。
頬を伝う涙を拭いても拭いても新しい涙が溢れ、とうとう呼吸まで浅くなってきた。
「もし、もしもクラリッサ様が死んでしまわれたら……わたくしは……わたくしは……何だか……。」
マリエルがふらりと体を揺らした。
私は慌てて椅子から立ち上がる。
「ちょっと、顔が青いわよ。」
「少し、き、気持ちが……うっ。」
「誰か。」
呼び鈴を鳴らすと、すぐに公爵家の侍女が入ってきた。
「マリエル様を横になれる部屋へ。水も用意してあげて。」
「で、でも、クラリッサ様が……。」
マリエルが弱々しく手を伸ばす。
「いいから、一度横になりなさい。」
「で、でも……。」
「戻れるようになったら戻ってくればいいから。」
マリエルは名残惜しそうにしながらも、侍女に支えられ、よろよろと部屋を出ていった。
扉が閉まる。
部屋が急に静かになった。
私は座り直し、クラリッサを見る。
「さて。」
「まだ続けるの?」
「ええ、もちろんです。」
クラリッサは私の顔を見て、表情を引き攣らせた。
「先ほどのお話、夢というには、ちと無理がありませんか。」
彼女の肩が微かに揺れた。
「どういう、意味かしら?」
「夢にしては、あまりに具体的すぎます。そして、あなたがそれを妄信していることも、非常に不自然です。」
「でも、本当に夢で見たのよ。」
「先ほど、『始まった』と仰いましたね。」
「……。」
「一体、何に囚われていらっしゃるのです。」
クラリッサは、長い間黙っていた。
やがて、観念したようにハンカチを膝へ置く。薄紫の美しい瞳が迷うように揺れていた。
「……アメリア。」
「何でしょう。」
「もし……もし、わたくしが、この人生の前にも、一度生きたことがあると言ったら……信じる?」
「……どういう、意味ですか。」
今度は、私が尋ねる番だった。
「そのままの意味よ。」
「人生の前……」
私ははっとして、目を見張った。
神は、まさか手違いをしたのだろうか。
「……クラリッサ様、もしかして一度死んで帰って来られたのですか?」
「え?……帰って来たとは?」
彼女は戸惑うように眉を顰めた。
「ですから、前回投獄されて自身で命を絶たれた、というご記憶を持って、今回帰されているのですか、とお聞きしているのです。」
クラリッサは更に混乱したように慌てて頭を振った。、
「違うわ、回帰ではなくて転生よ。」
「転生?」
クラリッサは静かに頷いた。
「今のわたくしとして生まれる前、わたくしは別の世界で生きていたの。」
別の世界。
私は思わずペンを置いた。
「……別の、世界。」
「恐らくだけど、聖女様と同じ世界だと思うわ。」
「聖女様のように、召喚された……のですか?」
「違うの。体ごと来たわけではなく……こちらでは、普通に赤ん坊として生まれたの。ただ、異世界で生きていた前の人生の記憶が、残っていた。」
「回帰、ではなく?」
「回帰、ではないわね。」
これは大変なことになった。
私は心の中で頭を抱えた。
「本当に回帰ではないのですか?」
「回帰?さっきからあなたは何を言っているの?」
私は思わず口を噤んだ。
確かに私の状況もおかしい。おかしいが……。
なんと、最重要人物ともいえる公爵令嬢が、特殊仕様だったとは。
現状を整理しよう。
まず、私は平凡な公爵令嬢の取り巻きの一人だったが、死んだ後に公爵令嬢の死を食い止めるために、神という存在によって現在一回目の記憶を有したまま、二回目の人生を繰り返している。
しかし、その対象者である公爵令嬢には、一回目の人生の記憶はないが、その更に前の異世界に暮らしていた時の人生の記憶があるという。
そして、その異世界が、恐らく聖女様の同郷だと。
何を言っているのか、正直よく理解できない。
死んだ後、別の人間として生まれ直す。
しかも別世界で。
さらに、前の人生の記憶まで持っている。
そんな話は聞いたことがない。
召喚でも、回帰でもなく、『転生』というらしい。
なんということだ。これが本当なら、この世界は大分私たちが知る姿とは異なっている。
自分のことは棚に上げて、暫し無言で目の前の少女をじっと見遣る。
「そ、その……前世、と呼んでいたわ。」
「ぜんせ?」
「前の人生という意味。」
「なるほど。」
言葉の意味だけは分かった。
仕組みは分からない。
私は、一旦理解をすることを止めて、現状の把握に努めることにした。
「それで、あなたは、その前世とやらで何を見たのですか?」
「小説を読んだの。」
「しょうせつ。」
「物語を書いた本のことよ。」
「物語本。」
「ええ。そうね、それが近いと思うわ。」
「その物語本に、先ほどおっしゃられた内容が記されていたと?」
「そうよ。」
私は黙った。
要するに。
クラリッサが以前暮らしていた、おそらく聖女様が居られた異界には、この国と同じ人物が登場し、まだ起きていない未来まで記された書物が存在した。
そして彼女は、それを読んでいた。
随分と奇妙ではある。だが、説明としては夢より筋が通る。かもしれない。
なにより、私自身がその不可思議さを肯定するような存在として、ここにいる。
「予言書のようなもの、ですかね。」
「……小説なのだけれど。」
「未来が書かれていて、実際にそのとおりの人物が現れたのでしょう。」
「まあ……そう考えていただいても、大きくは違わないかしら。」
「では、その予言書について、最初から説明してください。」
「原作よ。」
「何です?」
「その小説のこと。原作と呼んでいたの。」
「では、その原作という予言書について。」
「予言書ではないのだけれど……。」
「今はどちらでも構いません。」
クラリッサが何とも言えない顔をした。
私は再びペンを取る。
「題名は。」
「『聖女は王冠の花となる』。」
「内容は。」
クラリッサは少しずつ語り始めた。
十八歳の少女、ひより。
彼女はある日突然、別の世界からこの国へやって来る。
聖なる力を持っていたため聖女と認められ、王宮へ迎えられる。
そこで出会うのが、王太子ユリウス・レイフォード。
右も左も分からない聖女を王太子が助け、やがて二人は互いに惹かれ合う。
しかし王太子には、すでに婚約者がいる。
アルヴェーン公爵令嬢クラリッサ。
彼女は、聖女へ王太子の心を奪われたことに嫉妬し、次第に聖女を虐げるようになる。
礼装を傷つける。
脅迫状を送りつける。
毒を盛る。
人前で侮辱する。
聖堂で危害を加える。
そして最後には、聖女の命まで奪おうとする。
それらの罪が暴かれ、クラリッサは王太子から婚約を破棄される。
そして、クラリッサは獄中で悲惨な死を遂げる。
その後聖女と王太子は結婚し、二人が共に厄災を退けたことで国は救われる。
さらに、その二人が結ばれなければ、遠い未来に世界は滅ぶ。
「ちょっと待ってください。」
私はペンを止めた。
「あなたと王太子殿下ではなく?」
「え?」
「聖女様と王太子殿下が結婚しなければ、世界が滅びると書いてあったのですか。」
「ええ。」
「間違いなく。」
「二回繰り返して読んだもの。しっかり覚えているわ。」
「……そうですか。」
私は便箋へ目を落とした。
神から聞いた話と違う。
神は、クラリッサとユリウス殿下が結婚しなければならないと言った。
二人の子孫から、未来の勇者が生まれると。
しかしクラリッサが知る異界の予言書には、ユリウス殿下と聖女が結ばれなければ世界が滅ぶとある。
どういうことだ。内容が相反している。
だが、今ここで詳細を比較し分析するには些か材料が少なすぎる。
そもそもクラリッサの言う「前世」や「原作」が何なのかすら、私はまだ正確に理解していない。
まずは目の前の事実からだ。
「クラリッサ様。」
「何?」
「確認します。」
私は紙の上に、一つずつ書いた。
「あなたは、聖女様の礼装を切り裂くつもりがありますか。」
「ありません。」
「脅迫状を送る。」
「送りません。」
「毒を盛る。」
「するわけがないでしょう。」
「人前で侮辱する。」
「近づくつもりすらないわ。」
「聖堂で危害を加える。」
「ありません。」
「殺害を企てる。」
「絶対にしません!」
クラリッサの声が部屋に響いた。
「むしろ、だから逃げたいと言っているのよ! 殿下からも聖女様からも離れて、何も起こらない場所へ行きたいの。わたくしが聖女様と関わらなければ、原作どおりにならずに済むかもしれないでしょう!」
私はクラリッサを見つめた。
一度目も。
彼女は、本当に今の宣言通り、何もしていなかったのではないか。
もちろん、今の彼女と一度目の彼女が全く同じことを考え、同じ行動を取ったという保証はない。
だが、少なくとも自分が悪役になる未来を幼い頃から恐れていた女性が、わざわざ予言書どおりの悪事を一つずつ再現するだろうか。
むしろ避けようとする方が自然だ。
ならば。
「やはり、別にいるのか。」
「何が?」
「あなたを罪人に仕立て上げた、いやこれから仕立て上げるだろう者です。」
クラリッサが目を見開いた。
「前回――いえ。」
危ない。
彼女は今、これから先自分が辿るだろう未来に怯えている。
そこで、彼女が前回結局死んでしまったことを、今のこの状況で伝えれば、事態は益々悪化するだろうことは目に見えている。
「あなたの原作で行われた犯行は、あまりにも露骨です。」
「露骨?」
「嫌がらせに、殺害未遂。しかもわざわざ証拠が残るように、普通本人がやりますかね?」
「原作にそうあるもの。そういうものかと思っていたわ。」
「私は思いません。」
犯人は別にいた。
誰かがクラリッサへ罪を着せた。
理由は分からない。
王家と聖女を結婚させたい者かもしれない。
公爵家を失脚させたい者かもしれない。
教会関係者か、別の貴族か。
今はまだ何も分からない。
このままであれば、彼女の言う通り、預言のとおり、いや、一度目と同じように事件が起こされるのだろう。
しかし、今回は、事件が起こる前から、それが起こることを知っている。
私も。転生でも、預言でもなく、回帰者として。
「クラリッサ様。」
「何?」
「今日から、体調を崩してください。」
「……はい?」
「表向きの話です。」
「ちょっと待って。何を言っているの?」
「少なくとも三か月。できる限り社交の予定をすべて取り消してください。」
「三か月も?」
「夜会、お茶会、慈善行事、教会関係の集まり。王宮への出席も最低限。聖女様とは接触しない。外出する際は必ず複数人を同行させ、どこへ何時に出て、誰と会い、何時に戻ったか記録を残す。」
「待って、待ってちょうだい。」
「公爵家の便箋、印章、封蝋も管理を徹底してください。誰がいつ使用したのか、一つずつ記録を取る。不必要な者には触らせない。」
「アメリア。」
「あなた名義の手紙も原本をすべて保存。口頭で伝言を頼む場合も記録。侍女の勤務表も残す。不審な物が届いた時は触らない。」
「アメリア!」
ようやく私は口を止めた。
クラリッサが呆然とこちらを見ている。
「わたくし、監禁されるの?」
「違います。自ら閉じこもるのです。」
「同じじゃない!」
「状況はそうですが、目的が違います。」
私は紙へ新たな項目を書き加えた。
「よろしいですか。何もしていない、だけでは足りません。」
クラリッサの表情が変わる。
「何もできなかったことを、後から証明できるようにするのです。」
「……。」
「聖女様の礼装が傷つけられた時刻に、あなたが自室で複数の使用人と一緒にいた。脅迫状が送られた日に、公爵家の印章は別の場所で厳重に管理されていた。毒物が使われた時、あなたには入手する経路がなかった。そこまで残して、初めて無実を主張できます。」
「……できるかしら。」
「できます。私が必ずそうします。」
一度目はなかった。
クラリッサは「やっていない」と言った。
それだけだった。
相手は証拠を出した。
だから負けた。
今度は違う。
「あなたの言う原作が本当に未来を示したものなら、これから何かが起こる可能性は非常に高い。」
高いどころか本当にそうなる。私はもう、良く知っている。原作よりも刻銘に。
私はクラリッサを見た。
「そして、あなた自身が起こすつもりがないのであれば、それは誰か別の人間が起こすのでしょう。」
「……。」
「ならば、こちらが先に準備すればよい。先回りして、防ぐのです。」
クラリッサは長い間、何も言わなかった。
やがて小さく息を吐く。
「分かったわ。」
「本当に?」
「あなたがこんなに冷静に話しているのが、少し怖いけれど。」
「冷静ではありません。」
「そう?」
「かなり苛々しています。」
「それは分かるわ。」
クラリッサが、ほんの少しだけ笑った。
今日初めて見た笑顔だった。
「マリエルには?」
「前世や原作について話したくないのであれば、伏せて構いません。ただ、あなたは療養に入ることになったと説明しましょう。」
「……そうした方が、いいのでしょうね。」
「それから、マリエルにも聖女様へ余計な接触をしないよう言います。」
「余計な接触。」
「あなたのために文句を言いに行く、噂を流す、聖女様を牽制する。全部禁止です。」
「マリエルはそんなこと……。」
私はクラリッサを見た。
彼女は途中で言葉を止めた。
恐らく、やりかねないと思ったのだろう。
「友人を守ることと、友人の代わりに敵を作ることは別です。」
「……耳が痛いわね。」
「私にもです。」
一度目の私は、最も率先して敵を作った側だった。
今さら他人だけを責められない。
その後、少し休んで顔色を戻したマリエルが部屋へ帰ってきたため、クラリッサは体調が思わしくなく、しばらく療養へ入るという話だけを伝えた。
「三か月もですか!?」
当然、マリエルは驚いた。
「わたくし、お見舞いには毎日――」
「毎日はやめてください。」
「なぜですの!?」
「あなたまで頻繁に出入りすれば、記録が増えて面倒です。」
「き、記録……?」
「週に一度程度なら構いません。」
「アメリア、あなた番犬から母親に立場を変えたの……?」
「誰が母親ですか。」
「だって。」
マリエルは不満そうに口を尖らせたが、先ほどまで泣き続けていた顔よりはずっとましだった。
私は二人へ、改めて聖女への接触を避けること、噂話に加わらないこと、何か異変があれば必ず私へ連絡することを確認した。
ここまでやれば、少なくとも前とまったく同じ流れにはならない。
あとは犯人を見つける。
そして、聖典について調べる。
クラリッサと別れ、公爵家を出た頃には、すでに空の色が少し傾き始めていた。
馬車へ乗り込み、私は今日書き取った紙を改めて膝へ広げる。
異界。
前世。
転生。
原作。
どれも聞き慣れない。
だが、それについて考えるのは後でもよい。
重要なのは、クラリッサが異界にあった予言書のようなものを、ほとんど絶対の未来として信じ込んでいたことだ。
世界が滅ぶ。
聖女と王太子が結ばれる。
自分は悪役となる。
だから、愛している男から自分で身を引こうとしている。
本人の望みとは正反対であるにもかかわらず。
そこまで考えた時、私はふと、一人の男を思い出した。
「……あ。」
向かいに座っていたサンドラが顔を上げる。
「何かございましたか?」
「少し、気になることを思い出して……。」
ルシアン・オルブライト。
王太子殿下の側近。
宰相家の嫡男。
淡い金髪に灰色の目をした、何を考えているかよく分からない、いつもどこか冷たい表情を浮かべていた青年。
一度目の人生で、彼は聖女の傍に最も長くいた。
聖女も彼を頼っていた。
そして彼自身も、聖女へ特別な感情を抱いているように見えた。
少なくとも、私にはそう見えた。
それなのに。
彼は誰よりも強く、聖女と王太子殿下の婚姻を推し進めた。
『それが、聖女様にとって最も正しい未来です。』
『いずれお二人は、互いを愛するようになります。』
そんなことを言っていた。
今思えば、非常に妙ではないか。
まだ起きてもいない未来を、なぜあれほど確信していたのだろう。
聖典を信じていたから。
一度目の人生では、私はずっと、そう思っていた。
けれど。
――もし、未来を記したものを信じているとすれば。
最早あり得なくはない。
今日、その実例を一人見たばかりだ。
クラリッサは、愛する王太子殿下を聖女へ譲ろうとしていた。
なら。
ルシアン・オルブライトも。
何かを知っていたのではないか。
私は膝の上の便箋を裏返し、その名を書き込んだ。
ルシアン・オルブライト。
その下に、一本線を引く。
クラリッサの次は、この男だろう。
私は、目を細め、心に刻むようにそっとその名を呟いた。




